高等師範科以来とくに職業学校本科師範部・専門学校の生徒は遠隔地出身者が多かった(表)。そのため校内に、職業学校本科家政部の生徒を収容する北寮(約20名収容)と、本科師範部の生徒を収容する南寮(約60名収容)の2つの寮があった(昭和12年本科家政部卒依田みつゑ―旧姓原田―さん談)。専門学校の生徒のためには学校近くに嫩寮があった(昭和16年専門学校本科卒徳原睦子さん談)。
昭和16年には、着実に生徒数が伸びて来た本科家政部と本科師範部のために校舎が手狭になり、また、専門学校の施設充実の必要にも迫られて、老朽化していた北寮をとり壊わし、その材木の一部を使って専門学校の校舎に2教室を増築した。その頃から、校内に一つだけ残った職業学校の生徒を収容する寮を清淑寮と呼ぶようになった。(昭和12年4月職業学校本科家政部入学、昭和18年3月専門学校別科卒柵木芳枝さん談)。
専門学校生徒を収容する寮は一時「田己作」を借用したが食中毒事件のための引き払い、特定の家を指定して分宿下宿させていたが、昭和18年には安楽荘を借用して淑範寮とした(昭和19年専門学校別科卒村松きよさん談)。
寮生活も大正期以来指導方針は一貫していた。朝5時起床、体操、駈け足、清掃は夏冬、晴雨を問わなかった。起床の合図は三蔵先生の洗面器を叩く音であった(依田みつゑさん談)。
朝食の前にそれぞれ両親の住んでいる方向を向いて感謝の黙祷をしてから箸をとった(松平すゞ先生談)。勤倹節約を旨とし、親からの送金はすべて預貯金をさせ、必要に応じて引き出して使わせ、定期的に小使い帳の検閲をした。報恩感謝の精神を徹底して指導され、弁当を残した者は翌日は半分に減らされた(坂下知子さん談)。
消灯は9時厳守で、9時以後どうしても必要のある場合は、便所や廊下の常夜灯の明りを頼ったり、懐中電灯を用意したりして勉強をした(橋本咲さんら談)。
土曜日の夜は、寮生全員が1か所に集まって、修養会が開かれた。「白百合の賦」を合唱したり、明治天皇御製を朗詠したりして楽しいひと時を過した(依田みつゑさん談)。
坂下知子さんは、そのような寮生活の中で寮生たちが口ずさんだ「寮生活の歌」を「朝は味噌づけ葉っぱづけ 昼は冷たいカレーライス 夜はこんにゃく焼どうふ ああそれなのに ふとるのは何故でしよう」と記憶している。
昭和15年の卒業者数は、職業学校の本科家政部、本科師範部において、通学可能圏と思われる旧碧海郡とその周辺地域の出身者で、それぞれ前年の卒業者数の2.2倍に達している(表)。その地域は旧碧海郡(安城市、刈谷市、碧南市、高浜市、知立市、豊田市上郷町、高岡町、岡崎市矢作町、六ツ美町)、旧幡豆郡(西尾市を含む現幡豆郡)、旧宝飯郡(蒲郡市、豊川市を含む現宝飯郡)、旧額田郡(岡崎市岩津町、福岡町、本宿町、山中町、藤川町を含む現額田郡)、旧知多郡(大府市、半田市を含む現知多郡)と、岡崎市、豊橋市に及んでいる(卒業証書授与名簿)。
周辺の交通網の整備も着々と進んでおり、昭和3年10月には、愛知電気鉄道西尾線(西尾~吉良吉田間、西尾~港前間)と、碧海電気鉄道(今村~西尾間)が接続し、今村から吉良吉田までの直通運転が行なわれるようになった(『名古屋鉄道社史』)。また、同4年には、岡崎新駅と西尾間の電化改良工事が完了して、碧海電鉄との直通運転も可能になった(前掲書)。こうして旧額田、旧幡豆地区からの通学の便は著しく改善された。
昭和11年10月には、三河鉄道が蒲郡と西中金を結ぶ全線を開通して(前掲書)、旧宝飯、旧幡豆旧碧海、旧加茂地区からの通学が一層便利になった(図)。
このような交通網の発達と相まって、本校の教育に対する評価と認識が地域社会に浸透していった成果が、昭和12・13年頃から、旧碧海とその周辺地域からの入学者倍増となって現われたのである。
なお、自転車通学は、1里以上の通学者に限って許可されており(昭和18年専門学校生徒心得)、かなりの数の自転車通学者がいたものと考えられる。
昭和10年代の本校卒業者の出身地域を通学可能圏と県内遠隔地および県外とに分類してみると、昭和15年までは県内遠隔地および県外出身者の割合が4割から5割に達している(表)。昭和14年を頂点にして(50.8%)、それ以後、通学可能圏の出身者が増加したため、県内遠隔地および県外出身者の割合は低下したが、実数においては、この10年間を通じて、つねに50名前後に達している。この10年間の県内遠隔地および県外出身者は、職業学校本科師範部においては同期間の全卒業者の42%を越しており、専門学校においても、同期間の全卒業者の50%以上を占めている。
卒業証書授与名簿によれば、この期間の専門学校、職業学校を含めた県外出身者は、同期間の総卒業者1,598名中303名に及んでおり、三重県の124名を筆頭に、静岡県61名、岐阜県26名、石川県25名、福井県11名、広島県8名、長野県・徳島県各7名、富山県・京都府・朝鮮各6名、山口県5名、滋賀県3名、和歌山県2名、北海道、秋田県、山形県、宮城県、大阪府、兵庫県各1名となっている。
県内遠隔地の東西加茂、南北設、8名、渥美など各郡出身者と、これら県外出身者が寮に収容されていた。
専門学校は修業年限別科2年、本科3年である。職業学校では小学校高等科2年卒業者の本科家政部3年生への編入学が多く、また、本科師範部へも高等女学校卒業者の3年生への編入学が認められていた。したがって、少なくとも各年度ごとの県内遠隔地出身者と県外出身者との合計数(表のA+B)の倍に近かい数が常時寮生活をしていたものと考えられる。