第2節 指導体制確立への布石

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昭和40年春、岩城学校長によって発せられた丸刈り宣言は、4年後の昭和44年9月26日の創立記念日での長髪許可宣言によって終止符が打たれた。社会的な趨勢として高校生の頭髪自由化は進みつつあり、西三河で丸刈り励行の高校は、44年現在、城西を残すのみであった。西三河で本校のみということは、県下で唯一の丸刈りの牙城を守るということでもあった。従って、生徒の中にも、長髪に強い憧れを持つものも出はじめていた。

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昭和44年度、着任早々の鈴木学校長の課題の一つは「頭髪問題」の解決であった。
昭和44年4月14日、第1回の全校集会で学校長は、問題解決のすゝめ方、生徒心得の精神、生徒会活動のあり方について訓示し高校生活の重要性を強調した。さらに5月1日、あらたに選出された生徒会役員との話し合いを行い、頭髪問題については前向きの姿勢で取り組むことを約す。この時点で、学校長の腹案としてはほぼ許可の方向が決っていたとみてよい。ただ、長髪許可を、社会の趨勢によるものとせず、城西教育を発展させるものとしてとらえ、解決に導こうというところに学校長の発想があった。当初心配されたことは、長髪が非行に結びつくか否かである。生徒は「自覚」というが、やはり未熟で自己管理の難かしい年頃である。長髪が原因で間違いを犯す生徒が出はしないかという危惧がまずあった。しかし、建学の精神にいう「己に克つ」「自分を厳しく磨き上げる」ことは自主自律を磨きあげることであり、長髪許可を契機に、教職員は全力をあげて頭髪指導に取り組もうということになった。
長髪許可の方向に向かって慎重かつ、綿密な指導が学校長の主唱のもとに始まった。まず学校長は生徒会に頭髪に関する審議を要請した。生徒会はこれを受けて、頭髪問題特別委員会を設け討議する一方、議会での一般生徒の公聴会を重ねて、6月30日の生徒総会での宣言採択にまで漕ぎつけた。また、外部に対しては、PTA会長、保護者、同窓会長、本校ゆかりの中学校長の諸氏からご意見を拝聴。さらに中高教育連絡会に出席の中学校の現場の先生方からの意見も伺った。これと並行して、生徒に対する意識調査。また、県下公私立高校33校から、アンケートをとり、県下の情勢を探った。夏休みには、担任の家庭訪問の際に学校の方針(当面の目標として、丸刈りの徹底。制帽の着用)を話し、協力を依頼した。また、生徒会が、全生徒に手紙を出し、自覚ある生活を促したことも忘れてはならない。
9月1日。丸刈りに関する違反者は皆無であった。9月22日、創立記念日を期して長髪を許可することに決定。
かくして昭和44年9月26日の創立記念日を迎えた。式辞の中で鈴木学校長は、長髪許可を宣言したのであるが、生徒は平然と、きわめて冷静にこれを受けとめた。これは学校長を中心に全教職員が一丸となって長髪許可に向けての生徒指導に力を注いだ結果である。以後、生徒達は、保護者連署の許可願を持って職員室に現われ、丸刈りが行われているかどうかの点検と、今後のあり方を担任から指導されたのち、嬉々として帰ってゆく姿が見られた。

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さまざまな生徒指導の実際の場面に於て、いわば体当りで問題を解決していく中で、本校としての生徒指導の基本的な理念や原則が次第に形をなしていく。そうした理念や原則を学校長がまとめられたのが「生徒指導上の確認事項」である。これは、職員会議で現実の生徒指導の事例にも強調されるという形で徹底、浸透していったものである。第一は、『生徒は本来誤ちを犯すものである。それ故に学校へ来て学んでいるのだ。』という認識に立つこと。第二は情熱を持って指導に当たれ。教師の激しい情熱が生徒を変える源であること。第三は見て見ぬふりをするな。全ての先生に注意を受けたら生徒は必ずよくなるという認識に立とうということであった。この生徒指導上の確認事項が全職員に徹底されていく中で、学校規模の拡張にともなう事態に即応すべく、処罰規定の改訂が必要となった。改訂のねらいは、多様化する生徒指導の現況で事例と処罰案の関係に一定の規準を設けて、指導の不一致を避けると共に、先の確認事項の具体化を示すものであった。
本校が社会的に評価を受け、多くの卒業生が活躍している現状で、学校の名誉を傷つける非行に対しては該当生徒を救うという観点とともに、在校生、親、教職員、卒業生の名誉を守るという観点も重視されねばならぬことであった。それ故に、集団的非行(学校行事中の非行やクラブ集団非行、対外的な要素をもつ集団非行)などには厳しい処罰で臨むことが確認され、生徒にも周知徹底されていった。昭和46年のことであった。

