第2節 校舎増築までの苦心

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学校開校1年目の生徒は、約30名であった。古い住宅の2間の仕切りを取り払って作った教室は、いかにしてもこれでは狭ますぎる。
2階にある1間は、遠方からの入学者のための寄宿舎に当てられており、年寄り(だい先生のお母さん)のための部屋も1間必要である。又この春には、寺部夫妻にとって2人目の子供も生れ(明治42年11月、長男清先生誕生。明治45年2月、次男清毅先生誕生)子供達の為の部屋も必要であった。こうなると、これ以上住宅を教室に使用する事は不可能であった。何としても教室がほしい。
2年目も、30名以上の生徒を集め、早く生徒数50名の学校にしなければならない。経営的な面は勿論であったが、学校開設に当って、町内の方々の意向にさからって開設した手前もあり、当時のだい先生にとっては、これは意地でもあっただろう。
それにしても必要なのは資金であった。当時校舎1棟30坪分300円(『おもいでぐさ』による)があれば建ったのであるが、この資金を得るため、桜井村川島の西心寺の頼母子講に加入した。頼母子講(無尽)というのは、中世頃から始まった庶民の金融制度で、明治以後も盛んに行われており、多くは寺社を中心に講が組織され、講のメンバーが少額の掛金を積立て、講金を順番・抽せん・入札などで受取るのであるが、後の保証のため信用証文を入れたり、担保を取ったりした。幸いにも第1回で落札はできたが、この金を借りるための信用証文を入れるのに保証人2名が指名され、この連借印が必要であった。この2人の印をもらうまでの苦心談は、『おもいでぐさ』によると「その人たちは、村で一、二を争う程の大地主さんであって、今まで深く交際したこともないので、引受けて貰えるかどうか不安でありました。
或る日の夕方、乳呑児清毅を乳母車に入れて、この2軒の家にお願いに参りますと、果して、お二人共同じことを申されるのです。即ち、Aさんの所へ参ると、「B家で印を捺せば………。」というし、それではというので、B家へ行くと、「Aさんさえ承諾すれば………。」という調子です。両家の間は1粁程でありましたが、仕方がないので、何回となく往ったり来たり致しました。夜は次第に更けて、零時を過ぎた頃でした。B家の娘さんは、父の言葉を聞きかねて、寝床から起きて来て、父親を口説いて下さったのです。こうして、やっと、請印をお願いすることを得ました。この娘さんは偶々本校在学中であったのです。帰宅したのはまさに丑三つ時、午前2時過ぎでした。
生れたての赤ん坊を乳母車に入れて、たゞ一人、4粁以上もある夜道を帰ったあの時のことを思うと、本当に寒々として身に迫るものを、今も感ぜずには居られません。」
こゝに、当時のだい先生の、学校への情熱・意地・そして不屈の精神が、現われているようである。
こうして、寺部三蔵先生の記録によると、大正元年12月15日、新築校舎24坪1教室(第2校舎)が竣工した。
同記録によると、この後、大正3年3月28日、第3校舎が増築移転された。これは当時の安城町長岡田菊次郎氏の尽力により、元安城高等小学校の校舎を買い受け、移築したものである。
このような増築に次ぐ増築は、借金の返済だけでも経営を苦しいものにしていった。返済資金を得るため、あらゆる方法を講じたようである。町内の呉服屋から頼まれた仕立物、製糸工場の繭を入れる袋、消防の法被や股引などを、生徒と一緒に作っては、お金を得たこともあった。又。夜になると、町内の山丸製糸工場の女工さんに、裁縫と礼法を教えるため、当時寺部家の養女となっていた寺部トキ(旧姓鳥居、現在は原田姓)先生と、週に何回か出かけて行った。こうして得られたお金の多くが、学校経営費、しかも借金の返済に当てられていたようである。
寺部家の家庭生活も、学校と一身同体であり、衣食など極度にきりつめ、だい先生の苦心の学校、家庭経営が続けられた。

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