第1節 建学の精神の発揚(昭和42~45年度)

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だい先生逝去の後、杉原博理事長が学校長事務取扱として昭和41年度の卒業生を送り出した。昭和42年度も、そのままの体制で発足したが、10月1日、寺部清毅先生が理事長に就任されると同時に、学校長を兼任されることとなった。こうして、創立者の建学の心を改めて確認しなおし、その発揚に全力を傾注する教育づくりが開始された。

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寺部清毅校長就任2年目の昭和43年度は、「学園創立の原点に帰ろう」という学校長の呼びかけに応えて、建学の精神とその実践が全校をあげて多方面におし進められ、学園がまさに再生の息吹きに満ちた年であった。それは、この年度から校務組織が全面的に改められたことにも端的に表われている。
学校長の下に校長補佐が置かれ、従来の校務分掌を統廃合して学習指導部と生徒指導部に大別された。建学の精神のうち、主として潜在能力の開発を学習指導部が担当し、真心・努力・奉仕・感謝の四大精神の実践指導を生徒指導部が担当することとなった。
この校務組織によって、建学の精神発揚のための施策が次々と実施に移されていったのである。
上位校に家政学部家政学科と、その短期大学部幼児教育科が新設されたことから、附属高校の教育課程も、生徒の進路の多様化に対応して大学・短大との一貫性を一層強化し、生徒一人ひとりの潜在能力を発見しそれを可能性の限界まで伸長させるという方向で検討された。昭和41年9月に制定された教育課程は、昭和42年・43年・44年と相ついで4次にわたって改訂された。
それらの改訂の骨子を略述すると

普通科 2年でA(就職)コースとB(進学)コースに分ける。3年ではBコースをさらに細分してB1(家政学部・短大生活科・服飾科・他大学・短大理科系志望者)とB2(短大家政科・幼児教育科・他大学・短大文科系志望者)の2つにし、そのいずれかを選択させる。B1では数学・理科の単位数を、B2では国語・社会の単位数を多くした。
英語教育を重視し、特に活きた英語を身につけさせ、国際的視野に立ってものごとを見ることのできる女性の育成をめざした。そのための英語の単位数を増やし、L・L学習と外人講師による英会話の授業を特設した。
また、独立した科目として作文を特設し、基本的な文章表現の訓練と、文章を書くことを通して思考力を練り上げることをねらった。

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家庭科 技術革新時代の家庭生活に対応することができる知識および専門技術を身につけさせ、愛情豊かな人間性を養なうことを目的に、被服Ⅰ、被服Ⅱ、デザイン、礼法などの科目を配置した。
なかでも礼法は、市民道徳の基本を身につけさせ、建学の精神を実践させることを目的とした特設科目で、普通科では1単位、家庭科では3単位を必修とした。

商業科 高度経済成長下で急速に進められた事務の機械化に即応した、秘書的な事務能力を持った職業婦人を育成するために、事務実践、英文タイプ、カナタイプを増設した、などである。

作文 特設科目としての作文は、昭和44年度の入学生から実施された。普通科の1・2年と3年Aコースにそれぞれ1単位ずつが配分された。1年の1学期に作文の基本を学習した後、2・3学期をかけて「生い立ちの記」を書かせる実践がなされた。これは、生徒が誕生してから高校生になるまでの自己の歴史を、各時期に分けて書き綴らせるもので400字詰原稿用紙で70枚以上を目標とした。
2年では、クラスをいくつかのテーマ別のグループに分け、グループによる調査、研究をまとめて発表させる実践がなされた。公害をテーマにしたグループが休日を利用して四日市市を訪れてスライドを作成したり、高浜市へ出掛けて写真撮影をし地元民の声をテープに収めたりした。さらに、それぞれのグループがテーマを追求するために図書館で調査したり、新聞、雑誌を切り抜いてスクラップブックを作ったり、市民に対するインタビューを採録するなど、教室という箱の中から飛び出してテーマを深めた。
3年では、就職に向けて正しい漢字やかなづかい、的確な文章表現を究めさせ、同時に自己省察を深めさせるようにした。
これらの作文の添削や事後処理が、国語科教員の大きな負担となったので、作文1単位当りの時間を1.5時間として計算し、その負担の軽減をはかった。