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指導体制が整備されていく過程で、現状にそぐわない規定は見直され、現状に即応した改訂がなされていった。昭和46年のボーリング許可がその典型であった。すなわち、ボーリングブーム初期には非行の温床の感があり、常に補導の対象となっていたがブーム後半には大衆化現象が見られるようになり、特別視する必要性もうすれてきた。45年6月に実施した生徒会によるアンケート調査でも家族化が確認され、職員会議でも許可条件が検討されて許可に至ったのである。
創立以来、進学率の上昇にともない、年々入学生が増加し、昭和45年度には、在籍生徒数1,057名、学級数24、教員41名(講師を除く)とふくれあがった。生徒増に伴う学級数の増加は、当然のことながら学校長の学校全体の掌握、管理、指導に支障をきたす。従来の校務分掌による学校運営組織では、細部にわたっての全体の動きがつかめず、教育方針も立てにくい。そこで、校務分掌の中に他の分掌と同列に学年会を置き、生活指導、進路指導、学習指導、行事の立案企画等、学年会に主体性を持たせた。主な変化としては、学年主任が毎日提出する学年日誌によって、校長は学年内の細かな動向を握把するようになったこと。分掌上の指導部(生活、進路、学習)は直接生徒の指導に当らず問題点を学年におろし、学年主任から担任へというたて割りの管理指導体制が確立したこと。それぞれの指導部は学年間の指導と調整に徹するということである。顕著な例としては生活指導部があげられる。問題生徒の処罰は生活指導部が審議し、原案を出していたものを、学年会が行うことになった。生活指導部は、各学年の原案が妥当であるか否かの監督指導にあたるのである。さらに、各学年に所属する教員は、分掌上の全ての部に所属し、各部と学年とのパイプ役を果たすようになった。

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学年会の比重が重くなるにつれ、学年主任が主催する月1回の学年集会を設けた。これは生活指導問題、進学問題等、さまざまなかたちで派生する学年内の問題を学年単位で指導する場でもあり、学校の方針の徹底をはかる場でもある。
生徒数の増加と同時に、登校マナーの悪さが目立ってきた。交通事故の問題もある。そこで、教員は生徒と一緒に登校し、生徒の中にとけこんで指導をしようという発案が学校長から出された。そこで、職員朝礼を廃止し、諸連絡は職員室入口の連絡黒板で行うことになった。生徒と共に登校する申し合わせは、教員のマイカー通勤が多くなった昭和47年に登校指導へと切り変えられ、毎朝、生徒の通学路に交替で教員が立つことになったのである。
昭和40年代は、日本経済が急成長を遂げ自由世界第2位の経済大国となり世界の注目をあびたときである。社会は急速に変化していった。この時に、理想を掲げ現実を踏まえた教育を推進するにはどうしたらよいか。まずは学力の充実向上が最大の目標であり、急務であった。その学力とは、第一には建学の理想にいう人材を支える要素としての学力、男子一生の基礎としての学力でなければならない。次に現実の問題として、極めて学力差の大きい生徒それぞれの適性、関心に応じた進路を保障する学力でなければならない。事実厳しい大学入試にも耐えうる学力をつけて欲しいという親の切なる願いも強い。この期待に応えねばならなかった。

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昭和43年には2年生から進路別の4コース(就職、私立文科系大学、私立理科系大学、国公立大学)を設け、それに応じた科目を配当して指導が行われていた。しかし、それでもなお大学入試等の実績は不十分であった。また、卒業学年になっても進路希望が定まらず、結局不本意な結果に終わる者も少なくなかった。そこで、進学希望者に対しては、まずは中堅私大(例えば県内の愛大、愛工大など)には確実に合格できるだけの学力をつけることを当面の目標として、国公立コースをやめた。また文系理系のコースの教科毎の履修単位を、文か理に思いきって偏らせた。さらに、進路の定まらない者については2年時に、特にコースを設け(普乙と称した)、当時からその数を増しつつあった各種学校希望者と同一の教育課程をつくったのである。これは、昭和44年のことであった。
また、就職コースについては、以前より計算実務、商業一般がとり入れられ、さらに43年より書道が入るなど、毎年、反省の上に検討が重ねられ、45年には3学年において、商業、工業の選択が始まった。

