第6節 『主婦の友』記念号に紹介される

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大正12年9月1日午前11時58分、稀有の大地震が京浜を中心として関東一帯をおそい、都市では大火災が発生した。東京市は3日間燃え続き、全市の6割を焼き、死者5万9,000人余、行方不明1,050余人といわれる。大震災により、首都の交通通信網は完全な麻痺状態に陥り、水道はとまり食糧はなく、暴動を報ずる流言ひ語が飛び、人心は不安と動揺におののいた。社会主義者大杉栄等が憲兵警官に殺害されるという惨事を生んだ。
このように大震災は、物心ともに巨大な損害をもたらし、第一次大戦景気の反動として生じた恐慌とそれに続く慢性的不況に追いうちをかけた形となり、その傷手は深刻であった。
地震の起ったその時刻に、本校では、教室で学習している者や、2学期始めのことで、寄宿舎で郷里からの土産をひろげ楽しんでいる者など、さまざまであった。その時校舎内で学習していた生徒は運動場へ避難したが、池の水が揺れていたのを、今もはっきりと覚えていると語っている。当日は、例になく、授業は午前中で終り帰宅をしたそうである。この地方への影響はさほど大きくはなかったようだが、本校では2階建校舎が相当の被害を受けた模様である。
大震災の惨状から立直るため、東京地方へ各地から救援の手がさしのべられ、一応の復興は急速にすすめられた。震災後3ヶ月、11月10日に「国民精神作興ニ関スル詔書」が渙発され、国民の奮起が促された。「(前略)今次ノ災禍甚タ大ニシテ文化ノ紹復国力ノ振興ハ皆国民ノ精神ニ待ツヲヤ………浮華放縦ヲ斥ケテ質実剛健ニ趨キ軽佻詭激ヲ矯メテ醇厚中正ニ帰シ………恭倹勤敏業ニ服シ産ヲ治メ(後略)」とあった。
この様な時、『主婦の友』は、大正13年9月、大震災記念号に、学校長だい先生の伝記を紹介した。「私生児に生れて女学校長となる迄」と題して、その悲しい運命を雄々しく乗り越えて成長し、苦労の末、財団法人安城女子職業学校を礎き上げるまでが、6頁にわたって、人を引きつけて放さない名文で綴られている。その中に、だい先生自身の言として次の様に記されている。

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「将来の婦人は実際的の力の持主でなければなりません。」から始まり、この学校で、1年で尋常小学校准教員、2年で小学校裁縫専科正教員、更に尋常小学校正教員の資格をとらせることを述べた後つぎの様に続けている。「さうすれば、家庭の事情などで中途退学しても、それまでの勉強が役に立ちます。かうして資格を得させておけば、萬一の場合、例へば良人に死別した場合などにも、見苦しく狂ひ迷ふやうなことはありません。財産などは決して最後の保証にはなるものではありません。結局婦人も、自分一人の力を養ひ、しっかりした実力の上に生活の基礎をおくべきです。私は凡ての生徒を働ける婦人に育てます。働ける婦人でなければ、決して理想の主婦ではありませんから。」また、寮生活について述べた後に「私は学校を楽しんで勉強するところとするよりも、寧ろ苦しみの道場としたいのです。そして何んな苦しみにも崩折れない、ほんとうに強い、しっかりした主婦を作りたいのです。」と記されている。
この記事は、傷ついた人々、起ち上ろうとする人々を、どんなにか励まし勇気づけたことだろうか。この教育方針は、国策にも沿っており、当時の国民感情にも強い共感と生きる指針を与えたようである。

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この『主婦の友』の記事は、若い女性とその親に大きな反響を呼んだ。そして、その翌年、大正14年4月には、新設の高等師範科(1部、2部)及び裁縫師範科へ、文字通り全国各地より、多数の希望生が集まったのである。記録(「出身地別卒業生数」の表、「大正14年度卒業生の内訳」参照)によると、大正13年度卒業生数が82名であったのが、14年度には142名と激増した。しかも、その増加数の殆んどは県外の出身者であり、その割合は38.7%を占めている。またその範囲も北は北海道から、南は熊本県まで、22府県に及んでいる。この間の事情は、『おもいでぐさ』に次のように記されている。

