第4節 中等教員への挑戦

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昭和11年刊の『校報』に「卒業生中最近文検合格者」として、つぎの記述がある。

昭和 4年度合格 職業学校大正7年度本科卒業    加藤しな
昭和 8年度合格 職業学校昭和3年度師範科卒業   中野よし子
昭和 9年度合格 専門学校昭和7年度本科卒業    宮司サイ
昭和10年度合格 職業学校昭和4年度高等師範科卒業 浜島つや子
なほ予備試験合格者左の如し
昭和7年度予備試験合格 専門学校昭和5年度別科卒業 中村愛

専門学校は、その出発の当初から中等教員の養成をめざしていた。それにもかかわらず昭和7年度の専門学校本科卒業生が9年度に1名合格したにすぎず、予備試験にしても専門学校第1回の別科卒業者が7年度に1名合格しただけであった。
寺部だい先生は女専さえ認可されれば中等教員の免許状は自動的に無試験検定によって下付されるものと思っていたが、実績のない専門学校に対しては文部省の行う国家試験(文検)に合格することが条件づけられていたのである。昭和7年5月に臨時検定試験に応じてみたが、専門学校本科卒業生は成績不良のため全員不合格であった。ただ前年度の別科出身者1名が予備試験に合格したにとどまった。当時の臨時検定は一度不合格となると3年目でないと受験資格が与えられなかった。そこで9年度に再び受験したが再受験組はまたも失敗に終った(『おもいでぐさ』)。その試験においてただひとり気を吐いたのが7年度卒業生の宮司サイ(新姓栗林)さんであった。栗林さんは昭和8年3月卒業と同時に作手農林学校に赴任し、教壇に立つかたわら、文検に備えて準備を怠らなかった。母校に先生を訪ね、名古屋へ講習に通い、夏休み、冬休みを返上して東京での講習会を受講した。その間だい先生をはじめとする母校の先生方のはげましと、先輩、同僚の先生方の指導、激励をうけながら寝食を忘れる程の努力を重ねた(宮司さんの書簡)。しかしその後も不合格の憂き目を重ねるばかりであった。検定試験がいかにむづかしいものであったかは『昭和11年版婦人年鑑』にある中等教員無試験検定及び試験検定の女子合格者に関する調査が雄弁にものがたっている(表)。

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3回、4回と失敗を繰り返す間に、中等学校教員資格が下付されるという専門学校の魅力が薄れて、ついに昭和9年度の本科入学者は皆無になってしまった。
あいつぐ国家試験の失敗は、教育内容への批判をかもし出すことになった。当時の専門学校のカリキュラムは、師範学校裁縫科の4年生、5年生の要目に準拠しさらにそれを上回わるものであった。その指導内容においては経済不況と戦時体制の強化の影響をうけて、廃物利用、更生を中心とし、その面で著しい特色を打ち出していたのである。鳩山文相を驚嘆せしめたのも、廃物利用と更生の妙にあったのであり、質素倹約を旨とするだい先生の教育方針とも合致して、それは教育内容として強固に定着していた。
昭和7年から13年にかけて、専門学校で教鞭をとった松平すゞさんは、自らも大正4年に裁縫科、大正6年に家事科の「師範学校・中学校・高等女学校教員試験検定」に合格していた。以後愛知県立第一高等女学校や刈谷高等女学校に勤務して、本校に迎えられた時、41歳で、その経歴、実力において申し分のない先生であった。それだけに専門学校の指導内容については批判的で、しばしばだい先生と対立することもあった。
松平先生は食物・住居・家庭管理・衣類整理などの講座を担当していたが、廃物利用と更生に精力を集中している専門学校の生徒が、文検に度重ねて失敗するのを見てはがゆい思いをしていた。そこである日、専門学校の生徒たちを前に「技術も大切だが中等学校教員免許を得るには基礎学を十分勉強しなければなりません。昔と違って繊維にもいろいろあります。人造繊維のことも染色のことも、またこの化学方程式なども少し位は勉強しなさい、洋服の名称も横文字で書けるようにしなさい。とにかく廃物で衣服を作ることだけでは試験は合格しませんよ。もっとあらゆる基礎学を勉強することですね」と厳しい口調で批判した。それから数日間、松平先生は専門学校の授業をしなかった(松平すゞさん談)。
この出来ごとも一つの機縁となって、専門学校の教育内容も、より文検対策にそうように改められていった。
専門学校の存立の危機に面して、一歩も退けない切迫感がだい先生をさいなめた。たまたま昭和11年4月、浜松市立高等女学校から外波山ひさゑ(新姓河村)、渡辺千鶴子(新姓細田)、手塚鶴予(新姓若狭)の3名が入学した。そろって成績も優秀であったので、だい先生の期待も大きかった。だい先生はその3名を核にして文検を突破させるための特訓を行った。生徒にもそれなりの自覚と努力を要求し、特別に授業料を免除した上、月5円を給することにした(河村ひさゑさん談)。
この3名が2年生の時、昭和12年10月文検の予備試験に挑んで全員みごとに合格した。余勢をかって同年12月の本試験を受験することになり、だい先生はその3名を連れて上京し、試験場である東京女子高等師範学校に臨んだ。試験は4日間にわたって行なわれ、宿舎では、だい先生がつき切りで裁縫教授法やたち縫いの指導をして試験に備えさせた(『安城学園45年史』、『おもいでぐさ』、両書に昭和14年とあるのは誤り)。
このような涙ぐましい努力の末、渡辺さんと外波山さんの2名が合格した。手塚さんは翌13年の12月目的を達した(『おもいでぐさ』)。昭和14年3月には3名が揃って中等教員の資格を取得してめでたく卒業していったのである。外波山さんは、卒業後浜松市立高等女学校に勤め、優秀な教え子を本校へ多数送り込んでくれた。

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