第3節 師範科卒業生に臨時検定試験認可

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当時の学習科目は、裁縫の他に、修身、国語(読み方、書き方)珠算、作法、それに専修科、本科は茶、生花、師範科は教授法、教育学などであったようである。この中でほとんどの時間は、裁縫(理論よりも実地)にあてられていた。
裁縫の実習細目は、この頃になると従前より大幅に減ったとはいえ、166点(本科)で、日常生活には使用されない物まで含まれていた。このうち一般的な物は、実物で作製し、比翼、十二単衣など特殊な物は、雛形で作るのであった。この雛形には廃物利用をすすめられた。――これ以後時代の要請もありますます廃物利用の指導が徹底していったようである。――
各科とも、課せられた細目を次々と完了してゆくのは容易なことではなかった。「少しでも誤差があるとオナオシをさせられた」と卒業生は皆口をそろえて語っていることから、相当厳しい指導が行われたようである。普通の学習では追いつけず、定められた年限(本科2年、専修科1年、師範科2年等)で完了するには、家へ帰っても相当努力しなければならなかった。
学期末には各科目の試験が行われ、(専修科は無かったようだが)、細目がすべて完了すると裁縫の卒業試験が行われた。理論では、「○丈物で、男物羽織と着物をとれ」といった問題が出され、実地では、「本裁単衣(男物または女物)を(標付後)3時間で仕上げよ」あるいは「7時間で、カサネの着物を仕上げよ」といった出題であった。いわゆる「早縫」方式であった。早く、しかも正確に仕上げる実力をつけることが、本校卒業の最低条件とされたのであった。
師範科は、更に、裁縫科教員検定試験という大目標があった。検定試験には、裁縫理論、裁縫教授法、教育の大要で3、4問題、裁縫実地で2問題が出題された。この実地は、4時間で2問題を完成せねばならず大変なことであった。そこで、前年の検定試験に「2分の1の寸法で男物あわせ羽織の右半身を縫え」という問題が出ると、次年度の卒業試験には、「女物あわせ羽織」について出題するといった工夫も試みられたようである。また、検定試験期が近づくと、平生は通学している者も希望者には寄宿舎へ宿泊させて、特別指導が施されるなど、生徒も必死なら、教職員も懸命であった。

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校長を先頭とした指導者の熱意と徹底した厳しい指導により、小学校裁縫科正教員の検定試験の成績は徐々に向上してきた。本校では、その強い方針から、この試験を受ける者が県下でも多く、また合格率も、他校出身者に比し良くなってきた。ある年など、県下9人の合格者中7人が本校の出身者であるということもあった。この実績が認められ、大正8年12月18日付で、師範科卒業生に対し、臨時検定試験実施が認められた。臨時検定試験とは、年1回、行われる検定試験ではなく、学校へ、そのつ度、県から試験官が出張して行うものであり、落ちついた気持で受験できる為、極めて有利であった。この臨時検定試験は、各郡市または県の教育会主催の講習会受講終了者と、県知事が特別に承認を与えた学校の卒業生に対してだけ実施されたものであった。この特典をもつ学校に本校も認定されたわけである。当時、県下では、この種の学校は本校を始め数校にすぎなかった。
この特典により、本校卒業生は、年に2回受験する機会が与えられたことになり、ますますその合格者が増えていった。そして、師範科への入学生も急増し、学校経営も軌道にのり始めたのである。
また、在学中に検定試験に通らなかった者の為に、翌9年1月専攻科を設け、受験学習の便宜をはかった。勿論専攻科へは、このような人々の他に、高等女学校その他の学校を卒業し、裁縫に習熟したい人々も入り、熱心に学習したようである。従って、その学習内容も、8割以上が裁縫、手芸であった。

このように、学校の将来に光がさし始めた時、だい先生をつねに強く支えてこられた信仰深い母堂が他界された。だい先生は『おもいでぐさ』にこう記しておられる。
「大正8年も暮れようとしている12月の末、母は日頃信仰帰依している奥郡様のお説教が、桜井村の円光寺で勤修されることを聞いて、折からの寒さを衝いて、お参りに出掛けました。その夕方、風邪気だからと言いながら床に就きましたが、そのまま、25日の午後7時頃、大そう安らかに、永い眠りに入りました。時に76才、当時としては、長寿を全うした方と謂えましょう。
日頃、熱心な仏教信者で、その生活にも一つの信条が通って居りました。自分のことは自分でしなければ申し訳がないといって、毎日、手内職に麻糸を結んで居りました。それで貰えた金は、悉く仏様への御供養に棒げて、悦びと感謝の日々を送って居たのです。「何でも、お母さんの欲しい物があったら、どんどん仰言って下さい。」と申しますと、母は「何も要らないよ。お前が側に居てくれるのが何より嬉しい。」と仰言います。然し私は、忙しい日々を夢中になっていて、毎日、母の側にお仕えすることが出来かねたのです。この点、今も相済まなく存じて居りますので、母亡き後は、何処へ参りますにも、一夜なりとも外泊する時は、必ず母のお位牌を肌に着けて参ることにして居ます。(中略)私は公私共、その行路に行き詰ることがあると、その度に、必ず開拓の勇気を与えられ、苦難に打克つことを教えられるのは、母の御霊であります。」
また、現理事長、寺部清毅先生は、こう語っておられる。
「小学校2年生の時だったが、ある日、両親に呼ばれて、祖母の部屋へ行ってみると、そこに眠るが如く横たわる祖母の姿があった。口や鼻に綿がつまっており、足が大きく見えたことが印象深く、葬式の後、赤い塗膳で食事の出来たのが何となく嬉しかった位の記憶しかない。しかし、母が、祖母のことをつねに気遣っておったことは、日当りのよい東南の3畳の間を祖母の部屋としていたことからも容易に察せらられる。」と。

喜びの直後に訪れた、この深い悲しみに、だい先生は涙しながらも、思いを新たにして、学校づくりに力強く踏み出したのである。

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