第1節 寺部清毅先生理事長に就任

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昭和42年10月、危機的状況の中で、難局打開の責任を負って寺部清毅本部長が理事長に推挙された。先生は寺部家の次男として生まれ、創立者の一人寺部三蔵先生が死去された昭和21年10月から24年まで理事長に就任されていたので、2度目の理事長就任になる。当時の学園の状況は左記の通りである。

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(上記図版「学校法人の規模等調」「貸借対照表」参照)

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当時は組織体制も未確立で、経理処理も、大福帳式であったため、右表に現われている数字は、一応の表面上のものであった。負債を例にとっても、その全貌を把握するのに約2ヶ年を要した。学園は危いとの噂が流れており、安城、岡崎、刈谷等の地元業者は、現金取引以外には応じなかったし、負債先は、大小併せて二百数十店に達していた。資産約9億に対して、負債総額約8.5億であった。借金の返済もさることながら、毎月の給与支払いは待ったなしであるので、新たな資金の導入を計ることが緊急事であったが、東海銀行には信用ゼロで1銭の借入もできない状態であったし、岡崎信用金庫からも、これ以上は貸せないとの意向が表明されていた。理事長は、3ケ年の資金計画と資金繰り表を作成し、銀行に日参し、やっと、つなぎ資金を借り入れて虎口を脱した。当時は、学校の資産である校地、校舎は勿論、理事長宅まで抵当物件として担保に供されていた。1年は12ヶ月であるが、賞与月を入れ、年に、14回借入れ、14回返済するという完全な自転車操業であった。最大の未払業者は、清水建設であった。ここには、大学の建築資金で約3億6,000万円が、1銭の支払いもされずに残っていた。清水建設からは矢の催促で裁判沙汰寸前であったが、約2ヶ年間の交渉の結果、5ヶ年の分割返済で折り合いがついた。
ようやく借金の返済、未払業者への支払い、毎月の資金繰りについては、なんとか見通しを立てることができたが、それには、収入源となる生徒数を確保することが前提条件であった。入学者を増加させるには、学園は危いとの世評を一掃することが先決であった

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