第4節 安城学園女子短期大学の設立と安城女子専門学校の廃止

※しおりを追加すると、このページがしおりページに保存されます

学校教育法第69条の2によって大学の他に短期大学という2か年の大学を設立することが出来るようになり、安城女子専門学校を大学にするか、短期大学にするかが、まず最初の重大な問題点となった。それはまた安城女子専門学校の廃止にもつながるわけである。この年愛知県内には金城女子専門学校、椙山女子専門学校、安城女子専門学校の3つの私立の女子専門学校があり、全国的にそれらの女専は新制の大学へ移行しようという動きが大半であった。安城女子専門学校でも新制の大学にしようという気運が生じていたのは当然のことである。大学の設立の認可は、文部大臣が大学設置審議会に諮問してこれを行うことになっており、この審議会がその鍵を握っているといってよい程の権威をもっていた。そして申請大学の財産、施設設備、教授陣等を詳細に、書類及び実地調査をして審査されるという仲々きびしい“大学設置の基準”があった。大学はもとより短期大学でさえもその設置の認可をうるためには非常に不安な施設であり教授陣であった。そこでこの女子専門学校を何とか短期大学に切かえることに決めて、まず“安城学園女子短期大学設置委員会”が準備された。学内だけでなく安城町長大見為次氏はじめ近くの学識経験者をふくめて10数名で構成されたこの委員会はまず施設の解決にのりだした。そして安城農林高等学校の校舎を安城町が買入れ、それを改築し安城学園の校地内に移転させ、貸与するという形にしようとした。しかしこの計画は実現までに時日がかかり、実際には短期大学が設置された翌年の26年に移転を完了した。2階建の約130坪の建物であったが当時としては学生に感激をもって迎えられたものであった。その後この建物は附属高校の校舎として使用された。
さらに教授陣の充実のための重要点として学長選任があった。農学博士である宮沢文吾先生を初代の学長にお願いして就任してもらい、短期大学設置のための一応の準備を整えたのである。昭和24年12月つぎのような設置趣意書にその他の書類をそえて文部省に申請した。

画像クリック/タップで拡大

安城学園女子短期大学設置趣意書

家政学は由来我が国女子教育に於て最も重要な地位を占め且つ家庭生活及び社会生活の基盤を築く基本的教養をなすものであります。故に本学は教育基本法学校教育法の趣旨に基き家政学に関する学術を根本的に研究し応用的能力の伸張に努め以て生活文化の向上と人類悠久の福祉の増進に寄与せんとするものであります。(中略)
抑々本学園経営の安城女子専門学校は農村上流家庭婦人及び中等教員養成を以て今日に及び本学園の伝統的精神である質素で実践主義の教育をなし、かって昭和9年、時の文部大臣鳩山一郎氏御視察の際此の学校こそ東京方面に於ては見ることの出来ない我国教育の真髄を実践しつつある教育の聖舎であって全国の模範とするに足るとの賞讃の御言葉を得たことがありますし、又かっては三重県知事が本校の教育に感じて学務部長に県下有力の女教員数拾名を引率せしめ壱週間本校寮舎に宿泊本校生徒の生活を体験し、同県下教育の改善の資料とせられたことがあります。このような過去の歴史をもった本校の姉妹校であった安城女子職業学校では農村中流家庭の婦人を教育する傍ら師範部をおいて小学校教員を養成、県下は勿論、全国各府県に送り出し真に間に合う教員との定評を得て来まして、此等教職に従事しているものが1,000以上に及んで居ります。(中略)
此処に於て本財団は強固な基盤の下に前述の趣旨に依って安城学園女子短期大学を設立しようとするのであって何卆前述の趣旨御賛同の上御協力を賜らんことをお願いいたします。

昭和24年10月 財団法人安城学園 理事長 寺部だい

昭和25年3月14日文部省より短期大学設置の認可があり、25年4月より安城学園女子短期大学は出発したのである。そしてこれに伴って今迄の安城女子専門学校は昭和26年3月最後の被服科20名の卒業生を送り出し、名前を消すこととなった。

画像クリック/タップで拡大

校管第142号
安城学園女子短期大学設置者
財団法人安城学園

昭和24年10月15日付で申請の安城学園女子短期大学設置のことは、大学設置審議会の答申に基いて、学校教育法第4條により次のように認可します。
昭和25年3月14日
文部大臣 高瀬莊太郎

