第2節 「学」を志す

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先生が「学」を志したきっかけのことを、先生はその自伝『おもいでぐさ』の中で「善光寺まいり」の話に書いている。没落して貧しく、しかもいわゆる父なし子として、母一人子一人の苦しさに耐えた生活の中で7才になった先生は、母につれられて善光寺まいりをする。明治21年のことである。桜井村から信州善光寺までの往復、現在なら日帰りのできる行程だが、その当時では一生にあるかないかという大旅行である。国鉄東海道線の開通が明治22年だから鉄道はまだない。中央線は明治も44年であるから勿論走っていない。ところどころに馬車が走っていた程度の悪路を難行苦行、しかも6才や7才の子供の脚である。『おもいでぐさ』によれば2か月あまりの長旅であった。その途中で道に迷う。「右かきのみち」と書いた道標によって命拾いをする。
命びろいは大仰なように思われるが、当時の奥深い山道の、しかも母子だけの旅であって見れば、道に迷えばまさに死の危険は当然であったであろう。三河から善光寺まいりの道すじで、「かきのみち」というのは現在の岐阜県の愛知県との県境柿野温泉ではなかろうかという。(城西高校高橋進次先生談)あたりは現在でも土岐三国山県立自然公園に指定されている。いかに山奥であったか想像に難くない。文字が命をすくった。こんな強烈な体験を経た母子は桜井村へ帰って、速刻小学校へ入学しようとする。その時の小学校は明治19年に従来の教育令から改正になった小学校令によっている。

第一条 小学校ヲ分ケテ高等尋常の二等トス
第二条 児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス

とあるように、制度としては義務教育であった。8か年のうち尋常の方は原則は4か年だが、3か年でも良かったから、教育に熱心な村では4か年にしたが、改正前のままの3か年課程の尋常小学校も多かった。桜井村の尋常は4か年であったようである。わが国の小学校は明治5年の学制頒布小学教則による、下等4年、上等4年の4・4制、明治12年の学制の廃止と教育令の施行による、初等3年、中等3年、高等2年の3・3・2制を経て、明治19年の小学校令となる。そしてこのほとんどが「たてまえ」としては義務教育であった。しかしこれはあくまで「たてまえ」であって、変則の学校はいくらもあったし、特に義務教育という点に至っては程遠いものがあった。当時は義務教育といっても、学校の設立も運営もほとんど民費と寄附金でまかなわれ、授業料も月に50銭位であった。米が1升(約1.5キロ)5銭程度だから50銭という経済的負担も大変なもので、その上子供が2人も3人も居ればとてもやっていけたものではない。更に大切なのは子供の労働力としての価値であった。「子守はいったい、だれがやってくれるのだ」「大事な働き手をとられてはかなわん」という反抗が各地にあったり、特に女に教育などつけるとむしろ為にならぬという考え方もあって、実質的には特に女子にとっては小学校は、極めて少数のエリートの場であった。ずっと後になって就学義務のきびしくなった明治30年頃でさえ、

本村何某始メ何名本年就学期前学齢ニ達シタル児童ニ付其際保護者ニ就学ノ告知ヲナシタル処貧窮ニテ就学セシムベキハ一家ノ生活ニ差閊候旨申出ニ付事実取糺候処猶予ヲナスヲ必要ト認メ候間御許可相成度此段稟請候也(『美合小学校史』より)

というような願が郡長宛に出され、そのほとんどが許可されている。京都の『明徳学園50年史』によれば、同校の前身は明治40年に設立されたわが国最初の京都私立子守学校であった。更に同校は翌年には、同系の夜間の学校をつくっている。

明治41年の京都においてこの有様だから、その20年も前の桜井村で、貧しい家の、しかも女の子が、学校へ入るということは、想像を超えた大変なこと、むしろ珍奇なことであったに違いない。『おもいでぐさ』にも……お寺様か、学校の先生か、お医者様位のもの……と書いてある。その上入学しようとした時の先生は学令前であった。先生は明治16年の4月10日生れの戸籍であるから、学令の6才に達するのは明治22年の4月である。明治21年では何としても早すぎる訳であるが、学校も先生のお母さんの熱意に動かされて、その年の9月に入学を許可した。第24学区尋常小学桜井学校である。その学校の就学率や運営の実際については確かな資料がないが、欠損家庭の、貧しい、しかも女子が、エリートの行くべき学校へ、学令前に中途入学をする。周囲があたたかく扱ってくれるはずがない。種々のいやがらせや迫害の中で、その上子守や家事の労働におい廻されながらの、3年間の勉強がつづく。現在の子供達とくらべて見て、この勉強が如何に大変なものであったか想像に難くない。道標の文字が命をすくった。まさに命がけの勉強であった。道標の文字は全く偶然のでき事であった。しかしその偶然を起させたのは善光寺まいりである。善光寺まいりは決して偶然ではない。そしてたまたまおきた道標の偶然を、これほどまでにしっかりと、人生に結びつけていった、寺部だい先生の御母堂とだい先生の偉大さに、しみじみと心をうたれるのである。

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