第1節 安城女子職業学校と校名を変更

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だい先生は、裁縫女学校開設以来、裁縫を通して、実力をもつ家庭婦人の育成と共に、裁縫科の教員養成に力を入れてこられた。「男は手習い、汝は裁縫」といわれた当時の一般的風潮の中で、女性の地位向上と生活能力の開発のためには、裁縫を教えることから更にすすんで、小学校教員の養成を目ざすことが、最も適切であったからである。そして、涙ぐましい努力の成果は徐々に上り、毎年数名ずつ小学校裁縫専科正教員の検定試験に合格するようになった。この検定試験には、本科、専修科の生徒の中の希望者を受けさせたのであり、いわば二兎を追う形であった。従って、だい先生としては、このままでは、これ以上検定試験合格者を出すことは無理であると考えられたようである。この壁を突き破るにはどうしたらよいか。その突破口を、だい先生は、校名変更と科の新設に求められた。現在小学校に奉職中の助教員でも多数の不合格者を出すこの検定試験に対処するには、まず生徒の意気を高め、その気持を一新しなければならない。そこで、裁縫により身を立て、小学校教員を職業とする人物を養成することを目指して、校名を安城女子職業学校とした。また、検定試験に合格出来るだけの高い技術と知識を身につけるために専心出来るようにと、師範科を設け、その目標をはっきり打ちだしたのである。そして、大正6年、安城裁縫女学校は、新たに、安城女子職業学校として出発したのである。記録によれば、「大正6年11月22日、私立安城女子職業学校と校名改称開申」とある。
当時、だい先生の母校、東京裁縫女学校と共に、裁縫を主として女子教育の面で全国的に有名を馳せていた学校に、共立女子職業学校があった。同校の創始者、宮川保全氏は、東京裁縫女学校の設立者、渡辺辰五郎氏と共に国立東京女子師範学校の教授であったが、明治18年に職を辞し、共立女子職業学校を設立した。(この時、渡辺氏は、自らも和洋裁縫練習所を開くと共に、共立女子職業学校の主席教員として宮川氏を助けた。)これは何故か。宮川氏はこう言っている。

「東京女子師範学校は、僅々10年の間に教科、生徒の風俗共に、漢、和、洋の三様に変化し、従ってその10年間の卒業生は、区々異様の教養を以て社会へ出た。結局、官立学校は、その長官の代る毎に主義主張を変更し、生徒は全くその方向に迷うの感があった。私はこの有様を見て感慨に堪えず、是非とも女子のために私立学校を設立して、一定の主義の下に教育を授けねばならぬと痛感した。」(『共立女子学園70年史』による)

こうして発足した共立女子職業学校は、主として宮川氏の見識によって成った設立の根本精神が、一般的要求によく適合して、多くの生徒を引きつけ、2回の拡張移転をしてもたちまち手狭になる程の盛況だった。どこに、そんな魅力があったのか。その頃の東京にあった、東京女子師範学校、同附属高等女学校、跡見女学校その他数校を出ない学校のいずれもが、「教えるところ女学に傾き、技芸を顧るものがない。普通の女子は小学校を卒えても更に進学する学校がなく、」たゞ遊芸をこととして勤労に従うものがない。「女子に生活能力がないことと、道徳性が低いことを改めてやるのが、今日国家の急務と考え」、女子のために職業学校を建てた。この様に、女子の自活生活を目標にし、教科目を裁縫、編物、刺繍、造花の4つを軸とし、徳性ある職業女性の育成を目指した明確な教育観が、時代の要求によく合致したのである。そして、前述の様に予想以上の生徒を集めたばかりか、文部省、宮内省、大蔵省の官辺からも共鳴者、協力者を与えられ、生徒の作品は、やがて明治天皇の強い御関心の的とさえなったのである。(『人物を中心とした女子教育史』平塚益徳著参照)

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一つの壁を突き破るのには、この職業教育こそ、最も適切なものであると、だい先生は考えた。勿論、東京と安城とでは、社会的条件に違いはあったが、時代の趨勢においては共通するものがあった。当時、碧海郡でも、補習学校が各地に設立され、女子の実業教育の必要が叫ばれていた。しかし、それは、役に立つ主婦の養成か、家業(主として農業)を助ける婦人の養成が目的であった。これに対し、経済的にも独立した婦人を養成すること、即ち職業婦人の育成を目指しただい先生は、熟慮した後、ためらわず、安城女子職業学校と改名したのである。当時のこの地方には、職業学校と名づけた学校はなく、奇抜の感があったかも知れない。しかし、この名称こそ、だい先生が時代の方向をはっきりと見通した上で、時代の要求を先取りした何よりの証拠であった。
この後、甲種中等程度実業学校に昇格すると共に、教員養成を中心とする本校の職業人養成の教育は、社会的に認められ発展の方向をたどることになったが、その背景には、女子の就学率の著しい上昇と、それにともなう教師不足とがあったのである。日清戦争に続く明治37・38年の日露戦争後の日本の国運の隆昌という国家的背景にあわせて、産業の発展に伴う国民一般の生活水準の上昇は、従来家庭内に閉じこめられがちであった女子を学校教育面に押し出した。明治30年度では50.86%であった小学校女子就学率は、35年度で87%、41年では96.86%と急上昇し、大正中期には、ほとんど全員が初等教育を受ける様になった。こうした国民教育の著しい発達は、教師の不足を生み出し、しかも教育費の負担軽減を狙った町村側の要求と、第一次大戦による好況から男子が一般企業へと走った為に、女教員への需要がとみに増大したのである。

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