L・L学習 国際化時代に対応することのできる活きた英語教育をめざして、昭和43年5月、本館4階の1教室を改造してL・L教室が設置された。その教室開きには、安城市内各中学校の英語の先生方を招待して、L・L学習の授業を公開した。このL・L教室はフルブース相互通話方式を完備しており、従来の文字や文法による学習に加えて、英語の音声を主な教材とする語学教育を可能にした。

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英会話 L・L学習と連動して英会話の授業も始まった。これは従来の英語教育の読解のみに終始するという欠陥を補い、ヒアリングとスピーキングの基本的能力を身につけさせ、同時に英会話を学びながら国際的な感覚を養なうという目的を持って特設された科目である。
1年では、発音・イントネーションの練習を主とした暗誦とデイクティションを中心とする。2・3年では、最終目標をフリーカンバセーションに置き、唄やゲームを交じえて授業を展開し、学年末には生徒一人ひとりに英語論文を作成させてスピーチを行なわせるという実践がなされた。
この英会話の特設に先立って、全校生徒に毎週、英会語の日常的なフレーズを提示して暗誦させ、英会話の練習と英語への関心を高めさせるための試みが続けられていた。提示したフレーズは毎日校内放送で流され、各学年の週1回の朝礼で、英語科教員が指導して唱和させた。また、各学期ごとに1回、それまでに提示されたフレーズについて全校一斉のヒアリングテストを実施して、その結果をクラスごとに順位をつけて発表することも行なった。これは、昭和46年度の終りまで続けられ、生徒の知性を刺激し、その情操に喰入ることによって、全校に一種のムードを醸成するうえで大きな効果をあげた。

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礼法 昭和44年度入学生から市民道徳としての礼法が特設科目として実施された。この実施に備えて、昭和43年度に礼法研究会が組織され、礼法の教科書づくりがまさに不眠不休で続けられた。それぞれの分担によって執筆された原稿を一字一句検討しながら作業が進められ、昭和44年3月31日に礼法教科書の初版が刊行された。その後礼法校訂委員会の手によって部分的な改訂が加えられ、現在第3版が出されている。

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その序文に礼法特設の目的を
礼儀作法というと堅苦しく聞えるが、普通は“Manners”といっている。それは「よりよく生きたい」という、人間の切なる願いをかなえるために、人間自ら産み出した生活の知恵なのである。礼儀作法というものが、生活の中から生まれ出る以上、その国の文化、伝統、気候、風土等によって、それぞれに適した固有の礼儀作法が生まれるのは当然のことと言える。
したがって本校の場合には、創設者の意思に基づく建学の精神である「真心・努力・奉仕・感謝」の四大精神の実践による「永遠の女」への道程としての礼儀作法である。
高校生活を通じてこのような心構えをもってその具体化に努力し、心身に摂取することによって、将来立派な社会人にふさわしい市民道徳の素地を培っていくものと思う。
と述べている。
その内容を項目のみ示すと、「身だしなみ・ことばづかい・訪問のしかた・応接のしかた・紹介のしかた・電報電話・手紙の書きかた・書式・交際のしかた・家庭生活・学校生活・職場・公衆道徳・起居動作・敬礼・慶弔儀礼・贈答・招待・パーティーのしかた・食卓マナー・礼服」となっている。
本校では昭和41年度と42年度の2年間、全く独創的な4学期制が実施されていた。年間を4つの学期に分け各学期に1回ずつの総合試験を行ない、毎月末に単位認定試験を実施するという方法である。この制度を採用した理由は、従来の3学期制では、各学期の切れ目にそれぞれ長期の休みがあり、特に7・8月の2か月間、生徒は全く勉強しないという状態に置かれるので、それに対する対策を講じたいというものである。他校でしばしば行なわれている2学期制は、1学期ごとの期間が長過ぎて本校の実情に適わないということで独自の4学期制に踏み切ったのである。

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4学期制の実施に伴なって、試験制度も抜本的に改められた。一つは、毎月末に行なわれる単位認定試験としての月試験である。月試験実施の背景には、高校進学率の上昇に伴ない、生徒の学力格差も大きくなり、能力的に必ずしも優れず、学習意欲も乏しい生徒が増えてきたという実態があった。まず各科目ごとに、単位認定のために必要最低限度の到達目標を設定して明示し、それだけは必ず理解させることを目標に指導を行なう。毎月末にはテストを実施するので、試験範囲は狭く、ノルマも少なく学習意欲の喚起につながり、それだけよい得点をあげることが期待できる。比較的優れた生徒にとっても、基礎事項の確認は不可欠であるし、教師にとっても、その都度教授内容や指導方法などについて点検できるといったメリットがある。このテストで所定の回数以上合格点を取った生徒は、その科目の単位が自動的に認定される。

