第4節 新しい高校教育の創造(昭和54~57年度)

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昭和54年度には富田太校長の下で、建学の精神を敷衍し具体化して、教育目標と指導の重点が掲げられた。

教育目標
建学の精神に基づき、次に述べる人間の育成を期す。
(1) 真心・努力・奉仕・感謝の精神を体得しねばり強く実践する人。
(2) 自己の能力を開発し可能性の限界まで伸ばす人。
(3) 家庭と社会に温かい心と新しい息吹を与える人。

指導の重点
1 豊かな人間性の涵養
2 自主的態度の育成
3 基本的生活習慣の確立
4 基礎学力の向上
5 逞しい心とからだの鍛練

中教審の答申に基づいて文部省も教育課程の大幅な改革に着手しようとしていた時、本校は私学としての全く独自な立場から新しい高校教育づくりを始めていた。

昭和53年1月、寺部理事長は、カリキュラム改訂の指針について次のように述べた。
「現行の普通科、家庭科、商業科という科別をはずし、1年は中学校の復習と高校の基礎を設定したカリキュラムとし、2年になるときに、進路目標に応じて職業コースと進学コースにわけ、必修と選択にわける。必修になるのは目的にそった基礎教科とし、選択になるものは現行の教科と、教科を内容的に統合した新しい教科を設定していく。特別講座を開講する。…このような考え方で進むことが、建学の精神の潜在能力を伸ばすことであり、能力に応じた力を伸ばすことである。具体的には何が基礎教科であり、各教科では何を基本とするか具体的に考えていく必要がある。アメリカでは『女性学』を必須として実施しているところもある」

この基本方針を受けて、頻繁に職員会議・運営委員会・教科会・カリキュラム委員会で検討を重ね、さらに理事長の指示を仰ぐというピストン運動が繰り返されて、次のような骨子が確認された。

〔1〕 1年次
1 現行の普通科・家庭科・商業科といった科別を廃止し一本化する。
2 中学校までの基礎学力の充実と、高校教育の基本を10分学習させる。そのために全科目を共通必修とする。
3 生き方、進路、基礎学力回復など、多様な目的に応ずるための特別教育活動2単位を設ける。
4 学力差の著しい英語・数学に関してはグレード制を実施する。
5 特設教科として「女性学」を設け、他の教科の核として総合的にこれからの女性のあり方を学ばせる。

〔2〕 2・3年次
1 進学・就職コースに分け、目的別にクラスを編成する。進学コースでは、進路目的を達成させるに十分な学習効果を高めるために目的別と習熟度別を併用する。
 職業コースでは、普通科就職コースと商業科を一本化したAコースと、家庭科のBコースの2つにする。
2 進学コースでは、共通必修科目を必要最小限度に抑え、基本的な学習を主とする。コース選択では、共通必修科目を補完する教科目、目的別の基本学力養成のための教科目、目的別の応用学力養成のための教科目の3つの教科目別の類型選択を設け、大学・短大に進学する者の学力伸長をはかる。
3 職業コースでは、共通必修科目を必要最小限度に抑え、コース必修で職業能力の基本的事項を学習させ、コース選択で専門的な知識・技能を高度に修得できる科目と普通科的な科目を配合して、一般的な学力をつけることができるように配慮する。
 ただし、家庭コースでは専門的な知識・技能の修得に中心を置き、共通必修以外はコース必修とする。

〔3〕 全学年を通して
1 特別教科
 ①女性学を全学年通して共通必修とする。
 ②創作活動を3年次に共通必修とする。
 ③礼法を1年次に共通必修とする。
2 特別教育活動
 各学年の教科の総単位数を32単位とし、特別教育活動2単位を設ける。
  ①1年次 オリエンテーション、基礎講座、クラスゼミ、文化講座、学校行事等の多様な目的に利用する。
  ②2・3年次 特別講座、サークル、文化講座、学校行事等に利用する。ただし、コース別にその内容については特徴をつける。

こうして、本校独自の建学の精神を根底にして、21世紀への将来展望を踏まえ、今日の現実的な諸問題に応える全く新しい教育課程が誕生したのである。この新教育課程は昭和56年度入学生から実施に移された。

