第5節 安城裁縫女学校の設立へ

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明治39年の12月、先生は滋賀県の甲賀郡石部町、石部尋常高等小学校に赴任する。何故突然に滋賀県の学校の先生になるのか、その事情については資料が無い。『おもいでぐさ』にはある人の御推薦でとしか書いてない。明治26年、実業補習学校規定が定められた。その時の訓令に………普通人民ノ情況ヲ察スルニ児童ノ尋常小学ヲ終ル者退学ノ後職業ニ従事スルニ當リ又ハ遊戯ニ日ヲ移スニ當リ其ノ嘗テ学ヒシ所ノ事緒ヲ抛棄シ遺忘シテ其ノ用ヲ爲サヽル者多シ凡ソ年少子弟未タ恒心アラサルノ時ニ於テ其ノ父兄ハ彼等ヲシテ縦令中等教育ヲ受ケシムルコト能ハサルモ其ノ尋常教育ヲ補充温習シ彼等カ將来ニ從事スヘキ生業ヲシテ稍値直アラシムルコトヲ冀望スルノ情ニ切ナリ此ノ父兄ノ冀望ヲ助ケテ補習教育ヲ施スハ緊要ノ事タリ(後略)とある。即ち小学校の上級の教育として、中学校、高等女学校と異り、しかも実業学校よりもより実質的実際的な実業教育を推進しようとの学校である。この実業補習学校は明治42年の改正高等女学令による実科高等女学校に発展したり或はずっと後の青年学校になったり、或は明治32年に定められた実業学校令による実業学校に移行したりして、わが国の実業教育の中の、重要な役割を果している。明治44年の小学校令の改正により、小学校は尋常6年高等2年又は3年になるのに伴って、実業補習学校規定も改められ、入学資格は年令12年以上となる外、その重要度も一段と認識されてきた。『石部小学校80年史』によれば、石部の小学校ではこの規定にもとづいて、明治39年の12月に54坪の校舎を新築して、明治40年4月に、「石部実業補習女学校」を附設開校している。だい先生がこの学校開設のための先生として、招かれたことはほぼ間違いない。同校の記録によれば、明治39年12月7日、即ち補習女学校の校舎完成のとき、滋賀県甲賀郡役所から、月俸金16円給與として発令されている。

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時の町長武田憲次郎氏宅に寄寓していたのだから貴重な先生であったことと思われる。そして約10か月後の40年9月、退職するのであるが、この理由を示す明確な資料がない。しかし、当時の先生の教え子達の話を総合すると、御夫君三蔵先生との結婚であったようである。『おもいでぐさ』に………「当時日露戦争に勝ち誇っていた帝國軍人、中でも海軍々人といえば、若い女性の憧憬の的だったのです。私も例外ではなかったところへ、小塚さんから、海軍准士官へのお世話を頂いたのです。異論のありよう筈はございません。母と相談の上、一も二もなく、結婚いたしました。今校庭の一隅に、石像となって、学園を見守っている『寺部三蔵』がその人でした。」………と書いてある。そして御夫君の勤務地の呉市江田島行き、すぐに三蔵先生は遠洋航海に出る、だい先生はその間桜井へ帰って裁縫を教えるのである。この時の裁縫教授は、看板こそあげなかったが相当本格的なものであったようである。明治41年の3月、先生は再び懇望されて石部の女学校に赴任するのであるが、このとき桜井村での教え子6名が、遠く石部まで先生について行く。その6人の中の1人、小林つかさん(旧姓加藤・当時安城榎前在住)はつぎのように話す。

