昭和47年から51年にかけては、生活指導面、学習面、クラブ活動において、なおも模索と苦闘を続けつつも、城西教育10年の苦労が、やっと報われ始めた時代である。
まず学習とクラブ活動の面に於ては、火曜日と金曜日に行っていた全員参加の補習授業を昭和47年11月から希望制に切りかえ、生徒に補習を受けるか、クラブ活動に参加するかを選択させたのである。生徒が自分で選んだ方向で、より多くの時間をかけ、個性を伸ばす配慮からである。さらにこれは昭和49年度の教育課程改訂にともない、週当りの正規授業を1単位減らして32単位とし、週3時間の補習あるいはクラブ活動の時間を保障したのである。
昭和52年度の大学入試は、厳しい情勢にも拘らず、国公立大現役合格12名を含め大学合格者300余名を出した。質量ともに、創設以来最高の成績をあげたのである。なかでも国公立大学合格は、念願の2桁合格であり、ここにおいて一応本校の進学指導体制の基礎が確立したといえよう。
一方、クラブ活動の面では、県大会に出場する運動クラブが輩出し、全国大会出場の夢を果たしたことである。
昭和47年度
〈県大会〉サッカー・バスケット・剣道・陸上競技・ハンドボール・庭球・卓球・野球
〈東海大会〉サッカー・バスケット・陸上競技
〈高校総体〉サッカー・バスケット
〈高校野球甲子園大会予選〉4回戦まで
総体出場のサッカー部は、初出場ながら3回戦まで進出。強豪韮崎高校に敗れたとはいえ、健闘し城西健児の意気を示した。また、バスケット部は佐賀工高と対戦、初出場の精神的重圧があり、実力を十分発揮できずに、1回戦で涙をのんだ。
昭和48年度
〈県大会〉サッカー・バスケット・陸上競技・剣道・ハンドボール・軟式庭球・卓球
〈東海大会〉陸上競技・卓球(個人)
サッカー部は、全国高校サッカー選手権大会県予選の決勝戦で、全国征覇の歴史を誇る名門刈谷高校に快勝(4対0)。大阪長居競技場の全国大会にのぞんだがエースストライカーの牧弘和選手の脚の故障で実力が発揮できず惜敗(広島工1:0城西)した。
なお牧(中京大卒・現、トヨタ自工)はアジアユースサッカー大会日本代表選手に選ばれ活躍した。
また、この年バレー部の岩月昇平(中央大卒・元、日本鋼管)も全国高校バレー代表選手に選ばれた。
陸上競技部は県高校駅伝大会に於て、中京高校につぎ、第2位で東海駅伝出場の快挙をなしとげた。
昭和50年度
〈県大会〉バスケット・サッカー・陸上・剣道・ハンドボール
〈東海大会〉陸上
〈高校総体〉バスケット
〈国体〉陸上競技(若杉鋼洋・棒高跳)
棒高跳の若杉鋼洋(日体大卒・現、本校教員)は、全日本ジュニア陸上選手権大会に選抜出場。延々2時間半に及ぶ競技の結果4米30を跳び7位となった。
昭和51年度
〈県大会〉サッカー・バスケット・陸上競技・剣道・ハンドボール・軟式庭球・柔道
〈高校総体〉軟式庭球
総体初出場の軟式庭球部、小久江照夫、野田光藤組は、第1回戦で兵庫県の社高校と対戦したが惜敗した。
運動部は、着々と整備されてきた広いグランドと、すぐ横の矢作川の広大な河川敷という環境、それに顧問の先生の熱心な指導、どの学校にも負けない練習量などで着々と力をつけていった。サッカー、バスケット、ハンドボール、陸上競技、剣道などは、西三河大会では常勝を誇り、県大会出場は常識化した。他のクラブも、これに追いつけ追いこせと活躍を競ったのである。
文化クラブの多くは、その成果を他校と競う機会は少ないが、吹奏楽部が昭和47年度のアンサンブルコンテスト三河大会で、銅賞を受賞した。さらに、翌48年度の吹奏楽コンテスト愛知県大会の小編成の部に出場して、優秀賞を獲得する成果をあげた。
昭和47年は、本校クラブ活動にとって飛躍の年であった。サッカー部、バスケットボール部の全国大会(東北各県で実施)出場をはじめ、陸上競技部も東海大会に出場することになった。この機を前にして、6月、PTA(会長・香村守氏)は体育後援会を組織、発足させたのである。
この後援組織は、47年以降、運動クラブが目ざましい充実発展を遂げるのを、しっかりと支えることになった。