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この新教育課程の目玉は特設科目「女性学」と、特別教育活動「MD」である。
女性学は社会的にも大きな反響を呼び、新聞、TVなどにも紹介され、多くの学校から問合わせや見学の申込みがあった。この女性学の構想について寺部清毅学園長は「女性学Ⅰ」のはじめに次のように述べている。
「…女性学に描かれているのは『真心・努力・奉仕・感謝』の精神の実践を通して、自己に内在している未見の我を発見・開発し、家庭にあっては、ヒューマンな愛情に満ちた環境づくりによって、家族の個性を伸ばし、社会に対しては、不断に改善を志すことによって新しい息吹を与える女性像である。この意味において女性学は、本校教育の理想像である「永遠の女」への自己陶冶の教科であるとともに、時代の黎明の扉を静かに、力強く開かんとする女性のための教科であるといってよい。」

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女性学の内容は「Ⅰ 青年期と女性」、「Ⅱ 女性と家庭」「Ⅲ 女性と社会」の3編より成り、それぞれ1年、2年、3年で学ぶことにしている。
「Ⅰ 青年期と女性」では、人間尊重の精神について徹底した理解を持たせ、人間に関する基本的な学習をさせるとともに、青年期が本格的な人間形成を主体的に始める重要な時期であることを教える。
さらに生活文化に対する見方や考え方を理解させ、よりよい文化を創造するとはどういうことかについても学習する。女性としての自覚を促すために性についての知識を人間形成、自己形成の立場から学習させることも重要な観点になっている。
「Ⅱ 女性と家庭」においては、人間の普遍的・基礎的な生活の場としての家庭生活に焦点を合わせ、その基本的事項を知識・技術の両面について学習させる。
家庭生活とはどういうものか、そこにはどういう問題があるのか、また、よりよく改善していくにはどうしたらよいのかについて、生活文化を衣・食・住・保育などの各面から学ばせるようになっている。
「Ⅲ 女性と社会」では、女性の社会参加のあり方について学習させる。女性の社会参加は現代社会の趨勢である。
女性と職業、家庭生活と職業生活などの問題について学習させ、社会の改善に寄与できる力を形成させることを目的とする。

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女性学研究委員会メンバー(昭和53年度)
富田太 校長
林昌弘 校長補佐
岩井由紀 校長補佐
森加代 学習指導部長
渡辺弘 カリキュラム専門委員
芳野キヨコ 家庭科主任

この女性学実施に備えて、昭和54年度に女性学研究委員会が組織され、教科書編纂の作業を続けている。「女性学Ⅰ」は昭和56年3月に、「女性学Ⅱ」は57年3月に発行され、昭和57年3月に「女性学Ⅲ」の編集作業は完了した。
特別教育活動としてのMDはMutual Development(相互発展)の略である。クラスや学年全体で学習したり、文化講演を聞いたり、映画鑑賞をしたり、読書や話し合いなどの活動を通して、教師と生徒、生徒と生徒が切磋琢磨して、豊かな個性を発揚させることをねらいとしている。
このMDの一環として昭和56年6月には、早稲田大学の加藤諦三教授の「生きるということは」の講演を、57年の6月には、女性登山家の田部井淳子女史の「未知への道」の講演と、「翼は心につけて」の映画鑑賞を実施した。

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ここ数年来、入学者の学力差が次第に大きくなり、特に数学・英語などにおいて基礎学力の欠如した生徒が増加してきた。各教科では教材の精選、教授方法の改善などの努力をして、この問題を解決しようと試みたが、一斉授業の枠の中では十分な効果をあげることはできなかった。そこで昭和53年度には、学習指導部内の分掌として「学力指導」を設け、特に低学力者の個別指導を行なうことにした。さらに昭和54年度には、低学力者の指導とともに、優れた学力を有する者に対しても、それぞれの進路目標に沿って特別に指導を強化することになった。この学力指導を実施する補習は英・数・国で、早朝と放課後の2つの時間帯に分けて行なわれている。
これとは別に、学級独自にあるいは学級チィーム単位に行なわれる学習会や補充授業などが、早朝や放課後あちらこちらの教室で自主的に行なわれる動きが出てきている。

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本校は優れた上位校を頂いており、入学してくる生徒の内、進学希望者は圧倒的に上位校を志望している。そのため、本校の進学指導は「初志を貫徹させる」ことを基本方針として、上位校と密接な連絡をとり合いながら行なわれている。上位校とは進学指導担当者や進学クラス担任教師と随時連絡会を持ち、保護者や生徒の上位校見学会なども毎年実施している。なお、これらの指導を徹底するために昭和55年度より「学習と進路の手引」が発行されている。