「大正十三年、関東大震災の記念号に、発表したいからというので、『主婦の友』社から、志村文蔵氏と婦人部の記者が来校しました。私の生い立ちから、東京での苦学の状況、現在の学校の内容などを、入念に調べていって、その九月号に掲載されました。これがきっかけとなって、次々に、各種の婦人雑誌の記事にも採り上げられるようになりました。
これが、得難いPRとなりまして、全国各地から、入学生がやって参りました。そして、その人達が、本校師範科を卒業すると、夫々郷土に戻って、職業婦人として活躍しますので、安城に憧憬る者は、居ながらにして増してゆくのです。その当時、夏休みに帰省する舎生に、土産として郷里の絵葉書を、一組宛持って来て貰うように頼みますと、その数が二十五組程もあって、入学範囲の広いことを物語って居りました。」

しかし、ここで見落してならないのは、PRの裏づけである実力養成が十分になされていたことと、卒業生の母校愛とである。この頃になると、既に卒業生も相当の数にのぼり、家庭婦人としても、「安城の卒業生は、裁縫が達者で、気だてもよい」との評判をとっていた。また、検定試験に合格した者は、碧海郡はいうまでもなく三河を中心とした各地の小学校や実業補習学校に配置され、女子師範学校卒業生の弱点であった裁縫科において、その実力を発揮していた。これらの実績が無言のPRとなっていたのである。また、これら教職についた卒業生が、自分の教えた生徒に対し母校へ入学する様にすすめたことも、大きな要素であった。即ち当時の卒業生は自分の実力に自信をもち、自分の母校に強い愛校心を持っていたということである。がまた、その様な気持を持たせる程のものを本校が育てていたともいえるであろう。

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大正13年頃には、主に県内の生徒50名位であった寄宿生も、14年4月の県外からの大量入寮生を迎えて百数十名となった。
校内の第1寄宿舎で約50名、榊原先生宅の第2寄宿舎で10名余を収容しても、半数は溢れ、遂に2階建校舎の2教室を解放しなければならなかった。従って、教室が大幅に不足し、実業補習学校の旧校舎3教室を借りることとなり、裁縫師範科、高等師範科などの生徒は、そこへ通って学習するようになった程である。
寄宿舎は、一つの大家族を模したものであり、将来、一家の主婦となった時、立派にそのつとめを果すことが出来ることを目的としたものであった。舎生は、みな姉妹であり、舎監である三蔵先生は父であり、だい先生は母であった。そこでの生活は、相互扶助的暖かさの中にも、主婦となる為の厳しい修業の性格をもっていた。この間の事情を、前掲の『主婦の友』はつぎの様に伝えている。

「彼女の学校の寄宿舎には、現在六十名の舎生がゐるが、その生活は著しく他のそれと異っている。凡て彼女自身の体験から生れた理想の実現で、朝は四時に起きて校庭の掃除をする。すべて跣足で下駄履きを許されない。炊事当番の者は、町の公設市場へ買出しに出かける。そして一時間の後、各自その日の自習を一時間づつして、午前六時に食事をする。――凡てさういうやり方である。――『卒業して社会に出た時、どんな苦しみにあっても、学校にゐたときのことを思へば何でもないと、かう思はせたいのです。『銀難汝を玉にす』で苦しみほど尊い試煉はない。……」と。

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ある卒業生は当時をこう述懐している。「朝起きると、炊事当番を除いて、夏冬ともなくかけ足をした。かけ足のない時は雑巾がけ。三蔵先生の海軍仕込みの指導の下で、懸命にやりましたが実につらかった。しかし、その反面、成績不良者を舎監室へつれていき、親切に指導されたり、時には安城座へ観劇に連れていって頂き、楽しいこともあった。また、2年生の中で選ばれた者が、近くの製糸工場へ裁縫の指導に行き、報酬を頂くなど、気を使って下さった。」と。
また、別の卒業生達は、口々に次の様に話している。「御飯は半搗米で、始めなかなか食べられず苦痛だったが、慣れてくればそれ程ではなくなった。」「偏食をいましめられ、何でも食べる様に指導された。自分は、味噌汁が嫌いで、非常に苦労したが、今思えば有難いことであった。」「舎生も、すぐ近くに校舎があるのに皆んな弁当を持っていったが、これは、家庭の生活と学校生活とのけじめを、しっかりとつけるという方針の表われではなかったでしょうか。それにしても、100箇位の弁当箱が、炊事室に並んだ様子は壮観でした。」
また、副舎監(生徒の中から任命された)をつとめた戸田初江さん(大正15年師範科卒業)は、つぎのような思い出の記を寄せておられる。

