第3節 安城学園高等学校

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建学の精神の発揚
安城学園短期大学附属高等学校は、寺部だい先生の逝去の後、杉原博理事長が学校長事務取扱いを兼務したが、昭和42年10月に寺部清毅学園理事長が学校長に就任され、新たな歩みを始めることとなった。新校長は「学園創立の原点に帰ろう」と呼びかけた。施設では、43年1月に、本館西側増築校舎が竣工した。46年12月には、老朽化した寮が、新しい白百合寮に建て替えられた。
教育課程の改訂においては、大学、短大との一貫性を一層強化するとともに、建学の精神が重視された。なかでも特徴的なのは特設課目である。
「LL学習」と「英会話」(43年度導入)では、ヒアリングとスピーキングの基本的能力を身につけさせ、国際的感覚を養うことを目的とした。また全校生徒に日常的なフレーズを与えて暗唱させた。「作文」(44年度導入)は、1年では「生い立ちの記」を、2年ではグループ調査・研究を、3年では漢字仮名づかい、および文章表現能力の育成を目指した。「礼法」(44年度導入)では、礼法研究会が教科書を自主編纂し、「真心・努力・奉仕・感謝」の実践による「永遠の女」が目標とされた。
家庭科では、平常の授業では出来ない諸技能を学習する場として、43年度から「家庭科夏期講座」を実施した。
教職員による研究も強化され、42年には附属高校と城西高校の合同により、研究誌『学園紀要』が創刊された。
教育活動全般にわたり、活動は活発になった。41年7月には『彩雲』(年2回、53年から年1回)が創刊された。43年度からはパンフ『本校の教育』(各年度)が刊行されるようになった。42年には『図書館ニュース』が創刊された。44年4月には「新生徒心得」が制定され、「実践10箇条」は廃止された。
40年度から始めた新入生のオリエンテーションの総決算としてのフレッシュマンキャンプは、43年度からは、建学の精神の体得、実践の場として位置づけられるようになった。同年度からは、卒業学年にふさわしい校外教育活動をということでグラジュエーションキャンプが開始された。第1回目は長野県木曾駒高原であった。
45年度からは、体育祭、文化祭を一本化した学園祭が始まった。
地域社会との結びつきを強めるための活動も充実していった。
夏期休暇中の生徒の生活指導のため、42年度からは、担任教師がクラスの全生徒の家庭訪問を実施するようになった。「教育連絡会」も43年度から強化された。これは、受け入れた生徒の就学状況を出身中学校の先生方に連絡し、生徒の中学時代の様子を知らせてもらい、生徒募集のねらいも持つものである。
43年1月からは、碧南、高浜、半田方面のスクールバス運行が始まった。また同年からは、遠隔地保護者会も行われるようになった。従来の寮生の父母懇談会を拡充したものである。
44年には、本校独自の学校安全会が発足した。学校安全の普及充実を図るとともに、学校管理下における生徒の負傷、疾病などの事態に対して必要な給付を行うものである。
こうした施策、活動は、本校教育に対する地域の中学校や保護者からの信頼を高めることに結びつくことになった。

新しい教育づくりの胎動
昭和40年代の中より、後期にかけ、本校においては授業研究が活発化していった。新しい教育課程が編成され、創意に溢れた授業研究が次々と発表され、本校の教学の歴史にひとつのエポックを画することになった。
45年には、各種専門委員会が設置され、新しい教育づくりへの研究体制が整えられた。諸検査、授業研究、教育課程、性教育、LT、カウンセリングの各専門委員会である。46年からは教育課程における「創作活動」の導入のための準備が進められた。授業研究意欲の機運のなかで、教育工学への関心も強まった。
45年度からは、学園祭に統一テーマが掲げられるようになった。
47年には、生徒の制服の一部が改訂され、襟元が一層すっきりした、女子高校生らしい清潔感の溢れたものとなった。
48年頃からは補導体制が強化され、翌年には、校外補導の担当者が置かれた。49年4月には、生徒心得細則、アルバイト細則が公布された。
48年度には、アメリカの女子高校生2名を留学生として迎え入れた。