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昭和45年4月に教務部から学習指導部が独立した。事務的な仕事は教務部が受け持ち、学習指導は学習指導部の担当となった。学習指導部は正規授業と補習授業との連繋をはかり、進路指導部と一体になって学力向上を強力に推進することを目的とした。これは現在も続いている。
夏期休暇中に補習授業15日間の他に、猛烈ゼミと称して、同一科目を一日6時間で4日から6日間行う特別講座を46年8月から開講した。その他に、2・3年生には、8日間の合宿による補習も行われた。文科系は愛知大学、理科系では愛知工業大学の合格を目指しての指導であった。各種学校を志望している者については、学校見学や、各種学校から講師を招聘して説明会を開いた。これらは定着し現在まで続いている。

また、昭和44年の夏休みから冷房完備の自習室を設け生徒の学習の便宜をはかった。さらに昭和55年度には、進路指導コーナーを開設し、生徒自身が進路を調べる一助とした。
昭和44年度に、生徒数は1,000名を越えた。従来は、900名余の全校生徒が、運動11、文化19、計30のクラブに所属して活動していたのであるが、いろいろ問題点が出ていた。1クラブ平均30名余、中には50名を越えるクラブもあること。意欲のある者とあまりない者との差が大きいこと。2年生以上になると関心が他の面に移る者が出たり、特に3年生ともなると進学の準備のため、クラブへの興味が薄れてゆく。それが下級生にも影響を及ぼし、活動を低下させることにもなりがちであった。
そこで、44年度から、1年生だけを全員参加とし、2・3年生は希望制とした。また、1年生も週1回活動する者と、毎日活動する者とをはっきり区別した。その結果、2年では63%、3年では40%の者がクラブ活動を続けた。また、2年の運動クラブ員は29%と全員参加の時と比べても減少せずに、みな意欲的に活動するようになった。

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その後文化クラブは、昭和48年度には20クラブになり、それぞれ目標を意識した活動をすすめ、意欲をもたせるように配慮した。運動部は試合を目標とするが、文化部も文化祭、城西美術展、私学展、私学音楽会等を目指した。その結果、文化部も週1回だけでなく、連日活動するクラブが増加した。
昭和46年6月、文化クラブ棟(5室)が完成し、クラブの拠点ができたことは、その後の文化クラブ進展の力となった。クラブ活動が多面的に活発化する中で、たがいに刺激しあい成果をあげていったのである。
昭和44年8月。約1か月をかけて排水設備が完成。400米トラックとフィールドを全てカバーする大工事であった。トラック中央の約130米の溝を中心に龍骨状に左右16本の溝をつけたものである。かなりの雨でも3時間から5時間で排水乾燥した。これでさんざん苦労した除草の苦労から解放され、かつ体育授業の充実はもちろんのこと、運動部の練習にますます拍車がかかったのである。
昭和43年から46年は、運動部が西三を制覇し、県大会で活躍した時代である。37年から40年の「出ると負け」時代から苦節10年、やっと活動の成果が表れはじめたといえる。

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西三制覇県大会出場の先鞭をつけたのは剣道部である。41年7月の西三大会決勝戦で知立商業高校を4対1で破り宿願の初優勝を遂げた。その後、43年のインターハイ県大会に出場、2回戦で敗退。44年、西三大会決勝で岡崎工を3対2で破り優勝。県大会では3回戦まで進出したが、豊橋東に敗れ涙をのんだ。しかし、昭和45年11月の県新人剣道大会では、並み居る強豪を次々と打ち破って、念願の初優勝を遂げた。皇学館大出身の末田靖彦教諭に鍛えられた、黒柳保、永井金太郎、佐藤秀幸、細井芳夫、矢壁輝彰の5人で全員2年生であった。
バスケット部は43年、44年の2度、インターハイ予選県大会への出場を果たしたが県大会の壁は厚かった。
また陸上競技部は、42年岡崎市民駅伝の優勝を契機に、44年の西三大会で800m、1500m、走高跳、棒高跳に6名が入賞。インターハイ予選県大会への初出場を果たしたが、惜しくも入賞を逸した。

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