昭和48年3月の春休みから創立以来最大の悲劇が始まった。学習に力を入れることを条件に、オートバイを購入して貰った生徒が、無免許で練習中、運転を誤り海岸に転落失神し、翌朝凍死体で発見された。さらに、4月・5月と連続して、オートバイ事故によって2名の生徒が生命を絶ったのである。
このようなオートバイによる悲惨な死亡事故を契機に、それまでの、免許取得を届け出る程度の指導体制を改め、強力な指導対策を考えるべく討議がくり返された。「16歳で免許がとれる法律が憎い。」という親の悔恨のことばの非痛さを真剣に受けとめ、また、三者懇談会でのアンケート調査による、殆どの親の「在学中の免取、オートバイ乗車を禁止し、かつ校則で規制して欲しい。」という要望の強さに触発されて、昭和48年7月『オートバイには乗らない』『免許は取らない』『オートバイは買わない』の「三ない運動」の発足となった。具体的には1年生は全面禁止、2・3年生は条件つき許可制とした。(ただ、57年に至るも条件に適合した生徒の例はない。)さらに交通非行及び、校則違反者に対しては、極めて厳しい態度で臨み、保護者にも協力を仰いだ。
昭和40年代後半は、全国を吹き荒れた学園紛争の余波と、戦後第三のピークと言われた非行の急増の中で高校の荒廃が表面化しはじめた時期であった。高校生の頭髪はヒッピー風のロングヘアーが一般化し、服装面ではハイレベルの高校では制服の自由化が、他の多くの高校では、異様に変形した学生服が著しく増加した。本校では創立時より制服は制定せず「市販の極く普通の学生服」を標準服とし、その後の変形には、カラーの高さ、袖の形等を規制し、服装の乱れを防いでいたので、周辺の高校に比べ、城西の服装は乱れていないの評価を得ていた。
しかし、学生服の悪質な変形の波は城西にも押し寄せ、服装違反があとを断たなかった。「服装の乱れは心の乱れ」という認識で全教員一丸となって対応したが、その指導に忙殺されることになった。このため昭和49年11月、学校長より「生徒の服装の抜本的な対策と指導」が提起され、生活指導部はこれを受けて研究、検討に入った。
当初、この問題を担当したのは学校長、校長補佐、生徒指導部長、学年主任、生徒会顧問からなる生徒指導委員会であったが、問題の輪を広げる意味から、これに各学年2名の代表を加えた服装検討委員会を構成し、改訂の具体的な検討に入った。
検討をすすめていく過程で、各学年会に、学校長から「生徒心得改訂上の留意点と制服制定に関する諮問」が出され、学年単位での話し合いも行われた。また、生徒に対しては制服に関する意識調査、さらに、中高教育連絡会に於ては、中学校の先生方からの制服改訂についてのお考えをアンケートで拝聴した。
最終的に、本校の制服として、上衣は濃紺のブレザーコート、上衣の下は白のハイネックシャツ、ズボンはグレイとすることに決まったのは、昭和50年6月25日の服装検討委員会であった。
昭和51年度には1・2年生、52年度には全校生徒が新しい制服に切り変わり、城西のイメージを一変した。ハイネックシャツの襟の強度の問題は残っているものの、乱れきっている学生服の中で城西高校生の新鮮端正な姿は地域の好評を得ると共に、周辺の業者に悪質な学生服の販売自粛をうながし、学生服正常化への一助となった。
学生服総崩れという客観的条件もあったが、本校で学生服廃止、新制服の制定がわずか半年で実施出来た要因は、学校長の理論的指導性、制断力の高さと、生徒の低俗化傾向を何とかしてくい止めようとする教員の意思の両者の結合にあったと思われる。
服装問題と一環して、学帽の着用については学校長の諮問もあり、服装委、学年会、生徒会、PTA役員会などで大いに議論がかわされたが、ブレザーコートに学帽はアンバランスということで、着帽は自由となった。しかし、着帽の自由化宣言までは確実に守らせるべきだという教員の意志統一のもとに着帽指導を徹底。昭和50年9月25日の創立記念式を期して、着帽自由とした。
