第4節 短期大学の進展

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短期大学においては、昭和37年に家政科が新設されるまで、被服科、生活科の2コースだけであった。被服科においては、だい先生のお考えもあって、生活に直結した、働く着物、改良生活着やリフォームされた着古し衣服の作製技術を体得するために被服構成の実習に多くの時間を費していた。秋の学園祭には学生の手になる種々な作品が展示された。なかでもとくに巧みに廃物利用された近代的センスを織り込んだ生活改良着の展示に学園を訪れた人々の興味が集った。しかし昭和33年から35年にかけて消費生活の内容が変りはじめた。消費革命という言葉がジャーナリズムで使われ出し、カラーテレビの放送が開始された昭和33年ごろから、店頭に氾濫する既成商品の購買をかり立てるテレビ・コマーシャルが本格化した。一方輸入に頼っていた合成繊維がこのころより国産化され(テトロン)衣料の生産が大いに増大し、人々の衣生活にたいする意識が変革し、手作りの洋服で衣に対する欲求を満たそうという“洋裁ブーム”が終りを告げ、着ることそのものを楽しむ衣生活へと変っていった。それゆえ、短大被服科の教育内容も従来の構成技術の向上一辺倒から、衣料商品に対する正確な知識の獲得、ファッションと個性という一見矛盾する両者を統一する主体性の確立にも目を向けるよう変化してきた、被服材料学、染色学、被服史、デザインなどの科目強化がおこなわれていった。昭和32年秋の学園祭には、被服科学生によって、当時被服史を教えておられた江馬務先生の指導によって、西洋服装史ショウがおこなわれ、学園内外の注目を浴びた。

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生活科では、食べるのが精一杯という時代がすでに昭和20年代の後半に終ろうとしており、食への欲求の時代から衣・住に人々の目は移行しつつあったにもかかわらず、昭和30年代を通じて学生数は増加の一途をたどっていった。栄養が国民の体位向上と健康の維持、増進に必要なものであるとの認識が国民一般に普及し、それに従事する栄養士が女性にとって、最適の職業であるという考え方が根強くあったためで、教育の内容も栄養士の養成に主目標がおかれていた。昭和30年から35年にかけて、集団給食をおこなっている病院、工場、小学校や栄養の指導を地域住民におこなっている保健所を訪ねての実習が、春夏には休暇を返上しておこなわれたり、三谷海岸で毎年小・中学生を集めて、約1ヶ月にわたって開かれた臨海学校の食事のすべてを受持ち、限られた予算のなかで、栄養が十分に考慮された献立が作られ、食品の購入から、食器の跡始末まで、ほとんど学生の手で実施されるという形式の実習がおこなわれ、集団給食技術の向上に特色をもった教育がおこなわれていた。昭和35年ごろからインスタント・ラーメンに代表される種々な加工食品の出現は、単に調理技術の変革をもたらしただけでなく、家事の合理化を一層促進し、それによって生じる余暇の利用など食生活と食生活意識の変化をもたらした。また食品の添加物による食品公害、一見豊かそうな食生活にひそむ栄養のアンバランスなど、現在のわれわれが当面している種々の食に関する問題も提案されはじめた。このような状況の変化をいち早く予見した生活科において、従来からの職業教育偏重を脱皮して主体性のある消費生活態度の育成と食のもつ現代生活における意義の認識獲得へと教育の方向の変換をはかる努力がおこなわれた。また、生活科の食に関する科目を総合化して前記教育を徹底させるために、昭和35年よりゼミナールが開始された。このような試みは、当時、全国の短大では全く行われておらず、教師と学生の対話の場としても、年々増加していった学生数の増加によって起るマスプロ教育の弊害の除去に早くから心をつかっていた。

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女性の職業意識変革が起って、短期大学においても就職を希望する学生数が増え、卒業生の社会における活動範囲も拡っていった。彼女達のほとんどは、卒業後かなりの期間、それぞれの職場で大学で得たものを社会へ還元することを望み、大学などの研究助手、栄養士、デザイナーなどとして巣立っていった人も多かった。また小・中学校の教員を志す学生の数も少くなく、毎年の教員採用試験を受けた学生は数十名を数え、県下の短大では年々1・2位を争うほどの合格率を示してきた。この傾向は、学園創立以来の伝統として、現在に至るまで続いている。また、毎年数名が出身地域社会での奉仕活動を志し、生活改良普及員となった。現在、愛知県で活躍している学園出身者の数は、県下全普及員の約4割を占めていることは特筆にあたいする。

