昭和30年短期大学・学長であった細菌学の権威故二木謙三先生が文化勲章を受けられ、学園が喜びに包まれた。昭和33年5月、今度は園長のだい先生に藍綬褒章授賞の栄が輝き、学園の歴史へ誇りに満ちた1頁が更に加わった。明治39年、女子の教育を軽視する地方農村の悪い慣習を打破するため、安城裁縫塾を開設してから約半世紀、夫君三蔵先生とともに、単なる裁縫塾に終始することなく私学としての女子への人間教育に専念してこられた功績にたいしての授賞であった。労苦の多かった園長先生の人生と困難さを伴った学園経営のなかで、ただひたすらに教育につくしてこられたことに対して、学園の関係者が等しく抱いてきた園長先生への尊敬と思慕の念は、この機に、より強固なものになった。学園の隆盛を思うとき、授賞が極めて当然で、必然的なものであるとは考えられたけれども、この当然ともいえることが、偶然の出来事のように起ったことに学園関係者は限りない喜びを感じたし、だい先生個人にたいしてだけに授賞されたのではなく、学園がその栄誉を受けたかのように感じさえもした。6月20日受賞の祝賀会が安城公園(現在の市役所、市民会館所在地)で催された。来賓、教職員、学生、生徒、園児の前に立たれた園長先生は藍色の胸紐で彩られた銀色の藍綬褒章を胸に、次のように、受賞のよろこびと褒章伝達式での感激に満ちた様子を述べられた。
「昨年10月に、安城市役所から褒章授与推薦の手続きをしたいとのお話しがありました。折角の御好意のこととて、とりあえず履歴書などを市役所へ提出しました。その後、一切を市役所へおまかせしたものの、何となく落着かない日々を送っていました。5月3日の各新聞に受賞者の一人に加えられている記事を見たのですが、喜びのなかにまだ一抹の不安を抱いておりましたところ、5月20日に文部省から正式の通知を戴きました。……5月29日、大臣室で文部大臣御手づからの藍綬褒章伝達式があり、式後、宮城内奥の表玄関で恐れおゝくも、授賞者30名の前にお立ちになられた両陛下から『………永年教育の道に努力されたことは大きな功績であった。今後も、1そう健康に注意して、永くこの道につくされることを望む』とのお言葉を賜わり、感激をしました。………私が生まれまして70余年間、いやこれからも味わうことのできないでありましょう、最大の喜びでございました。」
「私は亡き母の位牌を胴巻の中に入れて参上しました。母が生きていて、現在のこの私を見たならどんなにか喜んでくれるだろうと思いました。心の中で“お母さん、宮城の中にいるのですよ。今陛下の前にいるのですよ。”と思わずつぶやきました。母の無限の愛によって、今日の私があることを思うとき、母に感謝をせずにはいられません。」(忘れな草会報創刊号より)
ささやかな裁縫塾として始まった学園が、あたかも池に投げられた小石の波紋が大きく拡ってゆくように発展していった。ともすれば世の荒波にかき消されそうになった時もしばしばあったけれども、真心一筋に、社会に貢献する女性を育てることに歩んでくることができたのは、だい先生の尊母の先生に対する愛に報いずにいられない気持が、胸のなかで決して消え去ることがなかったためであった、とも別の機会にだい先生は述べておられる。
昭和32年の母の日より、学園の母・だい先生に感謝の赤いカーネーションを学生、生徒が一人ずつ捧げ、学園をあげてだい先生の御健康と御多幸を祈念するならわしが始まった。この年には、学生会・生徒会から羽根ぶとんが贈られた。昭和34年のこの日はとくに盛大で、「母をたたえる歌」「学園のお母さん」(鈴木楽子先生作詩・作曲)の歌が披露されたりした。同じ年に、受賞のお祝いとして、勿忘草会から御老令のだい先生の御足代りになればということで同窓生約500名の芳志による自動車(トヨタ・クラウン)が寄贈された。
園長受賞について思う(『ポプラ』9号より転載)
渡辺平三郎