昭和40年に体育館が竣工してからは、経済的諸条件がととのわず、目立った建築は行われなかったが、昭和45年3月、久方ぶりに新図書館が新築されて以降必要に応じ、時々に建設整備が行われていった。
創立以来、南棟2階の普通教室にあった図書室をこの年4月に、完成した新図書館に移した。鉄骨トタンぶきで約40坪。この図書館は、あくまでも暫定的なもので、将来は武道場として使うために造られたものであった。事実、昭和51年度には剣道場となり、図書館は、中央棟2階(現、職員室)に再度移転したのである。
昭和48年5月1日、理科棟が完成した。1階に化学生物実験室、準備室、標本室、薬品庫、倉庫、階段教室。2階は物理地学の実験室、準備室、標本室、暗室、階段教室を備えている。この時は、石油ショックの最中であり、コンクリート等原材料が不足し、工事が遅れたことも忘れ得ぬ思い出である。
昭和49年は、卒業生398名に対して、入学生638名と、入学者の急増した年であった。240名の生徒増を考えるとどうしても2教室不足する。そこで急遽、南棟の東に隣接して木造平屋建2教室を新築した。完成は4月20日であった。
サッカー部、陸上競技部、野球部などの生徒達のスパイクにほじくり返されたグランドの土は、冬の北西風に吹き上げられ舞い上る。昭和51年には、排水溝につめた礫が露出するところもあった。そこでグランド全面に厚さ10糎から20糎のサバ土を入れて嵩上げし、全体的に南へ向けて傾斜をつけた。そしてその先にU字溝を設けて、さらに排水をよくした。これにより、近隣にはちょっと例のないすばらしいグランドとなった。
昭和51年、待望の管理棟が完成。1階に事務室、校長室、応接室4室。2階は図書室(現、職員室)である。寺部理事長、鈴木学校長、竹中工務店代表が玄関に張られた紅白のテープに鋏を入れ、第3応接室で校長補佐、事務長、生徒会役員を交えて祝杯をあげた。11月9日であった。
昭和43年度、853名であった本校志願者は、昭和46年には1,264名となり、初めて1,000名を突破し、その後急激に増え続け、昭和51年には、2,700余名に達した。
増加の最も著しい地区は、地元の岡崎地区であり、志願者は大量に増加した。これに続くのは安城、知立、蒲郡、刈谷地区であるが、量的には岡崎と比較にならない。豊田地区は漸減しており、他の地区は漸増といったことである。
いずれにしろ、志願者数は、岡崎を中心とした周辺の地区では、ごく一部の地区を除いて増え続けた。
年々志願者が増え続ける原因としては、中卒者の自然増に加えて、進学率の上昇、西三河に私立男子高校の少ないことがあげられる。しかし、何よりも、城西の教育が地域社会から正しく評価されたこと、特に中学校側の温かいご支援があったからこそといえる。
一方、入学者であるが、昭和43年から51年迄の9年間に、西三河地区に公私立あわせて16高校の新設または分校独立があり、昭和48年度には学校群制度の実施があった。岡崎学校群に成績上位者をさらわれるという打撃に加えて、昭和50年・51年と岡崎東高校、安城東高校、西尾東高校の新設ラッシュが続き、量質共にダブルパンチをくらったかっこうとなった。しかし、入学者は昭和43年以降、51年に至るまで、全体的には増加の傾向にあったといえる。
岩城学校長以来の厳しい生活指導、サッカー部を頂点とする運動部の隆盛、大学進学の実績から、昭和47・48年頃だと思われるが、「城西の3本柱」が言われだした。いわく、“進学”“クラブ活動”“生活指導”である。自然発生的に唱えられたものではあるが、本校の教育目標をあらわし得て妙である。たしかにこの3点については意識的かつ積極的にとり組んできたつもりであり、それなりの成果をあげてきた。これも、鈴木学校長の「時間をかけよ。あらゆることに時間をかけて努力せよ。」の励ましを教職員と生徒が実践してきたからにほかならない。
鈴木学校長の主導の下に、教職員と生徒が、「城西づくり」に邁進したことが、3本柱となって結実したのである。それが誰いうとなく「城西の3本柱」として評価されたところに大きな意義がある。