第5節 女専認可への苦難の途

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昭和4年4月までには、安城女子専門学校が正式に認可されるものと誰もが信じて疑わなかった。しかし、認可を得るまでには、もう一つの試練に耐えなければならなかったのである。
当時、全国に女専は家事・裁縫を主とするものが官私立含めて9校あるのみであった。愛知県内では、女専といえば金城だけであった。しかも、それらはいずれも大都会に位置するものばかりであった。大正15年に女専設立のうごきを開始した時から2か年半に亘っては、とくに、文部省に対して安城のような農業を主とする町に女専を設立することの必要性を認識させるために努力を傾注しなければならなかった。「中央では、安城という所に対して、全然理解を持たないので、信用して呉れない」状態であり、「安城のような農業地に、女専を置いたところで、入学する生徒はあるまいと言って受付けても貰えない」ありさまであった。それにも屈せず「根気よく、農業と家事科との密接な関係、そうした土地にこそ専門教育が必要であること等を説き続けて、やっと事情を諒解」(『おもいでぐさ』)してもらうことができたのが、昭和3年8月のことであったのである(『興村行脚目記』)。
さて、認可の見通しは立ったが、連年の校舎建築工事で財政的にも余裕はなかった。新たに「財団法人安城女子専門学校」を組織するためにその基金として現金預金5万円を必要とした。そこで、寺部だい先生は「凡ゆる手を尽し、頭を絞り、無理に無理を重ねて、短時日の間に、五万円の金を纒めることに成功」(『おもいでぐさ』)したのである。その基金調達のための一つの方策が校友諸姉への寄附呼びかけであった。先に見たように、その寄附金の総額が昭和3年12月現在で909円50銭であったことを考えれば、当事者のご労苦は想像を絶するものであったといわなければならない。
昭和4年4月開校をめざす女子の家政系専門学校が他にもう1校、しかも同じ県内にあった。それは椙山女学園で、その母体である高等女学校の生徒数も多く、基本金もはるかに本校を凌いでいた。その上、名古屋に立地するという地理的有利さをも備えていた。本校の方が女専設立の準備、認可手続等において一歩先んじていたとはいえ、客観的条件は明らかに本校にとって不利であった。昭和4年3月7日文部省からの急電に接して上京した(『興村行脚日記』)寺部だい先生に伝えられたのは、基本金不足による書類却下の恐れありというショッキングなことばであった。無理算段してやっと5万円の基本金を工面し、申請にこぎつけたときだけに、更に5万円の基本金を上積みすることは絶望的であった。『おもいでぐさ』によると、途方に暮れただい先生は、窮余の1策として、東京での苦学時代に男装車夫として働いていたところを見破られたのが機縁で、いろいろお世話になり、その後も上京の都度御機嫌伺いに参上していた本郷の武部男爵家を訪ねたのである。事情を聞いた武部男爵は、その場で財団法人安城女子専門学校に金5万円を寄附し、だい先生を激励して送り出した。このことをだい先生から伝え聞いた山崎延吉先生は「さすが東京には偉い人が居るものだなあ。然るに同じ東京に居りながら、文部省は一体、何をしているのか。情けない。早く目を覚まして頭の切換えをすべきだ。そして一刻も早く、安城女専を認めるべきだ」といって3月23日寺部だい先生と岡田菊次郎町長を伴なって文部省に安藤参与官を訪ね面会を求めた。この時、文部省の意向を確めた山崎延吉先生は、期するところがあって安城女専の校長就任を決意したのである(『興村行脚日記』)。しかし、この年の認可にはすでに間に合わなかったので、椙山女学園に認可がおりて、本校は見送られることになった。

『我農生興村行脚日記』抜粋(『我農生30年興村行脚』は昭和10年に発行された。そのなかに、大正13年から昭和7年までの日記が収録されている。)

○大正十五年十月十二日
……安城町の女子職業学校は、全国的の私立学校である。寺部氏は、女子専門学校にせんとして、僕に助力を求めて来られた。僕は同氏の献身的努力を知っており、学校の成績も認めて居るが、未だ学校を見たことはない。然し寺部氏の誠意と努力とは分って居るので、僕は微力を輸すことを約した。安城に誇り得るものの一つは女子職業学校であるが、やがて県下に必要である専門学校になるのは、誠に結構であると僕は感謝せざるを得なかった。

○同年十月卅日
早朝寺部氏を招いて、女子専門学校設立のことで打合せをなし………

○同年十一月一日
……寺部氏に接して、女子職業学校を専門学校にすることに就き、岡田君と会見の模様を話して同氏の用意を促した………

○昭和三年八月廿四日
……寺部君に接しては、同君の努力により愈々女子専門学校が創立される運になったことを衷心喜んで僕も講師になることを快諾し、尚創立に就て尽力を惜まぬことを約した。………