このたび園長先生が藍綬褒章を授けられた。さる日その喜びのさゝやかな行事の際先生の御挨拶を承ったのであったが、まことに心にしみる感銘深いものがあった。それは里子に出される筈の身が母の無限の愛のはがいによって生家に留められ、その愛育によって今日があったというご回想であり、それ故に受賞の際も両陛下に咫尺した時も母います如く心に母を呼び母を念じられたというお言葉である。幼時に打込まれた愛育の精根はその人の一生を支配する太い支柱となることは今日の学園の認める所であるが、今日になって先生のような回想をもちうる人はまた幸福な方であると思う。
思うに半世紀に亘る長い間には1難去って又1難と行くてを阻止されたことが多かったことであろう。それを忍びのり越えて行かれたその背後には、いつも母の愛の眼があったことであろう。この事は今日こゝに学ぶもの教えるものともに深く顧みねばならぬことであろう。現実の母の姿は様々であってもその願いの本質は一つである。その願いを日日正しく美しく生活に顕現するのが世に答える道であり、答えることによって永遠の母性たらしめるものではあるまいか。先生はまさに身を以てこれを示されたのである。母を念じつゝ苦難を克服してこられた波瀾の数々が先生の顔には美しく刻まれ、母を追い思うその眼は澄んで強くもまたやさしい眼である。この眼こそ学園の眼でなくてはならぬと今も思いつづけている。
昭和37年は学園の創立50周年にあたり、半世紀にわたる学園の隆盛を祝い、後半世紀への学園の歩みに胸をふくらませながら第一歩を印した年であった。
10月には、寺部だい先生が、岡田菊治郎、大見為次の両氏に次いで、安城市で3人目の名誉市民になられた。学園における女子教育だけでなく、地域社会の教育、文化にも情熱を注ぎこまれただい先生は、昭和7年、県社会教育委員、同26年、県社会教育講師として、家族関係の円滑化、衣服のリフォメーション、台所の改善など家庭生活の諸問題の啓蒙・指導につくされた。このような永年の地域文化、教育の発展に貢献された園長先生に、文部省より昭和15年、同28年の2回、安城市より昭和37年に教育功労者として表彰がおこなわれ、昭和33年には、藍綬褒章が授与されるなど、実に受賞回数は9回にもおよんだ。女子教育と地域家庭における生活改善の先駆者として、学園内だけでなく、安城市の厚い信望を受けられたことに対して、園長先生への名誉市民推挙がおこなわれた。
昭和37年10月27日におこなわれた創立50周年を祝う式典は、だい先生の安城市名誉市民推戴式ではじまり、一層印象的で意義深いものになった。安城市長をはじめ、三河地区の公・私立高等学校長、中学校長、同窓会員など来賓者約300名、短期大学学生、附属高校生徒、それにこの年の4月に創設された岡崎城西分校の男子生徒をあわせて約2,000名が列席し、会場にあてられた体育館に華やいだ雰囲気と厳粛な気分が交錯するなかで式典がおこなわれた。創立以来、50年間にわたる学園の歩みを偲び、さらに一層の学園の発展を願う数多くの祝辞があり、物故関係者慰霊の儀、永年勤続者5名の表彰の後、だい先生寿像の除幕で式典が閉じられた。
正面向って左の築山に建立された等身大の胸像はPTA、勿忘草会、学生会、生徒会などの寄付によって、藍綬褒章の受賞と創立50周年を記念して建てられたもので、彫刻家、高村泰正氏製作による等身大のだい先生の胸像である。また、台座には金田誠一先生の筆になった頌文が掲げられた。式典参列者の拍手とともに、数人の手で純白の布が取り除かれ、寿像のだい先生は、以後校内をいつもじっと暖かい目で見つめておられる。同じ日に金田誠一先生作詩、松井辰三郎先生作曲の讃歌“私たちのおかあさま”が発表された。
讃歌“私たちのおかあさま”
作詞 金田誠一
作曲 松井辰三郎
1、時代を告げる暁けの鐘
狭霧の中に高らかに
鳴らした人は誰でしょう
世紀を分ける記念日に
仰ぐは園長 だい先生
私たちのおかあさま
2、湛えた聖いまなざしの
光りの奥を目じるしに
りっぱにみんな学びます
園長先生 お達者に
渝らぬほゝ笑みいつまでも
私たちのおかあさま