3単位以上の科目は原則として毎月試験を実施する。2単位以下の科目は2か月に1回とし、総合試験の行なわれる月は月試験はなしとした。1科目の試験時間は25分とし、一日に4科目ずつ行なう。最も基礎的な事項を出題し、クラス平均7点を標準とし4点以上は合格とした。体育・芸術・家庭などの実技を主とする教科では実技試験をこれに当てることができる。
6月中旬、9月下旬、11月下旬、3月上旬(3年は1月下旬)の年4回総合試験を実施する。この試験の目的は、それぞれの科目の学力を総合的に評価することにある。試験内容は、それぞれの試験の前までに学習したことを中心とし、あらかじめ出題方針を公表して生徒に準備させる。問題の程度は、基礎的な問題から大学入試程度の応用・発展問題まで、難易に段階をつける。
4学期と月試験・総合試験の制度は、結局昭和41・42年度の2年間実施されただけで終った。月試験廃止の理由は、毎月末が必ずしも一つの単元の終了時と一致せず、授業の流れがそのために中断されることが多いこと、合格点を取れない者が毎月固定してしまい、しかもその生徒が1科目だけの不合格にとどまらないことが多く、事後の指導が困難であったこと、教員の問題作成、採点などの労力が過重であったこと、全科目実施をたてまえとしたので、これになじまない科目が少なくなかったことなどがあげられる。
4学期制廃止の理由としては、他の殆どの高校が3学期制をとっており、運動クラブなどの試合日程もそれに合わせて組まれているため、運動関係クラブの活動に大きな支障を生じたこと、各学期の終りと始めのけじめがなく、授業は継続して行なわれるので、各学期の終りと始めに何の新鮮さも感じられなくなってしまったことなどがあげられる。
ただ、月試験、総合試験の考え方は、その後、教育界で問題となっている形成的評価と総括的評価の問題に先鞭をつけたものであり、それなりに評価されるべきものであったということができる。
家庭科は、日常の家庭生活と密接に関係した知識・技術の習得を中心としているが、平常の授業のみでは、急速に変化する社会に十分対応することはできない。そこで、それを補うために、昭和43年7月から、毎年夏休み中に、家庭科3年の生徒を対象にして、家庭科夏期講座を行なうことになった。その第1回の開講式で寺部学校長は「…本校には3科があるが、とりわけ家庭科は本校発祥の科であり、本学の源流といってよい。したがってこの科に籍をおき学ぶ者は、創立者が信奉し実践した建学の精神を継承し、家庭科生徒としての誇りと自信を持って使命を完うすべきである。

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科学・技術の発達は生活に多大の影響を与え、家庭科生徒として体得し学びとらなければならぬことは非常に多い。しかも、限られた時間内では到底果たし得ないものがある。その意味において、夏期講座は平常授業ではできない諸技能を学習する場として設定されている。…本講座ではこの創立者の建学の理念を更に一段と汲みとり、本校教育の理想像である『永遠の女』に近づくよう努力して下さい」と述べられた。
この講座の講師は、主として上位校の先生方であるが、外部から優れた講師を招聘することも多い。昭和43年度には食品加工講座を広昌食糧研究所の堀川博氏、44年度には精神講話を妙心寺の梶浦逸外老師にそれぞれお願いした。この家庭科夏期講座は、その内容を毎年充実させながら、昭和60年度の家庭科廃止まで続けられた。

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附属高校と城西高校の教職員による合同研究誌「学園紀要」第1号が、昭和42年1月に刊行された。杉原博理事長の序文には、
「…私学には建学の精神があり、創立者の考える理想的人間像を独自の方法で育てるところに私学の存在意義があるが、建学の精神といえども人間の鋳型ではなく、また抽象的な空文に化してはならない。時代に濾過され常に新らしい実践があってこそ理念は生きつづけるものである。本紀要がわれわれ学園人にとって、学園教育の問題追求の基盤となり、実践の指針となり、更に建学の理念に常に新らしい息吹きを与える規範として充実し発展していくことを希って創刊の序とする」とある。