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過去15年間の卒業生の進路状況は前表の通りである。
昭和47年、安城学園の創立60周年を記念して、本校の同窓会である勿忘草会より金50万円が贈呈された。これで図書を購入して同窓会の厚意に報いようということになった。半永久的に利用でき、まとまりのあるもので、しかも授業に活用できる図書をということで、「万有百科大辞典」、「社会科学大辞典」、「世界の文学」など二百数十冊が購入された。図書館内に特別コーナーを設けて「創立60周年記念同窓会寄贈図書『勿忘草』」と命名され、教職員、生徒によって大いに活用されている。
図書館活動の一環として、毎年夏休みには課題図書を選定して、生徒から読書感想文を募集してきた。昭和55年度から、ローテーション読書として、図書館で各60冊ずつの本をクラス数分(42種類)揃えて置き、毎月順々に各クラスへ回していく方法を採用した。この図書には主として岩波ジュニア新書などが選ばれており、生徒は「読書感想ノート」に感想を記入して提出することになっている。そのため、昭和56年度からは特に課題図書を選定して、読書感想文を募ることは廃止した。

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昭和56年度には、3年がLTの時間を使って学年読書会を行ない、1年はMDの時間を使って積極的に読書指導を行なった。昭和57年5月にも3年は、前年度の実践を活かして学年読書会を実施し、1・2年のMDの時間を使っての読書指導はますます盛んになりつつある。このような集団読書会用のテキストも着々と整備されつつあり、昭和56年度卒業生は、卒業記念として読書会用テキストを中心に図書多数を寄贈した。このような動きを反映して、図書館利用者も多くなってきている。
昭和55年・56年の2回、1年の入学間もない4月に、校内において学習合宿を実施した。これは、合宿体験を通して高校生活と学習に対する基本的態度を身につけさせようとするものである。平常の授業日に、生徒は2日間学校内に泊り込み、午後4時30分から11時までと、朝7時30分から8時20分までの集団学習を体験する。

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特に英・数・国を中心とした予習の方法の指導、確認テスト、自主学習、学習相談などを組み合わせて、決められた時間生徒にみっちり学習させ、学習の技術を習得させる。
この学習合宿の実践は、昭和57年度から、フレッシュマンキャンプの内容を大幅に改善させることにつながった。従来のフレッシュマンキャンプは、徹底した集団規律の指導の中で、農作業やウォーキング、自然との対話などを主としていた。57年度には、新装なった安城学園開田高原彩雲ロッジを利用して行なわれることになったこともあって、従来の生活目標はそのまゝ残しながら、3泊4日の合宿生活を通して20時間学習を達成させることを主眼とするようになった。

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青少年非行は戦後第三のピークといわれ、その高原状態が続いている。生徒の学校離れ、教師離れの傾向が強くなり、不登校、登校拒否などもみられるようになった。また、一般的に保護者の指導力の低下も痛感されるようになった。そこで、さまざまな創意をこらした学級活動や定期的に学級通信を発行して、保護者・生徒に訴えかけるクラス担任が増えてきた。
学級通信は、昭和54年度から各学年担任会においてその有効性が確認され、多くのクラスで発行されるようになった。昭和57年度には、週1回の学級通信を発行しているクラス担任が全体の半ばを超えている。

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保護者への働きかけをより強化するために、昭和54年度には、PTA総会出席者は総会終了後、総会欠席者は後日、日を改めて、保護者・担任による学級懇談会を行なうことになった。最初は1年だけに実施されたが、昭和55年度には全学年に及ぼされた。さらに昭和57年度からは、1・2年については5月・9月・1月の年3回の学級懇談会が定例化され、6月・11月には従来とも個別懇談を主とする保護者会が行なわれるので、保護者との提携は極めて緊密なものとなった。

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このような動きと連動して、PTA活動も活発になり、昭和54年度からは、従来の遠隔地保護者会に代って、地区ごとに保護者が集って講演会を開き、懇談を行なうPTA地区別研修会が実施されるようになった。
また、学園祭でも、従来の展示部門のPTAコーナーに加えて、昭和55年度から瀬戸物のバザーを行なうようになり、PTA役員多数が参加して活況を呈するようになった。

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全回大会へ出場する運動クラブの応援にもPTA役員や会員有志が参加することが、昭和51年から慣例化し、57年8月には、全日本高校総体に出場したソフトボールクラブの応援のために、PTA役員多数が鹿児島県へ馳せ参じた。