毎年の秋には恒例のように学園祭が全校で催された。クラスやクラブによる研究成果や作品の展示、バザー、スナックの開店、その他種々な催しがあった。学園祭のはじまる前約1週間は学校をあげて準備に奔走した。ことのほか前日には多忙を極め、教職員はじめ学生、生徒が深夜まで校内に泊り込むこともしばしばであった。また、学園祭には、来校する卒業生の数も多く、キャンパスのあちこちで、無沙汰をわび、近況を知らせ合う卒業生同志や教職員と卒業生が三々五々集って歓談する風景が見られた。
この年の学園祭は式典を中心に盛大な催しがおこなわれた。
学園創立50周年に、だい先生の80才の誕生の賀が重なるというまことに目出たい年にあたって、園長先生の自伝『おもいでぐさ』が刊行され、学園関係者のみならずそのほか大勢の人がだい先生の偉業をあらためて偲んだ。これは、金田誠一先生が5年間にわたり、折りにふれて聞かれただい先生の80年にわたる回顧談を綴り合わせて、140頁の本にされたものであった。恵まれない環境の中で育たれただい先生が、学問こそ人生の前途を照らす灯であると、向学の志を捨てず、逆境にあっても自虐せず、困苦のなかでよく自己の意志を全うされた様子がこまかに記された感動あふれる自伝であった。自伝の中には、先生の波乱にみちた人生と表裏のように歩んだ学園50年の歴史を読みとることができる。それは戦前(第二次世界大戦)の官尊民卑の思想のなかで、かなりの困難さをもって歩まざるを得なかった日本の私学の1典型でもあったことは明らかで、園長先生は、御自分の生活を犠牲にしてまで、学園に献身しなければならなかった状況を知るにつけ、我々は思わず頭の下がるようなだい先生にたいする敬愛の情を覚えずにおかない。しかし、このような苦難に満ちた80年の回顧であるにもかかわらず、だい先生の尊母に対する愛情と尊敬の念で全編がつらぬかれているため、ほのぼのしたものを感じさせ、一層の感動が読者の胸をうつ。
『おもいでぐさ』より
「世間の方々の想像も及ばないような、苦しかった、そして惨めであった私の過去を臆面もなく述べさせていただきました。
然し私と致しましては、悠久の宇宙の一角に無限の時間の一点に、まことに有難くも勿体ない生命を与えられまして、私なりの一生を送らせていただき、人間としての幸福に限りない悦びを味わって居るのでございます。
心静かに、八十年を回想しますと万感が去来いたしますが、その中で、家事、裁縫、手芸等は私が主となって指導し、二、三の普通学科は、小学校の校長先生にお助け頂いたのでしたが、凡ての指導は率先垂範、実践躬行主義でした。
………人の成長は、人の力によるものである。………ということであります。人の情けは、即ち、神のお力であります。神は人の力を通して偉大なお力を与え給う。之に対して行住坐臥、只々感謝あるのみであります。この感謝恩報の気持が身内に、異常な力を湧き立たせてくれるのではないでしょうか。
思えば、子供の頃は、村人の情けに励まされて親子二人は、細々ながら生き抜いて参りました。貧しい中から、学に志したのは取分け亡き母の力によったものであります。女子教育五十年の道には又、大臣、博士から教職員学生生徒にいたるまで、それこそ各方面の数限りない人々の力が、私を歩ませて下さったのであります。
今となってみると、苦しさの連続であった過去の生活も、そのまま楽しい思い出となって生まれ代って参るのでありますが、特にあの私塾時代を思うと懐しさと楽しさとが拡大されて来るのです。私塾は元来、家庭教育の延長でありますので、何事も身を以て範を示さねばなりません。当時、私は教室の片隅を住居として居りましたので、朝から晩まで、二十四時間全部を、生徒さんと一所に生活し、苦楽を共にして居りましたので、全くの一家族でして、不知不識の間に師弟同行の生活を送ることが出来たのであります。
五十年たった今、多数の卒業生諸姉の努力と活躍による実績等が、信用の主流となりまして、どうやら世間からも認められるようになり、わが国の文化の向上にいささか寄与貢献して参りました。