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昭和30年ごろから、教授組織が整備され学内での研究活動が活発におこなわれるようになった。稲垣翠・榊原住枝先生らの農村栄養実態調査報告が栄養改善学会で、米川五郎・江川元偉先生らの調理の栄養学的考察に関する研究が家政学会や日本栄養食糧学会で報告されたのは昭和32年のことであった。これ以後、安城学園で行なわれた研究が、盛んに学会で発表されるようになった。昭和35年に気管支喘息のため逝去された故加藤くりゑ先生が和服工作についての多年の研究を家政学会で発表され注目されたのもこのころであった。昭和34年には、はじめて家政学会中部支部総会が安城学園で開かれた。学園関係者の研究発表もおこなわれ、約300名の家政学全会員の出席を得て盛会であった。

学生生活において、専門科目の講義や実習に追われ勝ちな毎日に、何かうるおいを持ちたいという欲求が根強くあった。昭和30年の夏には故寺部二三子先生を引卒者に、第1回の北海道旅行がおこなわれた。当時は個人による旅行熱はそれほどではなく、かなり費用を要したのに短大時代での一つの思い出として多数の学生が参加した。旅行の計画は、さいはての北国へ夢をはせながら学生の手でおもにおこなわれた。その後昭和44年に中断されるまで毎年の行事として続けられた。

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昭和37年には、家政科が新しく誕生し被服科、生活科の両科しかなかった短大は、3科の構成になった。このころには、短大への進学率――とくに附属高校からの――が高まり、短大への入学希望者数が、昭和36年には、昭和30年ごろの約2倍に当る200余名に達した。そして同時に家政系の学科を志望する学生の質にも多様化の現象が見られるようになった。即ち、従来の短大学生の中には、被服、食物の専門的な知識・技能を修得する過程の中で、自己の生活像を確立したいと希望するものが多かったけれども、家庭生活や社会生活における人間、社会、文化の相互的な関り合いを巨視的な視点で解明したいと望む学生がでてきた。科学技術の急速な進歩が社会構造をより複雑なものにしていく現代において、人間が単に受動的に外界に適応してゆく限り、家政学に対する社会的要請にこたえることは不可能で、外の世界へ積極的に働きかけをおこなうなかで、自己を生かすことのできる人間を教育の場で養成することが家政学の使命であるという家政学創立の理念のもと、カリキュラムが設定された。食物や被服に関する科目に加えて、人間と社会、人間と文化の関係を認識する基礎知識と、これにもとずく生活諸現象に対する総合的判断力の養成を目的として一般教養科目に重点がおかれた。このようにして、あまりに分化してしまった現代の生活文化の中に統一を見出すことのできる感覚を養い、新しい生活文化の担い手として、将来の良き妻、良き母、良き社会人として出発できる人の養成がはじまった。この科に司書、司書教諭の課程が設けられたのは、生活像を形成する各要因の総合化にあたって、知識の整理が必要な方法であると考えられたからで、整理法のもっとも具体化された図書の整理法がとり上げられたのである。

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学生会の活動は盛んであったが、クラブの数はまだ多くなく、昭和32年ころまでは文芸、新聞、写真、美術、バスケット・ボール、卓球の6つであった。昭和31年、文芸誌『サボテン』が文芸クラブによって創刊された。強さと優しさをあわせ持つサボテンが毎年どんなことがあっても必ず一つの芽を出すように雑誌サボテンは学園とともに発展していくようにという願いが誌名にこめられた。文学的色彩の薄い学生生活のなかで、この文芸誌は、オアシスに咲くサボテンの花のような存在であった。昭和35年ごろにはクラブの活動も一層盛んになり20余りを数えるようになった。毎年、学外の定期演奏会を開いてきた合唱団、自動車時代への前ぶれとして自動車クラブなどもこのころに誕生した。これらのクラブの多くは、ほとんど学生の手で運営されていたにもかかわらず、学園の課外活動において中心的な役割を果すことを意識し、地域社会との密接な関連を求めながら、学園内外における発表会・会誌発行や大会参加など活発な活動をおこない、時は全学生70ないし80パーセントがクラブ員として所属するほどの盛況であった。