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非行生徒の増加と悪質化に対処するため、昭和54年度から、補導を生活指導と改称すると同時に、各学年に担任なしの生活指導チーフを配置した。生活指導チーフは学年主任と連携しながら、学年全体の生活指導、校則指導、問題生徒の指導などに当る。なお、この年度に、問題生徒の指導のために特別指導室が設置された。
昭和57年5月、長野県の御岳山麓に安城学園開田高原彩雲ロッジが建設された。鉄骨造2階建、延べ床面積979平方米余で、一度に約250名が宿泊できる。
前述したフレッシュマンキャンプが、この施設を利用して行なった最初の学校行事であり、これに続いて、従来木曽駒高原で行なわれていたグラデユエーションキャンプが、昭和57年7月に行なわれた。開田高原彩雲ロッジを使用することになったために、このキャンプの主目的を御岳登山に置くことになった。5月のロッジ竣工以来、数度にわたって殆どの教職員が下見に出掛け、実際に何度も登山を行なって登山計画を練った。
キャンプは7月21日から第1班、23日から第2班、25日から第3班と3班に分けて2泊3日ずつ行なわれた。たまたま57年度は天候不順のため、御岳登山を実施できたのは第1班の約150名だけであった。

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キャンプを終えて
普3F 柴田綾美

長野県の大自然の中で過ごした2泊3日、キャンプファイヤーだけは雨の為、つぶれたものの後は過ごしやすい天候に恵まれた。大自然の中での共同生活、寝食を共にした生活、キャンプを初めて経験した私にとって、得たものは実感としてまだないが、まず協力ということで得たものは炊事だろう。
決められた時間内で済まさなければいけない。飯ごうを使って御飯を炊く、キャンプならではのことである。木を燃やし、木くず、新聞紙を燃やし誰もが体中灰だらけになり手に軍手、片手にうちわを持ち頬をまっ赤にそめ、そして少し焦げた御飯の出来上がり。
「出来た、出来た。」と歓声がわく。みんなで作ったカレーライス、あの味は家庭で作る味とはちがう独特の味だったように思う。
そして大きな行事である御岳登山、朝4時という一番眠い時間に起き、4時半出発、登山だけでどのくらい時間がたっただろう。5時間ぐらい…か。
大自然の中を自分の2本の足で一歩一歩大地を踏み、項上に近づくにつれ満足感とここでもうやめたいというあきらめが頭の中を走った。登山というものはこんなに厳しいものなのか、山男や登山のクラブに入っている人達は、精神力も強いんだろうな、とふと思った。途中、残雪を目の前で見た時、また、川のせせらぎ小鳥のさえずりを耳にした時、心が落ち着きここまできたんだ、絶対登ってやる…と、体中に意欲が、湧いてきた。
登っていく間、一番苦しかったところといえば、山頂が見えかけてきた時だった。周りは岩がゴロゴロ、足が思うように動かない。気持ちだけが先に先に行ってしまい、足がついていかない。もう岩の上を四つんばいになってはい登っていった気がする。“登った!頂上1だ!”心の中で叫んだ。周りを見ると大きな三ノ地、とてもすんでいて、美しい池だった。あの池を見た時、まるで『よく来たね。ゴクロウサン』とむかえてくれたような気がした。もう満足感でいっぱいだった。目的を達したあとのすがすがしさというのか。
山頂で口にした紅茶が大変おいしかった。にがみと甘さが溶けあって…。1時間半ぐらい山項で過ごした。ひんやりとして少し寒さを感じた。下山は、登山とちがう、こわさを感じた。何度か足を踏みはずし恐怖を味わった。3時間半ほどだったと思うが土の上からコンクリートの上へ足を踏み入れた。もうその夜はつかれと満足感でぐっすり眠ってしまった。登山の経験は、恐しさがあるが、若いうちには一度味わっておくのもいいな…と後で感じた。あの苦労して目的を達したことをいつか思い出すことがあるかも知れない。
2泊3日のキャンプを終えて今は、ただ登山のことだけでいっぱいだ。

その他に、昭和57年度には、この施設を使用して演劇クラブ、バスケットボールクラブ、ブラスバンドクラブなどの夏期合宿が行なわれ、2年のリーダースキャンプもここで行なわれた。