然し、私は決して現在の有様に満足している者ではございません。将来に向かって、更に更に拡充発展させてゆくための構想を抱き続けているものであることは、前に述べた通りであります。
こうして、追憶の記録を作りましたのも、決して、単に「おもいで」に耽るためではなく、過去の成敗を知ることによって、現在に対処し、更に将来への指針たらしめるものに外ならないのであります。」
『おもいでぐさ』追想(『アスナロ』6号より転載)
金田誠一
昭和33年春、学園に入ると間もなく、私を待っていた大仕事は、園長宿願の短大豊橋移転についての敷地問題であった。旧軍隊や工場の跡、丘陵や緑地等前後8ヶ所の現地踏査、関係各方面との折衝依頼契約等のために3年余に亘って、園長先生のお伴をした。その間、車中や訪問での待合せ中等で、数々の思い出話を承ったのである。それは何れも私ひとりが聞き流すには惜しい程、興味も深く、又貴重な示唆を含むものであった。
先生ご自身も記録に残したい宿望を持っておられたので、期せずして白羽の矢を向けられてしまったのである。それから約4ヶ月、全日曜日を私宅に篭って、先生多年のメモを整理し、心に刻まれたお話を継合わせて筆を運んだ。数回に分けてお目にかけると、いつも嬉しそうに首肯かれたが、唯一度だけ、I男爵家との関連記事について削除を命ぜられた。それは「事実は小説よりも奇なり」の最も典型的な部分で、力を入れた所であったが、過敏なまでに慎重であった先生の意に従ってしまったことなど思い出される。
とにかく50周年を目前にして忽卒の間にまとめた私記である。書名も同窓会の「勿忘草」とも思ったが、考証の不備等も考えて、気軽な現名を採ったし、また拙筆なので「自叙伝」の叙を省いたりした。ただ労苦を共にして建学に献身されたであろう御夫君三蔵先生に触れる所が稀薄であったことは惜しまれる。
岡崎盲学校の村瀬校長は一読感動して、自ら全生徒を前に朗読して発奮させ、某婦人は4人の娘たちの嫁入道具に加えたい等々、各方面への反響、学内における再版要望の声も屡々聞いている。それらは、史実の正確な校史を知り得た感動とは別に、先生の人間像と、それに誘発された建学の特異性への思慕であろう。完備した正史と共に、更に修正が加えられて学園推進の両輪とせられる日を期待する。
『おもいでぐさ』を読んで(『アスナロ』6号より転載)
普2A 島田昌子
今日の学園に至るまでの、園長先生の御苦労は私達には、はかりしれないものがある様です。しかし、はっきり言ってこの「おもいでぐさ」を読んでも深い感銘を受けることは、出来ませんでした。現在こうしてこの学校で勉強出来るのも、園長先生の涙ぐましい御努力の結晶から生まれたものには違いありませんが、しかしそうした園長先生の学問に対する意欲というものは現在、全生徒に受けつがれていなければならないはずなのに、決して現在全生徒に受けつながれているとは思えません。現に、こうして書いている自分でさえ、学問に対する追及は決して満足すべきものではありません。常に遊ぶ事を考え、常に学ぶ事を避け様としているからです。ですから、この本を読んで「ああ! 素晴らしい。私はこんなに立派な園長先生を持って幸福だ」とは感銘を受ける資格がないような気がします。しかし、そうだからと言って、園長先生自身こうした自分自身の自叙伝をお書きになって私達生徒に何を望んでいらっしゃるか。を考える時、私は何か心の糧となる何物かをこの「おもいでぐさ」を読むことによって得なければならない様な気がします。ではその心の糧とは何かと尋ねられても私は返答することは出来ませんがただ抽象的にくみ取らえることは出来ます。実際、こうした本は端で「素晴らしい」とか「感銘した」とかいう前に、本当にいばらの道を歩んできた人でなければ園長先生の幾多の苦労は、理解する事が出来ないだろうと思います。ですから安易な平凡な生活をして、17年間過ごしている現在、感想文を書いて下さいと言われても、私にはただ讃美する言葉でしか書きようがありません。