第6節 寺部だい先生 清毅先生追放にかかる

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文部省では昭和20年10月22日と、同月30日の2度にわたる連合国最高司令官が教育界の刷新を目的とする2つの覚書に基いて、その実施に必要な法令を公布した。それは教職員適格審査令であり、これにより全国約40万の教育関係者はすべて適否の審査を受け、不適格者はその地位を去らねばならぬことになった。
21年5月、文部省の指令により教職員審査委員会を各都道府県に設置した。
本校の教職員については愛知県教員適格審査委員会の手によって半年に亘り審査が行われたが、委員会は女子職業学校長及女子専門学校教授の寺部だい先生を不適格者と判定した。(22年3月)理由は戦時中の戦争遂行に協力した(婦人会、母姉会、女子青年団に衣生活改善の廃物利用とか食生活では玄米食実行について各地で講演したことが問題になった)ということであった。
引きつづき、当時専門学校長の寺部清毅先生(現理事長)が蒙古自治政府勤務中、県参事官を勤めていたという理由でG項該当により教職から追放されることになった。
このように1校で2人までも、しかも親子が同時に追放されたことは例がなく新聞に掲載されるようなことであった。この追放の模様について寺部清毅現理事長はつぎのように語っている。
「或る日、県の公職審査委員会から、調査することがあるから出頭されたい。との文書を受け県庁へでかけ一室へ通されました。審査委員は4名で教員組合の代表1名を含んで各界の代表者で構成されていました。そして、各委員から色々の質問を受けましたが要点は国家政策に協力したか否かでしたが、私は何等の躊躇もなく最前線で県の最高責任者として政治を行っていたのであるから当然、国家政策には協力したし、その意味では軍国主義者といわれてもいたし方がないと答え、同時に委員の態度が尊大なのに立腹して反対に委員に向って、「あなた達は戦時中監獄に入っていたのか」とききました所、「そんな所に入ってはいない」ということを答えてきましたので、戦時中日本人は全員戦争に協力したのであって反戦活動家はすべて投獄されていた。監獄に入らなかったあなた方が戦争が終った今日、反戦者づらして調べるとは何事か、しかも検事が被告を取り調べるような態度はもっての他である。役目上調べるのなら誠に相済ないという気持ちで調べたらどうか、と約30分間委員と論争し、やりこめて帰宅し母に話した所、「お前は馬鹿だ、何故、はいはいといっておとなしくしていなかったのか、何とか追放をのがれる方法もあったものに、私は追放をまぬがれない、せめてお前だけでものこってくれたらと思っていたのに。」といって泣かれました。私も何かすまないような気持ちになって、しょんぼりしたことを記憶しています。結局親子とも追放になりましたが、なんとか母の追放期間を短くしようと思い、関係者の嘆願書をもって卒業生と共に文部省、その他の関係先へ嘆願にいきました。」

この審査結果に対して学校当局としても直ちに再審査請求の書類を送付したが効を奏さなかった。この追放により講演は出来ず、教壇に立つことも勿論ゆるされない、学校にとっては実に大きな傷手であった。学校を思い、だい先生を心から慕う生徒達の手で嘆願書が作られ、教職員と上級生が県庁へ陳情に出向いたが直接的には何の効果もなかった。しかし、追放解除になるまでだい先生、清毅先生は、学校を戦後の混乱からいち早く再起させ、その発展のための基礎作りに全力をそそがれた。それは女専の保健科に教員無試験検定資格の取得並に講堂の建設、教育内容の充実など、この時代に先進的な事業を押し進められたことである。

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