偉大な学園創立者寺部だい先生を失なった失意の底から、新生第一歩を踏み出し、創立者の建学の心を改めて確認しその高揚に全力を尽そうとする心構えがうかがわれる。

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「学園紀要」第2号は、引きつづいて同年12月に刊行された。その序文には、

「…本学の建学の精神は人間の潜在能力を、その能力の可能性の限界まで引き出すことである。時々、我々は低レベルの生徒の無力さに教育の限界を錯覚したり、又自分の非力さに自己喪失に陥ったりすることがある。そうした時、我々を支え励ますものは、創立者が歩んだ『まこと』一筋の50数年の苦闘の本学の歴史であり伝統であり、我々の手によって潜在能力を顕現して学業に、クラブ活動に活躍している多くの生徒の喜びに満ち溢れた姿である」
とある。

創立者の建学の精神は一層明確に定着し、その中で学園の全教職員が営々努力している様子を示している。学園紀要は昭和57年「創立70周年記念号」第11号まで発刊された。
昭和43年度以後、それぞれの年度の校務組織、学習指導・生徒指導の方針、各分掌や教科の目標、生徒会・クラブ活動の状況などを1冊にまとめたパンフレットが「本校の教育」と題して刊行されるようになった。このパンフレットには各年度ごとの本校の教育活動が全般的に網羅されており、対外的に本校の教育内容を紹介するために活用されている。

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寺部だい先生が逝去された直後の昭和41年7月に校報「彩雲」が創刊された。本校の学園歌の歌詞の冒頭を取って命名したものである。故園長の追悼と共に、学園のあり方への不安を一掃するために、内外に対して本校の状況を知らせようとするためのものであった。「彩雲」はその後、第4号まではおよそ半期に一度の割で刊行された。昭和43年10月刊の第5号からは題字を改め、紙面も一新して、特に建学の精神の継承とその発揚のためのコンセンサスを得ることを目的に刊行され、昭和53年度、富田太校長就任以後は版型を変えて1年に一度ずつの割で発行され続けている。

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「彩雲」の刊行と前後して、「図書館ニュース」も創刊された。昭和42年7月に第1号を発行して、51年2月に第16号に至るまでは、半期に一度ずつの割で年2回発行した。昭和52年以後は年1回発行に切り換えられた。先生方による読書のすすめや図書の紹介、読書感想文コンクールの入賞者と入賞作品の発表、新着図書紹介、図書貸出統計などを掲載している。
昭和43年度は「実践10箇条」を根本的に洗い直し、建学の精神に立脚して真心・努力・奉仕・感謝の精神を実践させるための生徒心得の制定を進めた年でもあった。

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新生徒心得は昭和44年4月から実施された。同年5月30日付の安城学園女子短期大学附属高校新聞に、当時の生徒指導部長であった森加代教諭が次のようの書いている。
「『建学の精神を実践する指針としての生徒心得を』との考えが熟し、それを具体化することによって、実践10箇条を発展的に解消するために、生徒会をはじめとして、全職員が昨年1年がかりで取り組んで来たその努力の結晶が、本年度より改正された生徒心得である。…学園の生徒心得はあくまでも、生徒自身が建学の精神を実践することによって、自己を磨き一人ひとりが次の寺部だい先生になり、また、その次の寺部だい先生を生み育てる女性になってもらうための手がかりでなければならない。
そうした生徒心得を作るためには、寺部だい先生が生前どんなことを一番強く生徒に願われ、また、考えていらっしゃったか、何を拠り所に80有余年を生き抜いて来られたかを究明し、そうしたお心が脈々と流れている生徒心得を作らなければならないと、先生方は考え『おもいでぐさ』を読み直したり、生前のお言葉やお心を思い出し、いろいろ話し合って、1年がかりで作り上げたのがこの生徒心得である。……」。