○昭和四年三月七日
七時半帰京、寺部氏並に吉地君に接し、原稿をかき…

○同年三月十九日
……品川にて麦生氏と別れ、十時帰宿して、大見君に接して女子専門学校に対する文部省の意向を知る。……

○同年三月廿三日
……安城の女子職業学校は全国的のものであるは知る人ぞ知る事実である。寺部校主寺部校長は無資格であるが熱心と努力とで今日の盛況を築き上げたもので、教育界の恩人である。其処に女子専門学校を建て農村を背景とし、農村的の人物を造らむは、僕等の念願である。幸に寺部氏は独力一切の資格を具備して認可申請をしたが、文部省は容易に許可せぬ。寺部氏は宛ら物狂の態であり、後援者の岡田町長亦座視するに忍びずとあって、共に上京して僕に助力を求められた。斯る事は頼まれてやるべき事ではない。僕は上京後安藤参与官にはよく情を尽して居る。故に文部省の意向を聞くべく、寺部、岡田両氏を帯同して世間並の運動に出かけた。文部省の意向を知るに至って聊か決する所あり、寺部、岡田の両氏に旨を諭して別れたが、場合によりては、僕が校長を引き受け、内容の充実に一臂を添へる事になるかも知れぬのである。

○同年五月卅日
僕は、昼食後、女子職業学校に行きて、一時間あまり話をなし………

○同年六月四日
……八時より、女子職業学校に往き寺部氏に面会し、女子専門学校設立の用意を促し、生徒に一場の講演をなし、私立学校に学べるものの、幸福を知らしむ……

○同年六月十二日
……日中は吉地君と女子職業学校の寺部氏に接した外は、専ら原稿かきに没頭し売……

○同年六月廿四日
……三時より女子職業学校に往き講演をし……

○同年七月二日
……鈴伴、寺部、高橋の諸君に接して、学校問題に付て聴取する所あり、多忙の間に午前は過ぎた……

○同年十一月一日
……寺部氏に接して明日の午後を約束し……

○同年十一月二日
……三時出名、寺部氏に面会したが、今日は土曜日であり三時になったので、県庁訪問を見合はせ、僕は三時半の急行にて福井へ行くべく寺部氏に別れた。安城に女子専門学校を設立すべく年来の努力未だ酬いられず、寺部氏の焦慮は気の毒である。農村を背景の女子専門学校はあってよい、其処に寺部氏が着目して万難を排しての努力は見るに忍びず、僕は校長を引き受けて其の成立を早からしめたいと尽力をして居るのである。

○同年十二月二日
……一時半に、職業学校に行き、女生徒にも高松宮殿下の有難き御思召を伝へて、女子の覚悟を促した事は、同校生の幸であると思った。……

○同年十二月廿九日
……飯後、寺部氏に接して文部省にて野村督学官に面会の様子を告げ、学校での用意を忠告し……

○昭和五年三月廿日
……島根県から女子職業学校へ入学する人の姉といふ人に面会し、世話を引受け、寺部君より女子専門学校が愈々認可される由を聞き取り……

○同年五月二日
……農村背景の女子専門学校が必要なりと主張し、寺部氏を督して運動した関係で、其の校長を引受けた僕は、時々見廻はる必要がある。本年は認可が後れた為め、二十余名の生徒しか得られなかったので、用事はなさそうであるが、職員の配置や任用をせねばならぬが、私立学校であって見れば、思ふ通りにならぬ勝である。苦心は其処に存する。努力も亦之が為めに必要である。如何にしても盛り立てねばならぬ学校であるから、時々行かねばならぬので、僕の用事は確実に殖えた。
此日は、生徒に始めて校長としての挨拶をし、僕の希望を述べたのである。

○同年六月廿四日
……此日は女子専門学校の生徒等に、また安城警察署に於て御進講講演が約束されて居るので、帰宅早々二ケ所の講演をなし、光栄を頒つ事の出来たのを喜んだ。……

○同年五月卅一日
……十一日より女子専門学校に往き、校長としての任務を取った。午後一時より二時半まで職員と練習生に、御進講の内容を説き、指導者の心得を示した。……

○同年六月廿日
朝、女子専門学校の件に就て寺部氏を招き、内藤君に接し、授業上の相談をした。未製品である丈け、色々の点に考慮を要するが、私立学校の経営の容易からぬ事を痛感した。……

○同年七月三日
……女子専門学校に往きて講話をしたが……

○昭和六年一月廿七日
……三時半より女子専門学校に行き、久し振りに斉家論を説き結論をつけた。今年始めて卒業生を出し、本年始めて正式に入学生を容れるので職員も生徒も緊張して居るのを見て愉快に思った。農村を背景とせる唯一の女専の前途に幸あれと祈った。……