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桜井中開道の浜田つねさんという方に、寺部先生のことをきいてお願いにまいりました。主人が遠洋航海から帰れば呉へ行くので、それまでの暫くの間だけれども、それで良ければ、というお話でした。姉と2人一緒に教えていたゞきました。榎前から通うのが大変でしたので先生のお家の2階へ泊めていたゞきました。私共姉と2人の他に、鋤柄さんと石川さんというお方と4人が寄宿していました。1月からだったと記憶しています。3月になって、石部の女学校から是非とたのまれて行くことになった、と先生からお話がありました。お慕いしている先生とここで離れるのは、何としても残念でしたので何とか連れていって下さるように、お願いを致しました。先生も御思案の御様子でしたが、石部の学校や、止宿先の町長さん宅の了解もとって下さり、親のしっかりした許可のある者だけということで、結局6人がまいりました。石部では町長さんの裏座敷に寝泊りをして、女学校に通いました。先生は裁縫が主で、お花なども教えておられ、大変お忙しくて、時々お帰りが遅くなることがありました。私共はお帰りまで待っていて、一緒にお食事を致しました。厳しい中にも和やかな中で、お裁縫は勿論ですが、「女性として」ということを、いろいろ教えていただきました。半年ぐらいすると、御主人が航海からお帰りになり、先生も呉へ行かれることになりました。私共も呉へとお願いしましたが到底駄目でした。女中がわりという名目で一人だけ、浜田スマさんという方が連れていっていただくことになりましたが、他はやむを得ず一旦故郷へ帰りました。

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一旦退職をして、しかも遠隔の地にあるのを、無理にでもと石部の女学校から招かれたこと、又教え子にそれ程までに慕われ、大事な娘を一人の若い先生にまかせて、遠く勉学に出すという、当時の世情から考えて、大変なことであったであろうが、これ程までに親に、しかも6人もの親に信頼されきって居たこと、共に寺部だい先生の、教育者としての高さを示すものとして、特筆すべきことがらである。石部実業補習女学校の記録によれば、明治41年3月20日付で発令になり、4月4日に赴任して、同年9月12日依願退職となっている。かくしてだい先生は呉へ行かれるのであるが、もともと三蔵先生の実家は大阪であり、しかも三蔵先生は養子縁組で寺部家に入りその家督をつぐ事になっていたので、ゆくゆくは桜井に本居を構える予定であったであろう。呉での先生の、海軍士官の奥様としての生活は、長くは続かなかった。三蔵先生が退官をしたからである。この間の事情の詳細はわからない。『おもいでぐさ』にはつぎのように書いてある。………そして、帰任と同時に、海軍士官に昇進したので私も、これから海軍将校の妻としての花やかな生活を夢に描いて居りました。然るに、その時、突然、夫は海軍を退きたいと言い出したのです。私がいくら説いても、頼んでも、頑として応じませんので、致し方なく、夫の申すがままに任せました。………桜井へ帰ると待っていたように、前の教え子達が集って来たようである。さきの小林つかさんも、聞きつけてすぐに習いに行ったと話している。

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明治43年、だい先生29才の残暑の頃のことであったと思われる。ここでだい先生は、一家将来の生活設計について、いろいろ苦心をされたようである。その苦心の末安城へ移り、安城裁縫女学校創設の過程は、この編の冒頭、『おもいでぐさ』の文の通りである。だい先生のお母さんが、「安城へ出れば、色々都合のよいことが多いであろう。いっそのこと……」とおっしゃるので、先生は「年老いた母の切なる願いに逆らえず」安城へと書いてある。その頃の安城は、明治18年の明治用水の完成と、明治24年の東海道線安城駅の設置の成果が着々とあらわれて、安城駅を中心とする道路網も整備され、明治34年には農林学校ができ、同37年に追田悪水工事が施行されて、いよいよ明治39年には町制がしかれ、人口1万5,000の安城町が誕生していた。更に43年には今まで知立にあった警察署も安城に移され、続いて郡役所や登記所などの行政機関も安城へ移される気配にあり、安城は文字通りの碧海郡の中心としての、大発展の途上にあった。その他工業の面でも製糸工場の設立がはじまっており、その昔小松の生い茂る安城ケ原は、まさに面目を一新しつつある時であった。だい先生のお母さんが、「安城へ出れば、色々都合のよいことが多い」とおっしゃるのは、このあたりの事情を指している。さき程の小林つかさんは、続けてつぎのように話している。