しかし、それだったら嘘になります。この本に限らず、すべて讃美を与えなければならない様な、見ならわなければならない様な、あるいはお手本にでもしなければならない様な本に対して、それが作り話でなく本当の話であればあるほど、反抗的になって真実のものではない様な気がしてならないのです。それは、明らかにまだまだ世間の道を歩いた事のない安易な者の言うことばなのかも知れません。ですから私がもっともっと心に成長がみられて、何事も素直に受けいれられる様になって苦労の味をしめた時、真に園長先生の真心こめて書かれた「おもいでぐさ」の果たし得る役割があるのだと思います。それは私にとって10年後あるいは20年後たって始めて理解しうる出来事かも知れません。その目的が達せられるまで、この本を手離してはならない様な義務的な重圧感がおそった。これはどこからくるのだろうか………。
『おもいでぐさ』を読んで(『アスナロ』6号より転載)
普1A 水田美智子
このたび、安城学園の創立50周年をお祝いして、盛大に挙行されました、数々の誠に有意義な行事と共に、私達生徒一同に下さいました、寺部だい園長先生の「おもいでぐさ」を、拝読させていただき、それより園長先生の御不幸な幼時期の生い立ちから少女期、そして御勉学の御苦労な生活をどの様に乗り越えられましたかを一読して、胸に迫りくるものがあり、涙ぐましい感じが致しました。けれども、世の中はよく出来たもので、“人力を尽くして天命を待つ”のたとえ通り、天は自ら助くる者をお助けになりました。次々に押し寄せる逆境の波に呑まれず、御自分の進むべき道を突進された、若き日の先生の勇敢な行動には、目を見張らずにはおられません。現在私達に、そのような勇気があればどんなでしょう。きっと自分の道が開ける事と思います。今日私達が実行出来得る事ではありません。明治黎明時代から平和な大正時代、そして昭和の戦争時代と目まぐるしい世の中の浮沈を乗り越え、その都度、学園の発展に御努力なされ、今日見る様な立派な学園に育て上げられました事は、他の諸先生方の御協力もありましょうが、誠に大変な事であったろうと、つくづく思いました。今年は又、一段の飛躍がある様に、私は学園の生徒の一員として心から学園の発展を御祈りしております………。
長年の「功をなしとげた」寺部だい園長先生のかくしゃくたる御姿を、学校の庭などでお見受けいたしますたびに、私達は一層の愛情と敬意をおぼえずにはいられません。そして、それと共に自然にだい先生の長寿を、心から御祈りする気持も湧いてくるのです。又、それと同時に、私達は、より一層よい生徒になるように努力する事を誓わずにはいられない様な気持になりました。
尊き、だい先生の信念は今後も、学園の気風を貫いていく事でしょう。或る冬の日、うららかを日射しをあびて、校庭の一隅に立つ先生の胸像を見ました。思い出草にある、かずかずの悪戦苦闘のあとかたも、今はなく、その面影は慈愛に満ちて、さながら2,000名の全生徒を見守っている様に………。私達の敬愛する園長先生の御健康を、心から念願するばかりです。
『おもいでぐさ』を読み園長先生を讃える詩(『アスナロ』6号より転載)
家3A 久野勝子
三河の原の寒村に
初声あげし一幼女
母子共々生きる為
苦難の道を切り開き
艱難汝を玉にすと
この名句をば身を持って
身をけづりつゝ幾春秋
築き上げたる学園は
何千万の人の子に
教え導く教育とは
学舎築きし先生の
おもいでぐさをひもとけば
ありし昔がしのばれて
七難八苦ものかわと
万里の波涛乗り越えて
裁縫塾や学校と
希望に全力つくす折
突然起りし母の死も
重なる幾多の苦しみも
のり越え立てし専門学校
国の文化につくさんと
夢の短大実現し
万余の生徒導びきて
春風秋雨八十年
偉大なるかな園長の
かよわき女の真心が
育て上げたるこの偉業
ともに学びし同窓も
母校の歴史と園長の
教えを我等の鏡とし
苦難に打ち勝つ人として
強く正しくいきぬかん
強く正しくいきぬかん