○同年三月四日
……十時、女子専門学校に行き、同校長として此処でも最終の講義をしたが、今日になって見れば、卒業生には済まぬ気がした……

○同年三月廿三日
……九時半、女子専門学校に往き、寺部氏より諸般の報告に接し、卒業式の順序を聞き、十時より女専並に職業学校の卒業證書授与式を挙げた。僕は女専の卒業生七名に、寺部氏は幼稚園の卒業生四十名、職業学校卒業生百五十名に證書を授与し、僕は両卒業生に卒業後の覚悟を諭告した。正午少し前に閉式になった。来賓は別室で、生徒の手になりし昼飯の饗を受けたが、僕は失敬して帰宅したのは、卒業生を迎へんが為めであった。
僕は女専の校長になって居るが、其の職責を果さぬ事に悩んで居る。否果し得られぬことに自責して居る。然し、生徒を思ふ至情は人一培である事は生徒に通じて居るので、聊か慰むる所があるのである。今日は自分の子供と同様に考へて、彼等の卒業を祝ってやろうと家内と安子の三人で心ばかりの昼飯を用意した。(写真)
寺部氏は喜んで七名の卒業生を引卒して来、森主任は万事を世話し、内藤、岩田、大見諸君は、職員であり父兄の立場で立合って呉れ、宛ら家庭団樂の会食をしたのは、近頃にない心持であった。然し、多忙の僕は、長く懇談することが出来ず、家内や内藤君に後を頼んで、自動車で会にかけつけ、電車で本宿村に向けて出発したのは、二時であった。………

○同年四月廿五日
……飯後、山田君を見送り、女子専門学校に行きて、新年度に入学した連中に面会、講義をしたが、今年はよい生徒を得ることが出来たとのことであり、新に職員を増して、愈々内容の充実を見る様になったのは、当然のことであるが喜んだ。……

○同年五月十八日
僕は多忙であり、女子専門の校長に名を出して居るが、其の職責を尽くす事も出来ぬので、自責の念に堪へない

○同年六月四日
朝、女専に行きて講義をなし………

○同年六月五日
此朝も、女専に行きて講義をなし………

○同年六月十一日
……僕は浪人であるが安城の女専校長、桜花女学校の名誉校長と神風義塾主とを兼務する事となった。……

○同年六月十三日
此日は安城の女子専門学校に、文部省より石川視学官が視察に来るので、僕は帰城した訳である。十時、安城駅に寺部氏と共に石川氏を迎へ、女専に案内し、寺部氏より詳細の説明あり、校内を見て貰うたが、職業学校を同時に案内した。何等か意見があるものと思ひしに、何の意見もなく指導もなく、十二時汽車で帰られたので、あっけない感がした。女専は創業時代であり、不備であるから、随分小言もあるであらうと思ひしに、それもなかった。蓋し本当の教育をせん意気込を見たものであらうと、寺部氏と語り会ひ、僕は帰宅した。
午後は、一時より三時半まで、女専に行きて、生徒に講義をし、四時に帰宅し………

○同年七月十日
……一時、女子専門学校に行き挨拶を述べ、内藤君に接して郡農会の為め働く事になった事を祝福し、生徒に久し振りの講演を試みた。………

○同十一月日
……九時半、久振に女子専門学校に行き、生徒に講話をした。………

○同年十一月七日
……僕は十一時半、女専に行って生徒に一場の訓話をした。………

○同年十一月九日
……僕は前約により寺部氏と共に文部省を訪ねることにした………
寺部氏の案内で、文部省に行き、横山政務次官、中川事務次官、窪田局長に面会して始めて女子専門学校長としての挨拶を述べた。……

○昭和七年二月廿七日
……女子専門学校は僕が校長であるのに、一月以来一度も生徒に接することが出来ず、自責の念に堪へなかったが、今朝は二時間話をすることが出来、尚卒業式の打合せをもなして、正午に帰宅した。………

○同年三月廿日
今日は僕が校長である安城女子専門学校及び女子職業学校の卒業式であるので、如何しても正午までに帰城せねばならぬので、昨日から気が急いだのである……
僕は女専の卒業式に参列し、型の如く挙式し例の如く訓示をしたが女専本年の卒業者四名であるのは心細く思った。然し、職業学校の方は師範部、高等科と合はせて百名近く卒業させたので、聊か慰めることが出来た訳である………僕は別室に於ける女専卒業生の招待席に於て、女専の主任と共に彼女の前途を祝福した。僕は平素の疎遠に自責を感じて居るので、卒業の日に彼女等を迎へて、親子の心持を得取することにして居る……

○同年四月廿二日 鳩山文部大臣を迎ふ
……此処からは僕が案内役をつとめ、先づ安城の農林学校に案内して生徒に一席の話をして貰ひ、安城小学校前を通る時生徒に挨拶を依頼し僕の女子専門学校は見る丈にして貰ひ、高等女学校では官民の有志三百名の歓迎会に出席を請ひ、僕が歓迎の辞を述べたのに対し、大臣はざっくばらんに自信を吐露されたが、何んとなく明るい大臣と思はしめた………
僕は帰宅して手紙を見、女専に行きて生徒に始業の挨拶をなし……

○同年六月二日
……八時別れて女子専門学校に行き講義をなし……

○同年六月九日
六時起き、岡田氏と朝飯を共にし、僕の主宰する女専に案内して、岡田氏に僕の講義を傍聴して貰った……

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