第3節 裁縫教員試験に合格第1号

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女性の職業としては、看護婦か女工さん、仕立屋の針子、そして小学校の教員ぐらいしかなかったこの時代、だい先生は自分の体験から、女性にも独立して十分やってゆける経済力を身に着けさせ、女性の地位向上のためにも、この学校の生徒に、小学校の裁縫教員の資格を取らせてみよう、と考えた。
しかしこの頃、この地方において、職業婦人になるという事は、生徒や保護者の間に、よほどの事情がない限り、考えなかった時代であった。女性は家庭に居て家事をするものであり、人前に出る職業につくという事は、極めていやしい事であると考えられ、教師になる事など想像だにできなかった。
数少ない中等以上の教育を受けた女性が、職につくとすれば、小学校教員であったが、大正5年発行の『碧海郡誌』により安城町内の小学校教員数を見ると(大正4年4月末日調)、尋常小学校5校、高等小学校1校の教員が、69名で、男子56名、女子13名であり、女子教員の割合は18.8%である。この13名中の6名が専科教員であり、1校に1名ずつ(第一のみ2名)居る所を見ると、裁縫か家事の教員であったろう事が想像される。
このような時に、裁縫科教員に目を着けたのがだい先生であったが、『おもいでぐさ』によると、「当時、小学校の裁縫専科教員になるためには、名古屋まで行って勉強することになっていたのですが、それを、この安城でも教育することが出来るようにしたら、と考えましたので、女子の職業教育に目を着けて」…とある。
大正時代、小学校の教員になるためには、小学校令の規定により、師範学校を卒業するか、検定試験に合格して、教員免許状を持たねばならない。(免許状は、各府県知事が授与することになっており、大正時代には全国に通用した。)

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この検定試験には、試験検定と無試験検定との2種類があった。試験検定は、小学校を卒業しておれば受験でき、毎年1回行われた。学力(教育・教授法・専門科目・実技等)試験をし、身体・品行等を調査して合否を決定した。無試験検定とは、中学校・高等女学校あるいは実業学校を卒業した者とか、教職経験のある者について、その資格を考慮して、合否を決定するものであった。
免許状には5種あった。小学校本科正教員(尋常高等小学校の全科目を教え得るもの)、小学校准教員(本科正教員の補助)、小学校専科正教員(尋常小学校で、特定科目例えば図画、体操、裁縫等の1科目、或は数科目を教え得るもの)、尋常高等小学校正教員(尋小の全科目を教え得るもの)、尋常小学校准教員(尋小の正教員の補助)の5種類である。
(佐藤米一著『愛知県小学教員受験要訣』による)

愛知県のこの検定試験は、毎年1回、大体10月末日頃、当時3校あった師範学校で行なわれたが、裁縫専科と家事専科は、名古屋市の愛知県女子師範学校(西区北押切町)で行なわれた。午前8時から始まり、午前中は実地であり、午後が試問(筆記試験)であった。
安城裁縫女学校の生徒に、だい先生が取らせようと考えたのは、この小学校裁縫科の専科正教員の免許であった。当時の生徒にとって、実地の裁縫はともかく、試問が大変であった。この頃の問題は、4問中、教育学1問、教授法1問、裁縫関係2問が出題されたようである。
大正元年、在学生で、だい先生宅に寄宿していた本多レイさんに受験を勧めた。向学心の盛んであった本多さんは、すすんで承諾し、それからは先生と本多さんの夜昼なしの勉強が始まった。本多さんも『裁縫教授法』(矢田部順子著)などの本を買って、熱心に自習をした。試験の前日、安城駅までだい先生の見送りを受けて名古屋に行き、試験場の近くの宿屋に1泊して、当日は年配の人達に混じって受験をした。
本多さんは「ほとんどあきらめていた」と言っているが、翌年2月の愛知県公報に、本多レイさんは見事合格していた。教え子のこの合格第1号は、だい先生にとって大変な喜びであると共に、学校の将来に、自信と希望を持った事であったろう。
翌々大正4年10月、鳥居トキ、長谷部うめ(現在藤浦姓)の2名が、第2回目の受験をした。この年には、夏期休暇中の8月、5日間にわたって、名古屋の女子師範学校の教授であり、検定試験官でもあった谷口ちよ乃先生をお招きし、「裁縫教授法」の特別講習を行なった。だい先生も、『おもいでぐさ』によると……「特別に、夜受験勉強の指導をしたのです。私、昼は裁縫の理論及び実地に力をこめて指導し、夜は、長女二三子を背負いながら、3時間位宛、裁縫教授法と、裁縫理論を講義しました。」………

