明治32年といえば、ちょうど小学校令が改正をされて尋常小学校が4年、高等小学校が2年又は3年又は4年となる前年である。学制では、「女子ノ手芸」という文字がわずかに見える程度であった女子のための科目は、明治12年の教育令で「裁縫等ノ科ヲ設クヘシ」となった。明治13年と18年の教育令改正、明治19年の小学校令の制定、23年の小学校令の改正と、何回かの変化はあるがその都度女子の裁縫は重視され、改正小学校令では尋常小学校で裁縫を課すのが良い、高等小学校では必修とせよとなった。一方その先生の養成も、年を追って充実はされていくが、何といっても圧倒的な不足である。23年の小学令によって小学校の教員は、例えば裁縫のみを教える等の専科教員と、全科目を担当する本科教員とにわかれ、更に正教員と、正教員の補助者としての准教員に区分されていた。そして小学校の教員は小学校教員免許状を必要とすること、その免許状を得る方法として、検定に合格することを定めていた。そして各府県には小学校教員検定委員が設けられ、師範学校の卒業生等に対する認定と、学力試験による検定を行っていた。師範学校の入学資格は、明治19年の師範学校令以来少々の変化はあったが、いずれにしてもだい先生のように、いくら深くても偏った勉強をした者には可能性がなかった。そこで試験検定による専科教員ということになる。明治23年の小学校令では、裁縫の専科教員は無くて、家事や手芸となっていたが、26年に至って裁縫が加えられていた。明治33年の小学校令では、試験検定は毎年少くとも1回行うべきことが規定されている。しかもその受験資格も、「讀書、習字及算術ニ関シ普通ノ学力ヲ有スル者」で、実力本位であった。そこでこれを目ざしてさあ受験ということになるが、程度は師範学校と同等以上と規定されているから、生やさしいものではない。いやむしろ、受験をすること自体が、無謀なことといった方が適切であろう。村の高等小学校の専科の先生に指導を受けたり、「教育の普及と刷新を図るのを目的」として、各地に組織されていた教育会の主催する講習会へ出席したりなどして、2回にわたって受験するが、その倒底及ばないことを知る。そして指導を受けた専科の先生から、東京の渡辺裁縫女学校の存在を聞くのである。現在の学校法人渡辺学園東京家政大学の前身である。同校の80年史によれば、明治14年和洋裁縫伝習所開設、明治29年東京裁縫女学校に改組とある。従って正式には渡辺裁縫女学校というのは間違いであるが、その開設者渡辺辰五郎氏の偉大を以て、一般にはこう称せられていたのであろう。渡辺辰五郎、男子で裁縫の先生であるから、仕立屋師匠系から裁縫技術を学んだのは当然であるが、更に読書、習字、算術などを修めて、しかもその両者から、裁縫の一斉教授の方法を創始した人である。
……時は明治35年4月、私は渡辺女学校に入学致しました。……と『おもいでぐさ』に書いてあるから、数え年21才の春であった。そして東京での5年間にわたる勉学が始まるのである。この間の模様は『おもいでぐさ』に詳しい。上京することについての、母と子の心のふれあい、長い間の梅干と味噌だけの生活、栄養不足による病気の苦しみ、故郷からの送金の中止による学資と生活費の苦心、電車賃節約のための長い道のりの徒歩通学、それでも月謝は滞納となり登校停止命令、新聞売り、牛乳配達からまずは古今未曽有の女人力車夫、人は通常このような逆境におかれ、苦しい生活が続くと、世を拗ね人を恨み、暗く反抗的になりがちである。しかしだい先生は決してそうはならなかった。このような苦しい生活の中で、人から受けた善意温かい心に対して、心底から感謝の念を捧げ、人の真心の貴さを体得し、然もその中で不撓不屈の努力を重ねながら、女性の生き方の問題について、深く考え体験をされるのである。この心はそのまま本学園の創立につながり、更に建学の精神として、80周年を迎える今日に、脈脈と生きている。
さて、そもそも小学校の専科教員を目ざして上京した先生は、その勉強中につぎつぎと意欲がわいて、当初の目標は大幅に修正される。明治39年には文部大臣から東京裁縫女学校の教員許可を得ている。そのころの同校は明治29年東京府認可改称以来、一般家庭良妻賢母育成から、裁縫教員養成への過渡期である。明治35年には第1回教員養成会が開かれ、38年まで5回に及んでいる。39年には教員養成を目的とする師範科が増設され、ひきつづいて高等女学校卒業者を入学させる高等師範科を設置している。一般に明治期の学校特に私立学校は、法ができてそれに即して学校ができるというよりも、学校があってそれを法制が追っかけて行く、或は法則が今後の方向を示す、実情に合わなかったり実現不可能となって法令の改正、ということが非常に多い。従って法制にないことがらも多くあるし、法令はめまぐるしく改正されるから、実際には適用されないまま終ってしまう場合も少なくない。東京裁縫女学校も明治39年頃には、実質的には小学校教員の養成を行い女子師範学校のような内容を含んでいる。しかし勿論師範学校ではない。明治32年に私立学校令が制定されてその第5条に、「私立学校ノ教員ハ相当学校ノ教員免許状ヲ有スル者ヲ除ク外其ノ学力及國語ニ通達スルコトヲ證明シ小学校、盲唖学校及小学校ニ類スル各種学校ノ教員ニ在リテハ地方長官其ノ他ニ在リテハ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ(中略)前項の認可ハ当該学校在職間有効ノモノトス」とあり、だい先生はその文部大臣の認可を得てしまったのであるから、小学校の専科教員の免許状をはるかに超えてしまっている。しかもこの認可を得た後にだい先生は、袋物技芸卒業、婚礼式卒業、女礼式卒業などの勉強を続けている。
先生の履歴書によれば、文部大臣の認可を受ける半年前の38年11月に、学校からの教員辞令を受けて、実質的には先生になっている。この時からつぎの学校へ赴任するまでの約1ケ年間は、だい先生にとって自分を人格的に教養的に、深め高めるための貴重な期間であったように思われる。先生になるため、資格をとるための、ややもすれば功利的に考えられる余裕のない勉強から、幅広い教養を身につけ、人格を陶冶することをめざした勉強に進展したことが、確実な資料は無いが、『おもいでぐさ』の記述などから想像される。この期間は先生にとって、心にも体にも、比較的余裕のあった時である。桜井村で一人暮しのお母さんの許へ、時々帰られたようである。そしてそのとき、臨時的にお針子をとって教えられた形跡がある。学園の創立前史としての、塾の開設を明治39年とする所以である。