第6節 校章と学園歌

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新らしい学制のもと、苦しみのうちに出発した女子高等学校、女子短期大学がようやくその日暮しの貧しさの中から明るさを見出して古い制服に何かちょっと飾りがほしくなる程度の心のゆとりが出はじめたのが昭和25・26年頃であった。その頃高校生の間にバッジをつけることが流行しはじめ、別に規制もしないまゝに単なる飾りのバッジをつけていたが、やはり何といっても学校の校章がほしい気持が強くなり、校内で公募して人気のよいのを二、三つくったがあまりパッとしない。職業学校・女子専門学校時代の校章は昔の鏡の形に安の字を円形にもじり、稲穂をまいて中央に「専」又は「職」の字を入れ左右対称のもので胸の中央につけていた。それを今更校章としてつけるわけにもゆかず困っているところへ、その年美術を教えに来ておられた福山進先生が考案して出されたのが今の校章の原画である。バッジにしてみると一段と冴え殆どの生徒がそれをつけ出した。それが自然にバッジとして生徒に着用されて2年程たった27年これを校章にしたわけである。従来校章は左右対象で地味なものが多く、この校章は当時としては非常に大胆な試みでもあった。しかしそれがみんなに愛され着用され、成長しそれが20年もの歴史をもつようになったのである。校章のデザインは安という字と女を組み合せ、学という字をはっきり見せて園の字が輪郭をつくっている。そして安城のAと学園女子のGが中に含まれている。白地に黒は清純清潔の中に意志とたくましさを感じさせ、金文字は智恵と誇りと希望を表わそうとしている。これはもともと全学園のものとして考えられたが、高校の校章となった段階で短期大学の校章も福山進先生にデザインしてもらい出来あがったのが54年、大学の校章と同じになるまで使用された短大の校章である。やはり安城の安と女子の女を組合せてあるが、1対2の矩形は進歩と向上を示すという意を含めている。創案者の福山進先生はつぎのように語っておられる。

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「戦後の古い時代を脱皮して近代的なフレッシュな感覚がのぞまれ、そんな気風が学生、生徒の中に発生しつつあった気運であったが、当時としてはモダンなものであっただけに20年たっても古い感じを与えないと思う。白と黒とは古いようで最も新しい感覚の調和といえよう。そんな考えでデザインをしただけに、今日見ても新鮮な感じであると思う。寺部だい先生の伝統的な教育観も考え方によっては極めて新しいものであったと見ている。」
更に女子短期大学、女子高等学校の学生生徒の数が増加の一途を辿り、少しずつ安定しはじめた昭和27年、学生会生徒会よりでて来たのが学園歌の作製である。40年もの伝統をもつ学校に校歌がないのもおかしなことであった。「どうせつくるなら日本一の学園歌をつくろう。」ということで、作詩作曲を当時日本最高の人に依頼することにした。そこでまず必要な予算の捻出にふみ出した。一日1円貯金、映画会、アルバイト等全校で費用をつくり、作詩者、作曲者の選定にかかった。そして作曲に山田耕筰先生、作詩大木惇夫先生という当時としては第一人者に依頼することに決定した。思いもよらずスムーズに快諾を得、できあがったのが現学園歌「彩雲なびく」である。
作詩者である大木惇夫先生は「詩人の“ことば”は詩人の思想でありたましいです。わたしは安城学園のあらゆる資料をわたしの“ことば”で表現したのです。」とだけしか語っておられないが、「あこがれは永遠の女 ああまごころをつらぬかん」のリフレインの中の「永遠の女」は、学園教育理念の象徴であり、「まごころをつらぬかん」は、建学の精神をそのまま歌いこんだものであり、また至誠一筋にその生涯を生きた創立者だい先生の信念の表現でもある。

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昭和41年、岡崎の地に安城学園大学が発足したが、この学園歌の「矢作の川のうるほして」の句は新設大学の建設位置にぴたりと符合し、新校歌制定の声もまったくなく、すんなりとこの学園歌が引き継がれている。
見方によっては、昭和27年当時、すでに今日の学園の発展が予測されていたともいえる。また新設大学がこの学園歌をそのまま受けついだのも、ただ単に歌詞の適合というだけのことではなく、山田耕筰先生の流麗な曲にのせて歌われるこの歌が、すでに名実ともに「学園歌」として、すべての学園人の中に定着しきっていたともいえるのである。
昭和28年11月3日文化の日、安城学園祭の一環として、作曲をされた山田耕筰先生御夫妻を招待して安城学園歌発表会が盛大に挙行された。夫人の辻輝子さんの独唱にはじまって“彩雲なびく安城に…”の学園歌が全学園生によって高らかにうたわれたのである。

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