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こうした努力の甲斐あって、2名とも、見事に合格した。公報発表前に、名古屋の谷口先生から内々で合格を知らせてきたが、この通知を手にした時、だい先生は2人の背をゆさぶって喜び、だい先生のお母さんも、赤飯をたいて2人を祝った。
これらの合格者達は、学校卒業後半年から1年位、教生としてだい先生を助けて後輩の指導をした後、碧海郡内の小学校へ、裁縫科教員として就職していった。
苦しい学校経営の中で、この裁縫科教員への道が開けた事は、学校の将来に明るい光が指したことであったろう。この頃から、学校の授業科目、指導法もはっきりと検定試験を目指したものが多くなり、教員資格の希望者のために、裁縫教授法・裁ち方・道徳などの科目を加え、毎日実習試験を行なっては、自由自在の応用能力を養って行った。やがて、こうした努力が実を結び、学校への試験官の出張試験、無試験検定へと、進展してゆくのである。

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検定試験受験当時の思い出 石川レイ
(旧姓本多、大正元年10月裁縫女学校専修科卒)
小学校を出てお寺へ裁縫のけいこに通って居た私は、親戚の人より安城裁縫所の様子を聞き、両親にたのんで入所致しました所、小学校の裁縫の先生が東京裁縫女学校を出た方でしたので、小学校で習った事も少しは役立って、楽しく勉強する事ができました。
其の頃、専科訓導受験のため勉強していらっしゃる方を見て居るうちに、私もやってみようかと思いたち、だい先生もおすゝめ下さいましたので、翌年4月頃から、お友達といっしょにその勉強にとりかゝりました。裁縫の理論や実地は、先生が入念にお教え下さいましたのでよいものの、教授法の勉強に困り、先輩に聞いて、『裁縫教授法』(矢田部順子著)を参考書にして勉強致しました。先生は大変力を入れて下さって、過去の試験問題等何十年分も集めて、力だめしをして下さいました。
試験の前日も、私は名古屋の地理に不案内なので、迷ふと悪いから、駅に着いたら人力車で試験場の近くの宿屋に泊る様になど、こまかい所まで心づけて下さいましたが、お友達のお父さんが送って下さったので、心配なく宿をとることができました。試験の心配となれない宿に加えて、名古屋城の堀の水音がやまないので、夜中熟睡する事ができませんでした。
当日は、お友達といっしょなので、心強く試験場へ行く事ができました。心配して居た教授法の問題は、参考書のうちにあるのが出たのでよかったものの、答案を毛筆で書かなければならないので、時間が少なく迷惑致しました。
試験後、お友達と別れて、これでは合格の見込みはないと淋しく帰って来ました所、安城駅には、だい先生がむかえに来て下さったので、感きわまって言葉も出ませんでした。次の日からは、細目のおくれを取りもどさなければならないので、試験の結果など忘れてしまいました。
其の年も暮れてしばらく過ぎた頃、安城小学校の先生(准訓導の受験をされた方)から、だい先生が私の合格した事をお聞きになりました。其の時、先生は新校舎からころげる様に走って来て、私の肩をたゝいて「合格したんですよ……」と言って、喜んで下さいました。私は、しばらくポカンとして居ました。その時のお姿は、今でも目に見える様な気がします。
其の年の4月から、私は安城第四小学校へ就職する事になり、学校を去りました。就職してからも何も分らず、同校の先生にいろいろ導いて戴き、やっと勤めることができたくらいでした。他のどこの学校にも同窓生が勤めていないので、とても淋しい気持ちでした。何と言っても未熟なので、勤めてからもだい先生に、女子師範へ授業参観につれて行って戴いたりしました。他の学校の先生にはとても感じられない“まこと”のこもったお心づかい。私は只感謝の気持ちで一杯でした。退職後、変った方面に入ったので、何の御恩返しもできず、申し訳ないと思って居ります。

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