第6節 いよいよ女専認可さる

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昭和4年3月23日、文部省に安藤参与官を訪ねた山崎延吉先生は、安城女子専門学校の認可されない理由が、単に財団法人の基本金の額の乏しさにあるのではなく、その教員陣の弱さにあることを知って、期するところがあり、校長就任の意志を固めたのである(「興村行脚日記」)。
昭和4年3月に認可が見送られることになった4月以降、山崎先生と本職業学校との接触が急激に強まったことは、その「興村行脚日記」の記述が示しているとおりである。
昭和4年11月25・26の両日にわたって高松宮殿下が愛知県農村視察にくることになった。25日はとくに安城の農事視察ということで、山崎先生が案内役をおおせつかった。直接本校を視察することはなかったが、女専設立の経緯について殿下に申し上げたものと思われる。12月2日に山崎先生は、本校において「高松宮殿下の有難き御思召を伝へて女子の覚悟を促し」ていることにもそれをうかがうことができよう。
このような山崎延吉先生の積極的なうしろだてによって、この年の12月には、文部省の野村禮譲督学官から「君がやるならよかろう」(『我農生回顧録』)といわれるまでになったのである。
こうして昭和5年3月20日付で申請した山崎延吉先生の女専校長就任の件は、同年4月16日付で認可された。

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つづいて、田中隆三文部大臣あてに、専門学校教員の「開申」ならびに「申請」がなされた。その開申書によれば、安城女子専門学校の担当教科と教員のスタッフはつぎのとおりである。

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(上記図版「開申書による安城女子専門学校の担当教科と教員のスタッフ」参照)

このうち、椎尾辨匡先生は、普通選挙法による最初の衆議院議員として山崎先生の同志であり、昭和5年2月の総選挙にも立候補し山崎先生も積極的に支援活動を行なったが、惜しくも落選していた。内藤乾蔵先生は札幌農学校の出身で、安城農林の先生をしていたこともあり、いわば山崎先生の息のかかった人であった。また、渡辺庸一郎先生は現職の東京帝国大学助教授で山崎先生の女婿であった。昭和3年に女専の先生として迎えられた今枝(のちの森)先生のほかは、いずれも山崎先生の力で本専門学校教員として名を連らねたといってよかろう。「開申」に名を連らねたのは、すべて学士号を有し高等学校高等科教員免許状の所持者で、文句なしに専門学校教員として認められる先生方であった。

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これと同時に「申請」された教員は、写真に見るとおりである。高橋イネ先生と植村いち先生を除いて、すべて職業学校の専任の先生方であった。高橋先生は東京女高師の出身者で、昭和4年から、とくに専門部の、「家事科」の指導者として月1回出張教授に来ていた方であり、植村先生は医者の奥さんで、自らも検定で女医の資格を取って医者として活躍されている方であった。申請書に現われるのは、資格の上で専門学校教員としては不足があるが、その経験と実力において専門学校教員にふさわしいと認められる先生方であった。
こうして、安城女子専門学校は、全国の家政系女専としては11番目、愛知県内では金城・椙山につぐ3番目の女専として正式にスタートすることになったのである。
昭和3年4月以降入学した専門部の9名(本科5名、別科4名)は、晴れて安城女子専門学校第1回卒業生として認可の翌年(昭和6年)3月23日社会へ巣立ったのである。

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女子専門学校長として 吉地昌一
(『我農生30年興村行脚』より転載)