寄宿生活の思い出
大正13年、朝日町の道路添いに、グレイ一色の校舎の玄関に、「財団法人私立安城女子職業学校」と墨痕鮮かな校札を眺めて試験教室に入った。校舎内外が実によく清掃されていて驚くばかり。科目は数学、国語。終って校庭に出ると、ブランコ鉄棒が、使用する人もなく置き忘れられた様になっていた。寮の内外、新しい炊事場等を見学し、舎監先生の大声、校長先生の慎重な言葉使い、先年新聞紙上に報道された学校の歴史、校長先生の人格等を思い浮べて去った。そして、寮生活が新らしく始った。
部屋は、7号、校舎の直ぐそばの一室。舎監先生の思いの外厳格な躾に、我儘育ちの私は震える様な思いであった。床はピカピカ、一糸乱れぬとは、この様な態を言うのに違いない。
或る日、銭湯へ行くべく親友と下駄を履こうとすると私の下駄がない。野良公の戯れかと思ったが、それとも違う様である。と友人がバタバタと外へ馳けて行ったかと思うと、直に帰ってきて、「馬印」と言った。ハッ仕舞った、と思ったがもうおそい。馬印とは、1米位の杭の上に10足程の下駄がつり下げられ「この下駄舎監に断りて持ち行く可し」これなのである。脱ぎ方が悪かったのである。他に履物の無い私はしばし何も言えず、友人が「新しいのを買って来てあげるよ」と言って呉れたけれど、学資を考えると買う事は出来ず、一先づ友人に銭湯へ行って貰った。恐る恐る舎監室をノックしてみたが留守。探しに行かうにも外に出られず。思い切ってハダシで苦学生である大賀様の処に行って事情を話し、チビた下駄を借り炊事場へ行って見たが駄目。職員室を訪れても同様、住宅へお伺いしても空っぽ。万策尽きた思いの時、寮の裏道の方で特有の下駄の音、「先生」と叫んで走り寄った。私の態度に只ならぬと思われたのか、静かに舎監室へ導かれた。大目玉を覚悟の上、事情をお話して御下付をお願いした。「そうか、一方裏返しになっていたから躾のため取り上げたが、取りに来た者は始めてだ」そして「何でも物は大切にするものですよ。よく取りに来ました。」と言われた。予期しなかった優しいお許しに小さな胸は感激で一杯でした。
寮では、1ヶ月に1度位であったか、全員が一室に集まって親睦会の様な催しをする例であった。今回の催しはレコード鑑賞と部屋長にお達しがあった。今まで固苦しい事一辺倒の催しばかりだったので、私達は授業の終るのも待ち遠しく、日課を済まして時刻を今や遅しと待った。集合の合図があり皆そわそわと集った。中々先生が見えない。その中に二三子様の明朗な声、乳母車の音舎監先生の声が入り混って玄関の方から上ってこられた。「副舎監」と呼ばれたので走った。レコードその他が運ばれた。舎監先生の第一声、相変らずの反省、固い言葉がほとばしった。二三子様が「父ちゃん、早く早く」とせきたてる。固い顔も慈顔となって徐ろに蓄音機の準備。2拍子の快活な大きな音、手拍子がしたい様。アイタサ見タサニコワサヲ忘レ、暗イ夜道ヲ只一人……。憶面もなく鳴り出した。二三子様が「篭の鳥、父ちゃん、アハハ」トンキョウな大声を発し、先生も狼狽の態であったが遂に大爆笑となり取り替えられた。やっと次の音楽、4拍子、「春はベニスの宵の夢、流れに碎ける月かげは、げは、げは、……は」と唄妓の山の彼方の様になって、又々爆笑……。
昭和30年頃の正月休みに、久しぶりに校長先生を訪れた。――これがお目にかゝった最後である――あんの入ったお餅を焼いて下さって種々のお話の時健康についての話題が出た。それは、在学当時私は寮で大病をして先生始め皆様に心配をお掛けした虚弱者であったからの御配慮と思う。近所に住まわれる尼僧様の健康法について話された。尼僧様の実行して居られる方法は、敷布団の上に板を置いて裸で寝るのだそうである。先生は「私には余りにも此の年を考えると過激と思われるから、寝巻を着て実行している。疲労を感じた時は、夜でなくても実行している。身が伸びる様な気持がして快い。」と。私も当時、西式健康法の一部である朝食廃止と柿の葉をお茶同様に煎じて使用していた。その事をお話して、共にいつまでも健康でありたいと希った。その後で先生は「どんな小さな事でも実行することは尊いことですよ。理論は誰でも出来るが、実行は中々出来るものではないものですね。」と、しみじみと励まして下さった。そして、虚弱者で通っていた私は現在の様に健康である。あの時の慈愛溢れる先生の温顔、お餅の味、今もなお昨日の様に懐しい思いがする。「地震で傷んだ」と説明されたあのお部屋の壁の亀裂も、また思い出の深いもの、学び舎と共に。戦災で亡くしてしまった卒業記念の写真、今は只同窓会の折頂いた写真、それだけが思い出に活きる私の総てである。
寄宿舎生活の全貌を知るために、「寄宿舎規則」(抄)を記しておこう。