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短大バスケットボール・クラブの活躍ほど学園の内外をとわず、全国的な拡りをもって目を見張らすものはなかった。昭和32年4月の創部後、わずか3ヶ月で西日本学生選手権大会に初参加し、初優勝した。以後、今日にいたるまで数々の輝かしい成績を残して来た。昭利35年、念願の全国日本学生選手権を獲得してから、短大チームが大学の強力チーム、とくに体育系大学のクラブを相手に実力を発揮し、連続6回の選手権獲得、対学生216連勝などの偉業をとげたことは、日本学生バスケット界における驚異の的であった。
これは、出身高校時代すでに比較的高水準の技能を備えていた選手諸君が、さらに激しい練習に耐えて、ほぼ完成に近い個人的集団的バスケットボールの技術を得、それらを試合に発揮した結果によるものではあったが、昭和33年、監督就任以来、たえず内外の新しいバスケットボール技術をチームに導入したり、新しい戦法を編みだすことに、熱意と努力を傾注してこられた2代目監督・石田正一先生の功績を見逃すことはできない。そして毎年、多くの卒業生が全国の一流バスケットボール界に加入し、著しい活躍をしており今や安城学園チームは、日本女子バスケットボール界の名門として全国的にその名を知られるようになった。一方附属高校バスケットボール・クラブも昭和35年ごろから徐々に実力をつけ、昭和40年には、国民体育大会で初優勝の栄冠に輝いた。以後、附属高校、大学の栄光の道を歩む選手の数が増えてきた。
なお、バスケットボール・クラブ第1回生のなかで、選手と学業の2つの生活を見事両立させて、優秀な学業成績をえて、文部大臣賞を授与された小島ヒロ子さんの快挙も付記すべきことの一つであろう。

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初優勝のころ 石田正一
3位、3位、2位の成績で迎えた創部4年目、昭和35年の暮の全日本学生選手権大会である。場所も名古屋市金山体育館でホームグランドに近い。初優勝とは緊張し感激も一汐と思うのだが、周囲から何やかや騒がれる割には落付いていた方だと思う。闘う前から優勝候補筆頭といわれ自分でも90%は勝てると考えて、むしろそれ迄の3年間何をしていたのかと振り返ってみたりもしていた。当時附属高校と同居時代だったし寺部だい園長も、週に二、三度は体育館へ足を運んで我々を激励して下さっていた。充分かよえる名古屋だが2回戦頃から念のため名古屋へ泊る配慮もして戴いた。理事長だった二三子先生は闘う前は「勝つことばかり狙って余り無理しないで」と言われていたが終ったら「私の念願がかなった本当に有難う」と感激しておられたことがつい先頃のことのようだ。
朝日新聞の評にも「勝つべきチームが順当に勝った」とあったが当時の高校生の中でも、5指に入るような優秀な選手が静岡精華や岡崎高から入学した年だったし短大のハンデキャップなどは全く顔中になくお茶の水、日女体、最後は当時西日本学生でも覇を競っていた京都女大を大差で降しての初優勝だった。選手の中には米田和代(現堀江)先生もスターで参加していたし、彼女の2年目も楽な2連勝の存在として光っていた。安城駅前での盛大な出迎えや駅からのパレード等で面映く実にてれくさかったこともやはり初優勝だからだったのだろう。思えば6連勝のきっかけを作ったのだからそれ迄の土台造り、優勝ムードを部の中へ植えつけた点での功績がたしかに大きかったと今にして思える。

初優勝の思い出 武藤孝子(旧姓佐藤、昭和36年短大卒)