1.名称 安城学園女子短期大学
2.位置 愛知縣碧海郡安城町大字安城字小堤41番地
3.学科 被服科 生活科
4.修業年限 2年
5.開設学年 第1学年
6.開設時期 昭和25年度

女専最後の卒業生として 浅井トミ(昭和26年女専被服科卒)

私が女子職業学校から女子専門学校へ進学する時に、6・3制が施行されました。そのため専門学校へ進む人、5年生へもう1年進む人、高等学校2年となる人、4年生で終了する人といろいろなコースとなり、友達は皆ばらばらになってしまい親しかった友とも一生の別れのような悲しい気持で別れたことを思い出します。
女専の2年生になろうとする25年3月でした。私たちは1年前と同じような迷いの中におかれました。
「私たちはどうなるだろうか、」「短大2年となるそうだ、」などと。みんな心配しましたが結局取得免許が有利であるということで専門学校最後の卒業生となったわけです。この年に短大1年生を迎えたわけですが、同輩でもあり、後輩でもある短大生に何か異なる気持で接したようです。女専の1年生はもういないのだという悲しい気持と、私達は女専の生徒であとはもう無いのだ、価値ある存在なのだという一種のプライド感といったものがまじっていたようにも思います。
そしてもう一人の卒業生加藤妙子さんは、
「女子専門学校最後の日、講堂で寺部だい学園長先生の心をこめた訓辞に感激し、卒業生20名が紋付袴姿で証書を手に、泣き乍ら皆さんとお別れした卒業式の情景が想い出されます。」
と当時の想い出を語っている。

短期大学1回生として 竪山翠(旧姓 稲垣)
(安城学園女子短期大学・生活科昭和27年卒・現本学教授)

現在の安城学園女子短期大学や開校間もない大学の整った環境や、完備された諸設備を知る人達は多いが、20年前の安城学園短大が開学した当時の様子を知る人は、ごく限られた数十名になってしまった。
かつての古ぼけた校舎や、たった3教室しかなかった短大用の教室、学生数19名というさゝやかではあるが栄光にみちたその誕生の重さについて、今語り得る私の幸をしみじみとかみしめている。
入学式は昭和25年4月21日、冷たい雨が終日降っていた。うす暗く、だだっ広い講堂には木の固い椅子がたくさん並んでいた。寒さにふるえているうちに入学式はあっけなくすんでしまった。教務課長・田中泰三先生、生活科の学生は一度も教えていただく機会はなかったが、いつも“すてきな先生”とうわさしていた被服科の加藤くりゑ先生、このお二人の先生が専任として主に毎日の学生の指導にあたっておられたが、専任非常勤の区別なく、どの講義も新鮮で授業そのものは楽しかった。したがって授業を受ける学生の態度も自慢ではないが立派だったと思う。どの先生もみな私達の先生であるという身勝手な厚かましさがあったし、少人数の気楽さも手伝って授業が終ったあとの“会話”が楽しみだった。
1年間だけは女子専門学校の最終学年の被服科の方々と、時には同じ授業も受け、教室も隣り合っていたのだが、交流の記憶はあまりない。ただ年に一度の学園祭において私達は女専の被服科に対しての従来の認識を新たにしたものであった。安城学園の学園祭、娯楽の少なかった当時では、やゝ大げさな表現をかりれば安城の町の人々の話題をさらった感があった。衣料品は他の生活用品と比べると割高で手に入りにくかった。そんな頃学園祭でのファッションショーは夢のように美しかった。古い衣類を改良しての作品が多かったが、そのセンスのすぐれていること、技術的なたしかさにおいて相当水準の高いものであり、それは特に和裁の分野において光っていた。
安城学園の歴史の中で出発をしながらも、その未来への燭光をしっかりつかみ得ぬうちにすごした2年間ではあったが、現在より未来への展望を考える時卒業生が協力して礎にならなければならないことを痛感している。

安城学園女子短期大学学則(抜粋)

1、目的
 本学は家政に関する専門的知識と高等な技能とを研磨し且つ一般女子としての社会生活に須要な教養を修得すると共に教育者たらんとするものに必要な教育を施し併せて郷土文化の向上に資せんとするのである。
2、学科の組織
 被服学科
 生活学科
9、学生定員
(1)本学に毎学年はじめにおいて入学させる人員を左の通り定める。
 1.被服学科40名 2.生活学科40名
(2)本学の学生定員は左の通りとする。
 1.被服学科80名 2.生活学科80名

目次
Copyright© 2023 学校法人安城学園. All Rights Reserved.