新生徒心得の前文には「安城学園女子短期大学附属高等学校生徒は、建学の精神を理念とし、本学園生徒であることに自覚と誇りをもち、学習活動においては、潜在能力を最大限にのばすことにつとめ、日常生活においては『真心・努力・奉仕・感謝』の精神を実践することにより、豊かな人間性をみがき、個性を伸長し、『永遠の女』を具現するための指針として、この生徒心得を定める」とある。
その生徒心得の各項は「Ⅰ 教養―真心」、「Ⅱ 学習―潜在能力の開発、努力」、「Ⅲ 校内生活―奉仕・感謝」、「Ⅳ 校外生活―真心・努力・奉仕・感謝」、「Ⅴ 出欠―努力」というように、それぞれの項目に対応する建学の精神を掲げている。
昭和40年5月を第1回として、新入生のオリエンテーションの総決算として定着していたフレッシュマンキャンプにも、建学の精神に基づく新らしい意義づけと実践が加えられることになった。このキャンプは長野県の八ツ岳経営中央伝習農場の宿泊施設を借用して行なわれ、厳しい集団訓練の中での生活実践を通して、自己の可能性を追求することを目的としていた。雄大な自然の中で、規律、勤労、情操、融和、思索などの細密な日課に従って、朝5時30分の起床から、夜9時30分の消燈就寝に至るまで、自己陶冶の時間を過すというものであった。

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昭和43年度の入学生からは、従来の基本目的は継承しながらも、「共同生活を通して『真心・努力・奉仕・感謝』の建学の精神を身をもって体得し、実践できる学園生徒を育てる」と目標を明確にし、建学の精神の体得・実践の場としての位置づけをした。
実践目標も「真心―だまって行動しよう」、「努力―時間に遅れない」、「奉仕―使ったあとをふり返ろう」、「感謝―ぐちをこぼさない」というように、具体的な一つ一つの実践目標を四大精神と結びついたものとした。
1年のフレッシュマンキャンプ、2年の北九州への修学旅行が定着したことから、3年でも卒業学年にふさわしい校外教育活動をということで開始されたのがグラデュエーションキャンプである。第1回は昭和43年8月に長野県木曽駒高原キャンプ場で行なわれた。このキャンプでは、3年1学期までの学校内での諸教育を生かし、生徒自らの力を集団行動の中で自主的に発揮させることをねらいとした。グラデュエーションキャンプのしおりは、その目的を「1・2年生の経験を集大成し、建学の精神を実践するなかで、生徒の自主活動を主体とした共同生活を体験させることにより、自主性と社会性を養い将来の生活の指針とする」と記している。

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グラデュエーションキャンプ
普3A 勝田恵子
(安城学園女子短期大学附属高校新聞、昭和43年12月10日付より)

今年から新しく組み込まれたグラデュエーションキャンプは、フレッシュマンキャンプのように先生が前に立って指導されてから行動するという受身の行為ではなく、生徒自身の手で行事が企画され、献立が立てられるという全く自主的なものである。
3年生になると進学者と就職者とが気持の上でも別れてしまうが、どちらも高校生活最後の年。だから生徒一人一人がそれぞれの意義をこのキャンプに求めていた。
グループで副食の買出しに行き、炎天下を重い荷物を提げて学校まで運んだこともキャンプの一つの思い出としていつまでも残しておきたいものである。
出発の朝―胸をはずませながら重いリュックサックを背負って校門に入ってくる生徒。色とりどりの帽子やスラックス。どの生徒の顔を見ても楽しそうである。バスに揺られながら友と語らい、歌をうたっているうちに、目的地木曽駒高原のキャンプ場に着いてしまった。
一番最初に感じたのは風が大変気持よく涼しかったことである。だからリュックを背負って山を登ってもさほど暑いとは感じなかった。夜や朝はセーターを着なければ風邪をひいてしまうほどだった。
キャンプの中で一番楽しいもの…いくつかあると思うが一つには食事の用意である。たき木がなかったり、湿っていたりして火をつけるのに一苦労であったが、飯ごうで炊いたご飯は格別においしく、なかには焦げたご飯もあったがみんなおいしそうに食べていた。
もう一つキャンプの花形キャンプファイアー。これも生徒が中心になって進行させ、木曽踊りを踊ったり、歌を歌ったりしてとても楽しいものであった。
何といってもつらかった事は第2日目のハイキングである。コースは2通りに別れていたが、どちらもハイキングコースにしてはきつくてかなり疲れてしまった。しかし、目的地に着いた時はさわやかな風によって疲れもどこかへ飛んでしまい「やっぱり来てよかった」と感じずにはいられなかった。こうして、つらいと思ってもがまんにがまんを重ねて得られた満足感が味わえたことは何よりも尊いものだと思う。こうした経験がいくつも重なって何に対しても耐えられる人間になるのではないだろうか。
来年、再来年とグラデュエーションキャンプに行かれるみなさんにも何か自分なりに得ていただきたいと思う。そしてこの第1回を礎に年ごとに意義深いものに成長させていただきたい。