地道な教育実践の積み重ね
施設の面では、昭和51年8月、体育館、本館、南館を結ぶアーケードが完成した。52年1月には、本館東側と北館東側の一部増築工事が竣工した。
46年頃から準備されてきた新しいカリキュラムの一環として、「創作活動」は、いよいよ実施に移され、私学の独自性は一層明確に打ち出されることになった。
そのきっかけは、クラス単位の一斉授業に対する見直しの機運であった。寺部清毅学校長から「これからの時代を生きていくうえで必要な自主性と応用力を伸ばし、潜在能力を開発するために、普通の授業の形態にとらわれない学習方法を研究せよ」との提起があり、これを機に本格的に取り組むこととなった。47年には学習指導部内に「創作活動準備係」が、49年には専門委員として「創作活動係」が置かれた。
かくて「創作活動」は50年4月から、普通科、商業科の3年で実施されることになった。この創作活動は、「自由に本人が選択した教材に従って計画立案し、ひとつのテーマを長期にわたって自主学習させ、そのなかで自己の可能性を探求し、発見し、引き出していく能力を身につけさせる」ことを目指そうとするものであった。校外に調べに行く生徒たちは腕に「校外活動」と染め抜いた腕章をつけた。51年2月には、創作活動の第1回発表会が行われた。
この他にも、意欲的な教育活動のための体制づくりが進んだ。
52年6月には、視聴覚教室が大改造され、映写室が設けられ、VTRなどの器材の整備も進んだ。
52年11月には、本校中央校舎跡に法人本部管理棟が建築されたが、その2階には図書室、資料室、ゼミナール室などからなる学習センターが設置された。
この他、基礎学力の向上のため、50年には「数理テスト」が実施され、またこの頃から、予習復習の徹底が目指された。
生徒指導の面では、51年頃から、同一学年を2、3クラスのチームにまとめ、担任が協力して動ける体制とした。
修学旅行は、50年度から、従来の2年11月から3月に変更するとともに、内容を充実化させ、長崎での「班別自由行動」を取り入れた。学園祭は、53年度からはマンネリ化を避けるため、基本方針、活動方針を立てて行うようになった。

新しい高校教育の創造
昭和53年4月には、本校の学校長として、元刈谷高校校長の富田太氏が迎えられ、寺部清毅先生は理事長職と大学・短大学長職に専念されることになった。
この頃、教育課程の改訂についての大きな動きがあった。中教審の答申により文部省の考えも転機を迎えようとしていたが、本校はまったく独自な立場からの新しい高校教育を目指そうとしたのである。
寺部学園理事長の「現行の普通科、家庭科、商業科という科別をはずし、1年は中学校の復習と高校の基礎を設定したカリキュラムとし、2年になる時に進路目標に応じて職業コースと進学コースに分け、必須と選択に分ける。このような考えで進むことが、建学の精神の潜在能力を伸ばすことであり、能力に応じた力を伸ばすことである」という指針に基づくものであった。討議、準備が繰り返され、56年度の入学生から実施に移されていった。
特に注目されたのは、「女性学」と特別教育活動の「MD」であった。
「女性学」は、「青年期と女性」「女性と家庭」「女性と社会」の3編からなる。寺部清毅理事長は、「真心・努力・奉仕・感謝の精神の実践を通して、自己に内在している未見の我を発見・開発し、家庭にあっては、ヒューマンな愛情に満ちた環境づくりによって、家族の個性を伸ばし、社会に対しては、不断に改善を志すことによって新しい息吹を与える女性像、永遠の女への自己陶冶の教科であるとともに、時代の黎明の扉を静かに、力強く開かんとする女性のための教科である」と語っている。
特別教育活動としての「MD」は、ミューチアル・ディベロップメント(相互発展)の意で、文化講演、映画観賞、読書などで教師と生徒、生徒と生徒が切磋琢磨するというものである。
こうした教育課程と連動して、この頃から、教育活動は一層、質的な充実をみた。
基礎学力の面では、53年度からは学習指導部内に「学力指導」分掌を設け、低学力者の個別指導を始めた。翌年度からは、優れた学力を有する者に対しても個人指導を行うようになった。「学習と進路の手引」も作成された。
図書館活動の一環として、55年頃からは、課題図書、学年読書会などの試みがなされた。
校内における学習合宿も、55・56年度に実施された。学校に2日間、泊まり込んでの集団学習である。この体験は、フレッシュマンキャンプの内容改善につながった。従来の3泊4日の集団規律のなかでの農作業、ウォーキングなどに、20時間学習が取り入れられたのである。
PTA活動の面では、この頃から従来の遠隔地保護者会に変わり、地区ごとのPTA地区研修会が実施されるようになった。
生活指導の面では、54年度から、補導を生活指導と改称するとともに、各学年に担任なしの生活指導チーフを置くようにした。
55年6月には、富山県婦負郡八尾町の廃校の使用権を取得し、ここを「ふれあい学舎」と命名し、リーダースキャンプなどに利用するようになった。
57年5月には、長野県の御岳山麓に安城学園開田高原彩雲ロッジが建設された。延べ面積979平方メートルで、一度に約250名が宿泊出来るものである。
学園祭では、全体の質的向上を図る考えから、55年度からは生徒講評委員会が設置され、学園祭全体の総括を行うようになった。
56年4月には富田太校長が城西高校長に転任され、代わって城西高校から鈴木修校長が迎えられた。しかし鈴木校長は健康上の理由で、57年3月に退職され、4月から再び寺部清毅学園理事長が校長を兼任することになった。
57年4月、安城学園女子短期大学付属高等学校は、「安城学園高等学校」と名称変更された。

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