今日の教育は、都會本位であって、高等教育の機關は、悉く都會に集中されてゐる、斯る制度の下に於て、農村の疲弊は當然の事である。
殊に農村婦女子の教育を、都會の只中に於て行はしむることは、浮薄の風潮に化するのみでなく、農村を忌み、虚榮を高める。かくては内助者として、または母として、次代の國民を育む上に、好ましからざる影響を及ぼすことは必然の至りである。
誠に女性は地の護りである、女性が土を愛し、勤勞を尊び、尊農愛村の信念が強ければ、必ずや農村の根柢は固く、農村の振興も、農民文化の建設も、必然に到來するものと信ずるのである。即ち尊農愛村の女性が多ければ多い程、農村は幸福の繁榮を來すものである。
然るに今日の女子教育は、徒らに非農村的教育を主眼とし、受くるものも教へるものも、それを以て誇りのごとく思惟してゐるが、この觀念は農村を根柢から疲弊ならしむるものであって、誠に多くの人々が、農村の振興を大聲叱呼してゐるにもかゝはらず、女性が農村に於ける職分と使命を閑却してゐる事は慨歎に堪へない。茲に山崎先生や寺部氏等は、深く感ずる所あり、農村本位の女子教育を隆昌ならしむることが、農村振興の根本にして、捷徑であるとなし、都市偏重の觀念を打破して、昭和5年、農村本位の女子專門學校を設立し、茲に山崎先生は、校長の重責に任ぜられたのである。
學校に於ける先生は、論語に、子之燕居申々如也天々如也とあるが、先生は恰も其の感じを與へるもので、寛達に、若々しく、世事に齷齪し勝な人々に對して、自ら大きな徳化を及ぼし、生徒達の敬慕の中心となってゐる。
そして先生が生徒に對する講義は、所謂世態學と云ふもので、一言にして云へば、人としての生活の全幅的な、綜合科學であって、人生にも生活にも即した所の、尊い實踐の教へである、即ちこれは先生の深遠な思想と、長い間の體験的修練と、高い人格とから發する生きた言葉であり、道を行ひ、道を極めた所の生活の啓學とも云へるであらう。
誠に先生の教育は、勤勞と生命を大本とするものであって、それは嘗て安城農林學校長たりし時も、今、神風義塾にみても、確然と首肯することが出来るのである、従って本校の特色も、其所に見出すことが出来るであらう。
曩に、鳩山文部大臣が、本校を視察せられた時、學校の特色の一つとして誇る、廢物利用製品の場所に於て、先生が「これは總て廢物利用品です」と特に紹介された時、大臣はすっかり感心して「廢物もこれ迄に生きるものですか、これだから私は本校を見に來たんです」と答へられたと云ふ。全く物を生かして役立たしむる事は、經濟の道であり、道徳の道であって、生活の極意である、農の意義も、愛の眞諦も、母の心も、亦等しく勤勞と生命の道に外ならない。
今や本校は、新興農村の中心地、その田園の只中に、本邦に於ける、唯一の農村本位の女子專門學校として、我國農村の父である、偉大な先生の下に薫陶を受ける事は、誠に農村の爲に喜ばしい極みである。

女子専門学校校長となりて 山崎延吉
(『我農生回顧録』昭和10年11月刊より転載)

世が開けるにつれ、小学校教育に於ては、男子にも、女子にも、教育機関が普及し、今日では中等教育の機関も発達して来たが、ひとり高等教育の機関に至っては、女子に対する教育機関が不備であり、殊に特種の教育機関に至っては、極めて幼稚の感があったのである。
しかも学校は、多く都会に設けられ、純農村には、之を見ることが出来ない憾みがある、殊に、女子の高等教育機関は、大都会に限らるるので、高等教育を受けた女子は、何れも田舎に帰るを屑しとせず、職を求むるものは之を都会に於て為し、縁づく者も、都会に働く人を求むるので、女子の高等教育が整へば整ふ程、農村より有為有能の女子を奪ふので、心あるものは女子の高等教育機関は、無用なりと叫び、または之を呪咀するものもあるのである。
自分の居住する愛知県碧海郡安城町には、男子の為めには農林学校あり、女子の為めには高等女学校あり、それに家事裁縫を主としたる、私立女子職業学校がある。故に、女子にとっては比較的恵まれた所であるが、自分は職業学校が私立であり、比較的成績良好なるが為めに、評判もよく内地は勿論、朝鮮よりも入学生のあるのに鑑がみ、女子職業学校に、女子専門学校を作り、農村を背景とした女子の高等教育機関を立つやう、町の当局者、女子職業学校の校主、其の他有力者に勧告したのである。
幸ひに諸君の協力によって、昭和4年愈よ専門学校を設くる事になり、文部省に認可を申請するに当り、自分は文部省に出頭して、認可さるゝやうに運動したのである。しかるに成るべく経費を節的する意味に於て、無給の校長を置くこととなった為めに、自分が校長の職を汚すこととなったが、当時の文部省当局は、「君がやるならよかろう」と云って自分が校長たることゝし、女子専門学校の開校に認可を與へたのである。
私立であるが故に、設備万端は官公立に遠く及ばず、職員も亦、偉才を求むることが出来ない為めに、入学する生徒の数は甚だ僅少なるが故に、寂莫の感なきに非ずと雖も、農村に女子の高等教育機関を見るに至った事は、農村教育の上よりすれば、喜ばざるを得んのである。また自分は、名義上の校長にして、力を致す能はずと雖も、しかも折に触れ時に応じて、生徒に自分の意見を述ぶる機会を得たことは、喜ばざるを得んのである。
自分は形式を離れて、実際を重んじ、外観を後と廻しにして、教化を重んじ、実質的な精神的教育を施すには、何処でも、官公立よりも寧ろ私立の方が便宜が多いと考へるものであるが故に、安城の女子専門学校の将来を祝福せざるを得んのである。

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