昭和34年春。私は母につき添われて安城駅についた。「ちっちゃっけ駅だな。」と母は言った。急行寝台と準急を乗り継いで約20時間、秋田からやって来たのである。
寡婦である母は、秋田市内に職を探し、平凡な生活を送ってくれることを願ってもいたし、私もそのつもりでいた。前の年、私の高校のバスケット部は、富山国体や優勝し、やっとバスケットの面白さもわかりかけてきたころでもあり、優勝の自信が私をかりたてたのかも知れない。石田監督の要請を口実に、母を説き伏せ、また2年間の選手生活にふみ切ったのである。
当時の安城学園は体育館もなく、空っ風の吹きつけるアウトコートで、園長の寺部だい先生も、私達の練習を見ておられたことが印象的であった。また冬の4時半からランニングを始めて、その後安城北中の体育館を借りて練習したこと。けが人が出て、監督の石田先生や、マネジャーまでをかり出してプレーをした足助の合宿と、さまざまな思い出が脳裏をよぎる。「練習は自分のプレイヤーとしての限界への挑戦。真の友情とは孤独。」ともすれば、逃げ出したくなる自分をなだめながら、黙々とボールを追った日々であった。
インカレ優勝。努力をした者への結果が、初優勝という形であらわれた事は幸運であった。今は勝って当然。一部の者でしかない勝利の味を、あのころは、非常に新鮮に学園全体、いや安城市民が皆、自分のことのように喜び祝ってくれたものだった。
この大会はじまって以来、はじめて名古屋の金山体育館を会場にした全日本学生バスケットボール選手権大会は地元、安城優勝の舞台として効果満点だった。それゆえ監督の石田先生をはじめ選手は緊張の連続だった。会場の近くに宿をとり、万全のそなえをして迎えたこの大会。
軽快なリズムの開会式。歓声がわき起る体育館、いやが上にも興奮をおぼえたものだった。1回戦、2回戦と順調に勝ち進み決勝の相手は予想に反し京都女子大。
無我夢中、力いっぱい走り回る中、ピストルの音で試合終了をつげられた時には勝ったという喜びと、一つのことをやりとげたすがすがしい気持だったことをおぼえています。この日を待ち望まれていた今は亡き園長先生、二三子先生の御好意を忘れることはできません。バスケットを愛しバスケットを生活の一部としておられる石田先生の努力にも頭がさがります。私達はこの良き思い出を、青春の1ページとして、大事にしまっておきたいと思います。

20点以上離して勝とう 佐藤いさ江(旧姓市川、昭和36年短大卒)
「20点離して勝とう」石田先生の試合前の言葉が、今でも、なつかしく、うれしい思い出として残っています。
昭和36年のインターカレッヂの決勝戦は、名古屋金山体育館で京都女子大を相手にして行なわれた。前の年は決勝戦で4点差で、その前の年も同じ日体大に負けて、どうしても学生日本一になれなかっただけに、大会前の練習は、日体大に勝つことだけを目標にしぼっていました。
初の学生日本一を目指すチームは、選手10名、マネジャー1名の少家族。そして、インカレ前の練習試合で松阪サンが骨折して、5対5の時は石田先生が加わらないと出来なかった程。その上、体育館探しが大変で、満足な練習は出来なかった。でも、日体大に対する執念は、少ない人数が、短かい時間でやる練習の密度を濃くし、悪条件を充分補なったように思います。
それだけに、京都女大が決勝の相手に決った時は、いささか拍子抜けしたのはたしかです。資料の少ない相手に対し、「20点以上離して……」の言葉は、後で考えてみると、絶対に勝てるという自信を、皆に与えてくれたものでした。試合内容は余り良くなかったようで、今ではほとんど記憶に残っていませんが、残り3分になってギブスをはずしたばかりの松阪サンを試合に出場させてくれ、彼女がビッコをひき、泣きながらプレイをしたことは、全員で勝ちとった日本一の気持が一層強く、生涯忘れることはないと思います。
勝つべくして勝ったとはいえ、やはり初優勝の気持はなんともいえないものですが、相手が日体大でなかっただけに、その実感がなかなかわきませんでした。
今、当時をふりかえってみると、亡き二三子先生に、「オイチは冷血動物だね」なんていわれて苦笑したこと、小型トラックで市中行進し、顔を赤らめたこと、禁止されていたパーマネントをかけさせてくれたこと等々、そのひとつひとつが、今でもなつかしく思い出されます。
そして2人の娘が大きくなってバスケットをやるようになったら、話してやりたい思い出話なのです。

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