第5節 財団法人安城女子職業学校となる

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明治44年の私立学校令の改正によって、中学校及び専門学校について定められた財団法人化の方向が、より明確な形で打ち出された。その後、この法人化への指導が強化されたようである。
本校は、大正11年12月、財団法人設立の申請を文部省へ提出した。そして、13年2月27日、民法第34条により財団法人安城女子職業学校として認可され、4月より新発足することとなった。同年4月8日登記が完了した。
理事長、寺部三蔵先生、校長、寺部だい先生であった。三蔵先生は、今迄、修身を担当してこられたが、理事長就任以来、学校経営の中軸となり、経理も、自身の手で行うなど、極めて積極的、意欲的にとりくまれることとなった。

文部大臣認定
安城女子職業學校學則
財團法人 愛知縣碧海郡安城町

第一章 總則

第一條 本校ハ女子ノ職業又ハ家政ニ須要ナル技藝及學科ヲ授ケ婦徳ヲ涵養シ且品性ヲ陶冶シ兼テ裁縫科家事科中等教員及尋常科正教員並ニ准教員ヲ養成スルヲ以テ目的トス
第二條 本校ニハ本科、専修科、裁縫師範科、准教員養成部、専攻科、高等師範科一部二部裁縫科中等教員養成部ノ七分科ヲ置ク
 ○本科ハ實科高等女學校程度ノ分科トス
 ○専修科ハ裁縫ヲ速成ニ修學スル分科トス
 ○裁縫師範科ハ中等學校、小學校、裁縫科教員及准教員ヲ養成スル分科トス
 ○専攻科ハ裁縫ヲ専門ニ研究スル分科トス
 ○准教員養成部ハ教員養成ヲ目的トスル分科トス
 ○高等師範科ハ裁縫科中等教員及専科正教員並尋常小學校本科正教員ヲ養成スル分科トス
 ○裁縫科中等教員養成部ハ中等教員、小學校教員ヲ養成スル分科トス
第三條 本校ノ修業年限ハ左ノ如シ
 一、本科 三ヶ年
 一、専修科 六ヶ月乃至二ヶ年
 一、裁縫師範科 二ヶ年
 一、准教員養成部 一ヶ年
 一、専攻科 六ヶ月乃至一ヶ年
 一、高等師範科一部二部各 一ヶ年
 一、裁縫科中等教員養成部 二ヶ年
 一、附屬幼稚園園則ハ別ニ定ム

第二章 學年、學期、休日

第四條 學年ハ四月一日ニ始リ翌年三月三十一日ニ終ル
第五條 學年ヲ分チテ左ノ三學期トス
 第一學期四月一日ヨリ七月三十一日ニ至ル
 第二學期八月一日ヨリ十二月三十一日ニ至ル
 第三學期一月一日ヨリ三月三十一日ニ至ル
第六條 本校ノ休日ハ左ノ如シ
 皇后陛下御誕生日
 祝祭日
 日曜日
 開校記念日(四月十日)
 夏期休業 七月二十五日ヨリ八月廿五日ニ至ル
 冬期休業 十二月二十五日ヨリ一月七日ニ至ル
 學年末休業 三月廿五日ヨリ四月五日ニ至ル

第三章 學科課程授業時間
(上記図参照)

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第四章 試験

第八條 試験ハ學期試験及卒業試験トス
第九條 試験評點ハ十點ヲ以テ一科目ノ定點トシ六點以上ヲ合格點トス
第十條 卒業試験ノ成績ハ操行及學期試験ノ得點ヲ通算シテ定ムルモノトス
第十一條 本校ノ教科ヲ卒業又ハ修業シタル者ニハ本校所定ノ卒業證書又ハ修業證書ヲ授與ス

