明治45年、裁縫女学校として発足以来、大正期を通じて、最も力を注がれたのは、教員養成であった。勿論、それだけではなく、円満で役に立つ家庭の主婦を育てることも、その大きな目的であった。が、少くとも、その主流は、教員養成であったことは殆んど異論のないところであろう。
教員養成を、はっきり目指したと思われるのは、師範科の設置をその始めとするであろう。(大正初期の専修科、本科も、その役割をもっていたが)そして、その後、裁縫師範科、高等師範科を設けることにより、小学校裁縫専科、尋常小学校准教員、同本科正教員の養成へとその巾を広げていったのである。
また、家庭の主婦の養成を主としたのは、家庭科であり、専修科であり、本科であったと思われる。
ところで、教員養成とは、経済的に独立出来る力を持った婦人をつくることであった。また、円満な家庭の主婦の養成といっても、それは、単に三従の徳を備えた消極的な、良妻賢母を育てることではなかった。針一本で自活していける、たくましい実力をもった婦人の養成であった。この2つの面、即ち、職業婦人としても、家庭婦人としても、立派にやっていける婦人の育成であった。忍従を美徳と考え家庭の中にのみ、その場を見つける婦人でもなくただ単なる教養主義に走る女性でもない。
地に足を、しっかりとつけた自活出来る婦人の育成こそが、職業学校の目標であった。
生徒達もこの方針特色を慕って本校の門をくぐったのである。
職業学校に入学した生徒の入学動機の主なものを拾ってみると、次の様である。
1.一通り、女の道(裁縫)を覚えたい。お針子として塾へ通うのでは満足出来ないから。
2.たゞ農家へ嫁して、農業を行うのはいやであり、出来たら、裁縫で身を立てたいから。
3.「先生」になることに熱烈な意欲を持ち、あこがれを持って。
これをみると、時代風潮を反映していることが、はっきり読みとれる。そこに段階的な相違はあるが、いずれも旧来の様に家庭の主婦として生きるだけでは満足出来ない新しい女性の姿をはっきりと見るのである。そして、本校の教育は、これらの新しい女性の要求に確実にこたえながら、女性としての可能性を、あくまでも追求していったことを知るのである。
当時は、いわゆる大正デモクラシーの時代といわれている。日露戦争の勝利に続く、第一次世界大戦によって、日本の資本主義は発展し、日本経済は大きく成長した。そして、欧米思想が流れ込み、政治面では民本主義に基礎をおく護憲運動、普通選挙運動が行われ、また、教育面では、児童中心主義を基底にした芸術教育運動や私立の新学校設立による個性的創造的教育運動が、はなやかに展開された。婦人運動では、青踏社の婦人解放運動がくり広げられ「男女平等」「婦人参政権」が叫ばれた。また他方では、「新教育会議」の答申に代表される様に、実業教育や高等教育の振興策がとられると共に、国民精神の涵養につとめる措置がとられた。
この様な、時代的背景の中で、本校は、前述のような教員となることにより「経済的に独立出来る婦人」の養成を行った。「新教育会議」の答申では、「国民教育ヲ主トシテ婦女子ノ手ニ委ヌルカ如キハ決シテ剛健質実ナル国民ヲ養成スル所以ノ途」ではないと、女教師の漸増を憂えているが、時代の趨勢は、この答申の考えを押し流していった。そして、本校はこの時代の流れの方向を先取りした。しかし、派手な「婦人解放」を唱えることなく、地道に、目覚めた地域の若き女性達の要求を汲み入れながら、新しい時代に生き得る、たくましい女性能力の開発に力を尽したのである。