先生が呉から桜井へ帰られたときいたので、すぐさま習いに行きました。教え子は20人位だったように思います。暫くすると、世話をする人があって、先生とお母さんが安城へ土地を見に行かれた、というようなことをきいたりしました。3ケ月位すると安城へ移転することになったので、度々で申し訳ないが又暫く休むことになるとのお話でした。私共は時々お手伝に行ったり、家でお裁縫をしたりしていましたが、安城の普請が終ったので、又寄宿をさせていただきました。今度は「裁縫練習所」という木の札が出ていたように記憶しております。ある時先生が、お花の材料によいからと、山で茶センボをとってこられました。それを先生のお母さんが御覧になって、あやまって返して来なさいといって、容易にお赦しになりませんでした。当時山で茶センボをとるなどは、誰でも何とも思わずにやっていたことで、私共はすっかり教えられ、恥ずかしい思いを致しました。間もなく私は嫁ぎましたので一旦はやめましたが、その後も事ある毎に先生をお訪ねしておりました。私が今日まで長い人生を無事過させて戴いたのは、全く先生のお蔭と、感謝の外御座いません。

安城へ桜井の家を移築した時期については明確な資料が無い。だい先生の生家桜井の家のすぐ北に住んで居られた杉浦八太郎氏は、稲刈を終って閑になってからこわした事を覚えている、といっておられるし、小林つかさんは御長男(明治42年11月25日生)の1歳の誕生前といっておられる。又同じくだい先生の生家の近くに住んで居られた平岩とよさんは、安城への移築の牛車の後へついて歩いたが、気候の良い頃であったと話しておられる。あれやこれや総合して、明治43年初冬の小春日和の中を、記念すべき本学園の校舎第1号をのせた牛車が、桜井村から安城町へ歩いていた事は、まず間違いないと思われる。更にこの移転移築のために、だい先生のお母さんは、すべての田地田畑を手放して、なおなにがしかの借金をされたことも、さき程の方々のお話を綜合してまず間違い無いと思われる。「安城へ出れば、色々と都合のよいことが多いであろう。」という『おもいでぐさ』の表現の奥には、先生のお母さんの並々ならぬ炯眼と決意があった。学園の創設者は勿論寺部だい先生と、その御夫君三蔵先生である。しかしそこに、別な意味での創設者、だい先生の御母堂の偉大な存在を忘れることができない。
その後の安城裁縫女学校の設立までの経緯については、『おもいでぐさ』に書かれている通りである。そもそもだい先生は、「先生」を志して上京し、目的を達して先生になって、母校と滋賀県の学校で先生の職についたのであるが、その間に先生は、自分で学校を運営することの意義とその方法を、極めて自然に身につけてしまった。
法制の面でみると明治32年に私立学校令が制定されて、私学に関する一応の制度が確立されたが、これは外国人の学校経営に対する備えとしての意味が多分にあり、広く一般の私立学校は、従来の明治14年の文部省達による単純な私立学校を除く外は、全面的に諸学校令の規定により、特に学校令の規定にない部分についてのみ、補助的に私立学校令が適用された。その私立学校令第8条に、「私立学校ニ於テハ公立学校ニ代用スル私立小学校ヲ除ク外学齢児童ニシテ未ダ就学ノ義務ヲ了ラサル者ヲ入学セシムルコトヲ得ス」、とあって、私学はすべて小学校の上位校に限られていた。女子の場合についていえば、明治40年改正高等女学校令による高等女学校、明治43年の高等女学校令の改正により生れた実科高等女学校、明治32年の実業学校令による実業学校、明治35年に改正規定された実業補習学校、小学校令第17条の其ノ他小学校ニ類スル各種学校、であった。だい先生の学校創立の主旨、認可条件等を考えるとき、最も適したものが小学校令第17条の学校であった。この学校の設立には、府県知事の認可が要るが、認可条件は施行規則に示す教員の資格が中心で、施設設備等に関しては、比較的認可が得やすかったようである。その学科課程等も、小学校令に定める小学校の補習科に類似するようで、規制も少なく、だい先生の教育の理想への第一歩として、まことに適したものであった。かくして明治45年2月8日付を以て、私立安城裁縫女学校は認可されたのである。

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ここに至るまでの道程を、改めてふりかえってみるとき、本学園を生みだしたものが、だい先生と御母堂の、不撓不屈の努力であり、しかも行住坐臥感謝報恩の気持であり、それを支える美しい心、真ごころであったことに感動する。そしてこの精神の基盤の上にこそ、安城学園80年の発展の歴史が築かれて行くのである。

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