第五章 入學、退學

第十二條 入學期ハ本科、裁縫科中等教員養成部、高等師範科、裁縫師範科、准教員養成部ハ四月トス専修科ハ四月十月ノ二期トス専修科ハ毎月一日ニ入學ヲ許可ス
 但シ缺員アルトキハ臨時入學ヲ許スコトアルヘシ
第十三條 各分科ノ入學資格ハ左ノ如シ
 一、本科ハ尋常小學校ヲ卒業シタル者若クハ之ト同等以上ノ學力ヲ有シ就學ノ義務ナキ者高等小學校第一學年ノ修了者ハ試験ノ上本科第二學年ニ編入セシムルコトアルヘシ
 二、高等師範科第一部、高等女學校及實科高等女學校並ニ實業學校令ニ依ル實業學校ノ卒業者且高等女學校五年制度ノ四年修業者
 三、高等師範科第二部、尋常小學校卒業者ヲ入學資格トナシ修業年限三ヶ年以上高等小學校卒業者ヲ入學資格トナシ修業年限二ヶ年以上ノ各種女學校ノ卒業者
 四、裁縫師範科高等小學校卒業者若クハ之ト同等以上ノ學力ヲ有スル者
  但シ實業補習學校ノ卒業者甲種程度ノ各種女學校ノ師範科第一學年ノ修業者及之レト同等以上ノ學力アル者ハ検定ノ上裁縫師範科第二學年ニ入學ヲ許可スルコトアルヘシ
五、裁縫科中等教員養成部ハ「高等女學校」「高等女學校實科」「實科高等女學校」、「修業年限四ヶ年以上ノ實業學校」、「小學校専科(裁縫科又ハ家事科)正教員ノ免許状所有者」「之ト同等以上ノ學力アリト認定シタルモノ」
 六、専修科、専修科ハ尋常小學校卒業者及以上ノ學力ヲ有シ裁縫ノ素養アルモノ
 七、専攻科、本校各科ヲ卒業シタル者若クハ高等女學校、實科高等女學校卒業者ハ無試験其他ノ入學志願者ハ試験ノ上入學ヲ許可ス
 八、准教員養成部、裁縫師範科ニ同シ
第十四條 入學志願者ノ數募集人員ニ超過スルトキハ各分科共選抜試験ヲ行フ
第十五條 入學志願者ハ左式ノ入學願書並ニ履歴書ヲ本校ヘ差出スヘシ
第十六條 保證人ハ親權者若クハ縁者ニシテ保證人タル資格ヲ具備スル人ヲ要ス
第十七條 退學セントスル者ハ保證人連署ノ上退學届ヲ本校ニ差出スヘシ

第六章 授業料、入學料

第十八條 入學申込ト共ニ入學檢定料金貳圓ヲ入學願書ト共ニ納付サルヘシ
第十九條 授業料月額左ノ如シ
 一、本科 参圓
 一、専修料 参圓
 一、裁縫師範科 四圓
 一、専攻料 四圓
 一、准教員養成部 四圓
 一、高等師範科一部二部 各四圓
 一、裁縫科中等教員養成部 四圓
 外ニ校友會費及校費トシテ金五拾錢ヲ授業料ト共ニ納付サルヘシ
第二十條 授業料ハ毎月五日迄ニ納付スルモノトス但シ家計困難ナリト認ムル者ニハ減免スルコトアルヘシ
第二十一條 特典ニ浴スル者ノ外ハ在學中出席ノ有無ニ係ラス授業料ヲ納付サル、義務ヲ有ス

第七章 賞罰

第二十二條 品行方正學業技藝ニ勉勵進歩顯著ニシテ一般生徒ノ模範タルヘキ者ニハ賞状若クハ賞品ヲ授與シ且甲種特待生乙種特待生トシテ授業料減免ノ特典ヲ附與ス
第二十三條 苦學制度ノ苦學生ニ対スル費用全部ヲ本校ヨリ負擔ス
 卒業後ハ適當ナル道ニ就職セシメ其不幸ナル境遇ヲ救濟ス
 苦學希望者ハ入學願書、健康診断書、戸籍抄本成績證明書、履歴書、身元證明書、父兄ノ同意書ヲ持参サルベシ直談ノ後採否決定ス
第二十四條 在學中學則ニ違背シ指命ニ從ハス風紀ヲ亂シ本校生徒タル本分ヲ失ヒ又ハ學術劣等ニシテ到低將來成業ノ見込ナシト認ムル時ハ其情状ニヨリ轉科又ハ卒業期延期譴責、停學、放校等ニ處ス

第八章 寄宿舎

第二十五條 遠隔ノ地ヨリ來學スル者ノ爲ニ寄宿舎ヲ設ケ嚴重ニ監督ス舎則ハ別ニ定ム

第九章 職員

第二十六條 本校ニ校長教員生徒監舎監及書記使丁ヲ置キ校長ハ本校ニ關スル一切ノ事務ヲ管掌シ教員ハ教務ニ從事シ生徒監ハ一般生徒ヲ監督シ舎監ハ寄宿舎ニ關スル事務ヲ處理シ書記ハ庶務會計事務ヲ處理シ使丁ハ雜務ニ服ス