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昭和55年6月、富山県負婦郡八尾町にある、過疎化のために廃校となった大長谷小学校栃折分校の使用権を取得した。ここを「心のふれあい学舎」と命名してリーダースキャンプなどに活用することになった。
早くから、生徒会やクラブ、クラスにおけるリーダー不足が指摘され、その養成の必要性が叫ばれていたが、それが実施に移されたのは昭和55年8月のことであった。「心のふれあい学舎」を利用して、1年各クラスからの代表45名が参加して、3泊4日のリーダースキャンプが実施された。クラスづくりの方法、模擬討論による司会や議事の進め方の指導、レクリェーションなどを盛込んだスケジュールで、大きな成果をあげることができた。続いて、2年は安城市青年の家を借りて、各クラスから4名ずつの代表が参加して同様に実施され、これがクラス代表者会議として定着し、学年集団づくりに大きな役割を果した。

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昭和57年8月には、1年は同じく富山県の「心のふれあい学舎」で、2年は開田高原彩雲ロッジで、それぞれ3泊4日のリーダースキャンプを実施した。
昭和53年度の学園祭で確立した方式は、その後も踏襲されている。昭和55年度学園祭では、形式から内容の充実への転換期にさしかかったという認識から、高校生文化の創造のために、生徒がもっと鋭く主体的に考えていかなければならないという観点と、クラスの競争意識をむき出しにして、お互に欠点をあばき合うのではなく、競い合い学び合う中で全体の質的向上をはかって行くべきであるという観点から、生徒講評委員会が設定され、学園祭全体の総括を行なうことになった。この年の展示では「インドシナ難民は今…」(商2A)が難民の悲惨さを訴えて大きな反響を呼び、各新聞にも報道された。
昭和56年度学園祭では、修学旅行で学んだ原爆問題を取り上げて「戦争と核の危機の時代を考える」(商3A)が、やはり各新聞に報道された。この年の学園祭でもう一つ注目されるのは、1年が共通テーマ「生きる」を掲げてMDでの学習の成果を発表したことである。昭和55年度演劇部門で優秀賞に輝いた創作劇「残された光」(普2E)は、大阪の公立高校でも上演されて話題になった。

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学園祭統一テーマ
昭和54年度 「高めよ!研究活動 求めよ!オリジナリティ 深めよ!地域の信頼を」
昭和55年度 「無限の可能性と 永遠なる友情の広場を!」
昭和56年度 「築こう青春のピラミッド 積み上げよう地域の信頼」

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バスケットボールクラブは昭和52年に全日本高校総体に出場して以後、全国大会への出場の機を逸している。ソフトボールクラブは昭和54年に全日本高校総体に出場し、途中2年を空けて57年度には鹿児島で行なわれた大会に出場した。それに先立って57年3月、安城学園の創立70周年を記念して、全国私学ソフトボール選抜大会を安城で主催した。
陸上クラブは、昭和54年米津3津江が800米で県大会第1位、鎌田千鶴が400米第5位、55年には、前田順子が県大会円盤投第3位、砲丸投第5位、400米リレーで第5位、56年には同じく走高跳で渡雅子第3位、前田純子が円盤投第3位、砲丸投第5位に入賞して東海大会に出場した。そのほかハンドボールクラブ、テニスクラブなどが、それぞれ県大会に出場して活躍した。
文化クラブでは、インターアクトクラブの代表が昭和54年度に、約3週間にわたってアメリカに派遣され、ブラスバンドクラブは、昭和56年度に全国吹奏楽コンクールの三河大会で金賞、県大会で銀賞を獲得し、57年度にも同コンクール三河大会・県大会ともに金賞に輝いた。演劇クラブも昭和57年度県大会に出場して、県教育委員会賞に輝いた。

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昭和54年、故園長先生胸像前に、築山を作り松などを植樹して立派な庭園が完成し、学園内に潤いを与えている。

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昭和56年4月、富田太校長が城西高校長に転任され、代って城西高校から鈴木修校長が迎えられた。鈴木校長は健康上の問題もあって、昭和57年3月退職され、4月からは再び寺部清毅理事長が校長を兼任されることになった。
昭和57年4月、上位校に短大国際教養科が新設され、豊田市に開学した。これを機に、大学・短大の学名が変更された。のに伴なって、従来の安城学園女子短期大学附属高等学校は校名を「安城学園高等学校」と改めた。昭和57年度の現況は次の各表に示す通りである。
(上記図版「昭和57年度 安城学園高等学校」参照)

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