寄宿舎規則
一條 本校ノ寄宿生タルモノハ克ク本舎ノ目的ヲ會得シ舎監ノ命ヲ奉シ舎則ヲ克ク守リ長幼相助ケ和親ヲ主トシ何事ニモ共同一致シテ家族的生活ヲ營ミ秩序清潔整頓及時間言語動作精神修養攝生等ニ留意スヘシ
二條 家族制度ヲ嚴守セシメ上級寄宿生ヲシテ家事ノ監督ヲナサシメ又ハ順次ニ主婦ノ地位ニ立タシメテ應接又ハ接待等ノ事モ練習セシム
三條 寄宿生ハ姉妹ノ差別ナク凡テ各自相當ニ家事ニ關スル事柄ヲ分擔スヘシ
四條 外出ハ朝食後ヨリ始業時間十分前迄テ及放課後ヨリ點燈時マデトシ日曜及祝日等ハ午食後ヨリ點燈時マデトス(午前ハ自學自習午後隨意散歩)
五條 外出スル時ハ必ス其行先ヲ外出簿ニ記シテ舎監ニ届ケ捺印ヲ乞フヘシ若シ遅刻又ハ宿泊スルトキハ責任者ヨリ其事由ヲ届ケ出ツヘシ
六條 寄宿生ノ入費ハ舎監之ヲ保管シ濫費ナカラシム
七條 寄宿生中疾病アル時ハ校醫ニ診察セシメ病状ノ輕重ニヨリ適當ノ處理ヲナス
八條 時々寄宿生ヲ伴ヒテ郊外散歩又ハ學識經験アル人ヲ訪問シ或ハ之ヲ聘シテ談話ヲ乞ヒ見聞ヲ廣メ且諸種ノ機關ニヨリテ修徳修養及品性ノ向上ヲ計ル
九條 寄宿生ハ左ノ舎費ハ授業料ト共ニ納付スヘシ舎費貳圓貳拾錢其他一齋此内ニ含ム
 一、寄宿生ハ婦人ノ天職タル家政ヲ自覺的ニ會得シ且ツ經濟思想ヲ練習セシメンカ爲メニ校長舎監督勵ノ元ニ秩序アル共同自炊ヲナサシメ一人一ヶ月ノ食費七圓ヲ標準トシテ相當美食セシメ経濟的共同自炊ヲ奬勵スルハ本校ノ特色トス(學資全部ノ標準、拾八圓トス)
十條 遠隔ノ人ハナルベク入舎ナサルト安全デス風紀取締リ上濫リニ外泊又ハ下宿ハ許シマセヌ
十一條 本舎ニ左ノ役員ヲ設ク舎監、副舎監、會計係、圖書係、室長、炊事係、自治會、各役員(會長副會長、幹事)副舎監以下ハ舎生ヨリ選出ス炊事係ハ一日交代トス細則ハ別ニ設ク
十二條 寄宿制ハ家族制度ニシテ實親子姉妹ノ如キニシテ家族觀念ヲ陶冶スルト共ニ人生ノ意義及女子ノ天職觀ヲ徹底的ニ自覺セシメ特ニ理想ノ女子ヲ養成シタイト思ヒマスカラ一時的入舎ノ人ハ御控ヘシテ下サイ

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