従来の教育は、家庭の主婦となるためにも、また職業婦人(教師)として立つ為にも、十分耐えうるだけの裁縫技術の指導が中心であった。勿論、そのつ度、家庭に入った時の在り方や、学校に奉職した場合の心得、社会人としての礼儀、作法などの指導は行われたようであるが、その中心は、やはり技術教育であった。しかし、この頃から、はっきりと所謂、全人教育が意識的に行われるようになった。
当時の「入学案内」には、「本校教育ノ主旨」として次の様に記されている。「女人ノ天職ヲ徹底的ニ自覚セシメ、時代ノ要求セル実際的実用的、所謂社会的女子ヲ養成スル家族的女学校ニシテ、軽佻俘薄ナル女子ヲ養成スル形式教育ハ絶対ニ忌避致シテ居リマス」と。また、「本校ノ特長」として、「学資ヲ節約シ質素勤勉自立自活ヲ旨トシ、其他生活上実際事項ヲ事実ニ鍛錬シ、人格教育ノ基ニ忠実ナル人ヲ養成スルヲ主義トシ念願トシ……」と書かれている。この中に、当時の教育方針を、はっきりと読みとることが出来るではないか。
当時の在校生の言によれば、何事も最後までやり通す実践力が重んぜられ、生活時間の合理化、質素倹約が旨とされた。また、清潔が強調され、校主三蔵先生による海軍仕込みの徹底した指導が行われた。風紀問題についても厳しく、殊に服装の乱れや言葉使いは、細かく注意された。
大正13年頃から、毎日朝礼時に、後藤静香著の『心の力』という修養書を1章ずつ全員で唱和した。「天高うして日月懸り、地厚うして山河横はる……」と皆んなで唱えた後授業に入ると実に気持よかったと、卒業生は懐しげに回顧している。
徐々に整ってきた形体、内容が、この頃になると、はっきりと確立された。
裁縫師範科を中心に、本科、家庭科、専修科、専攻科の5科をもち、職員10数名、(大正13年3月現在、17名)生徒数約240名を数える程になった。

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3学期制、試験、入学、退学、賞罰等についても、はっきりとした規定がつくられ、その通り実施された。(「学則参照」)
また、特筆されてよいのは、苦学生の制度が設けられ、実際に、大正13・14年頃には3名位の者が、費用一切を学校で負担して貰うという恩典に浴していたようである。これこそ、過ぎし日に、血の出る様な苦学生の生活をした、だい先生の体験からにじみ出た尊い制度であった。
卒業生の活躍が目立ち、教員無試験検定指定校となると、本校の評価はますます高まっていった。そして、県内外からの入学希望者が急増し、大正13年春には、入学試験を実施した。4月第1日曜日に、国語、算術が課せられた。第1回入試であった。
また、この少し前より裁縫師範科2年生への編入希望生も増えつつあり、12年には7人位が県外より編入学を許され、1年から進級した者を含めて53名が2年生となった。この時の編入生は、全て県外出身者(三重2人、岐阜2人、大阪、和歌山、福井各1人)であった。情報機関のあまり発達していない時代に、どうして他県に本校の名が知れたのか、興味のあることであるが、父親が郡役所勤めをしており安城へ視察に来て知った(福井、布川のぶをさん)とか、親戚や知人から聞いたとか、安城の地に、直接、間接に縁のある人を介してであったようである。それだけに、正しい真実性のある情報によるものであったと思われる。

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県内外を問わず、遠方からの入学生が増加するにともない、校長室2階(寄宿舎)や安城町内に点在する借家(寮)では収容しきれなくなり、北明治に住んでおられた榊原先生宅や、好意を寄せられた築山氏等篤志家の離れ等を借りねばならない程になった。
そこで、新たに大規模な寄宿舎の必要に迫られ、大正12年春、校地内に、本格的な寄宿舎が竢工した。この間の事情と当時の寮について、だい先生は、『おもいでぐさ』に次の様に述べておられる。
「生徒の入学範囲が次第に広くなって来るので、寄宿舎がどうしても必要になったのですが、次々と工事が重なるので、考えあぐんでいた時、偶々、古井村の寺脇様が、小学校の古校舎で、90坪ばかりの理想的なものを校地内に移築せられたのを借用することになりました。
舎生は、自炊共同の生活を始めました。女中も炊事婦も小使さんもなく、一切を自分らの手で果してゆくのです。夏も冬も、朝は4時から炊事にかかり、終業後は7時まで、跡かたずけと翌日の用意でした。その働きぶりは実に立派なもので、他所では見られぬ壮観さでした。朝夕の掃除などには、一同うしろ鉢巻の甲斐々々しさ。床などは、いつもピカピカに光っていました。とにかく、精神修養と礼儀作法を第一として学校生活を充実させ、努力精進したものです。これは全く理事長が、軍人生活の根本義をそのまま取り入れ、自ら先頭に立って生徒訓育に当った賜物でした。」
大正13年当時、第1寄宿舎(校内)には、7部屋に50人前後、第2寄宿舎(榊原先生宅)に10数名が寄宿していたようである。

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