昭和44年5月には、本校独自の学校安全会が発足した。本校は女子生徒ばかりで、大した学校事故もなく、従来の安全会へは掛金を払うばかりで、給付を受けることは稀であった。そこで、本校独自の安全会を作れば掛金負担を軽減させることができる上に、同程度の保障ができるということになったのである。その安全会会則の第1条は「安城学園女子短期大学附属高等学校安全会は、学校安全の普及充実を図るとともに、学校管理下における生徒の負傷、疾病、廃疾または死亡に関して必要な給付を行ない、もって学校教育の円滑な実施に資することを目的とする」と謳っている。

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昭和44年度までは、体育祭を10月上旬に、文化祭を約1週間遅れの10月中旬に実施していた。それを学園祭として一本化し10月中旬に行なうようになったのは昭和45年度以降である。昭和45年度の学園祭に際して、生徒が自分達自身の手でより明るく豊かな学園生活を創造するための学園祭にしようという基本方針が確認された。生徒全員が参加する学園祭にしようとする姿勢を打ち出すために統一テーマを決めることになった。学園祭実行委員会の主導のもとに、クラス討議、代議員会討議がくり返され、
“小さな和から大きな和へ”
という統一テーマが決定された。それと同時に、統一テーマの歌とポスター図案の応募を全校生徒に呼びかけた。統一テーマの歌は、音楽科の先生の手で作曲されこの年の学園祭で声高らかに歌われ、学園祭を従来にない活気で溢れさせた。同窓会も学園祭に協賛して、作品の展示やバザーを行なって人気を博した。

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ソフトボールクラブは昭和33年富山国体に初優勝して以来、37年、38年と2年連続して準優勝を飾り、安城学園の名声を全国にとどろかせた。その後昭和44年まで連続して国体に出場した。また、昭和39年度以後、44年まで中日本ソフトボール大会において6年連続優勝の栄冠を得た。
これらの実績の上に立って、昭和45年3月には全国私学ソフトボール選抜大会を安城に主催した。

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バスケットボールクラブは昭和40年に岐阜国体で初優勝、翌41年には全日本高校総体で初優勝、その年の国体においても連続優勝を達成して、その黄金期を築き、全国に盛名を馳せた。その後も全日本高校総体に連続して出場し、昭和43年の広島大会では準決勝まで進出した。

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その他のクラブでは、昭和45年県大会において陸上競技800米で杉崎真佐子が優勝し、運動各クラブの活動も年を追って活発になった。文化クラブでは、昭和43年、44年と2年連続して県私学弁論大会で、本校代表が第2位に入賞し、演劇クラブは顧問の夏目懋教諭が中部の高校演劇連盟の役員として活躍し高校演劇運動の推進力となった。
昭和42年7月より、木造西校舎を取り壊わした跡に建設工事が進められていた本館西側増築校舎が、43年1月に竣工した。この校舎は外観だけでなく、内部の設計にも女子高校らしい配慮が行き届いており、学園の一角にその瀟洒な姿を見せている。体育館に並行して本館の西側に接続した鉄筋コンクリート2階建である。この本館西側増築校舎建設のために取り壊わされた西校舎の一部は、昭和3年に建築され、30年末、都市計画のために現在の調理室の所から移転されたものである。

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本館西側増築校舎は、ほゞこれと同時期にテニスコート跡地に建築された短大校舎が、附属高校に移管されるまでは南館と呼ばれていた。廊下を中央にはさんで南側の1・2階にそれぞれ4教室ずつの計8普通教室、北側1階に化学実験室と理科準備室、2階に物理と生物の実験室がある。長年理科実験室の不備をかこっていた悩みは、これによって一気に解消されることになった。
昭和45年4月の入学生は普通科331名、家庭科144名、商業科149名の計624名で、初めて1学年の生徒数が600名を超えた。この年の始業式には2年543名、3年502名を合わせて、全校生徒数1,671名が体育館を満した。

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故園長なき後、戦後第一次のベビーブームが去り、中卒者の漸減期に、このように順調に生徒を集めることができた背景には、長い歴史と伝統に加えて、建学の精神による教育が促進されるとともに校舎増築、L・L教室設置などを含めた諸種の教育施策や施設設備の充実並びに一丸となった教職員の努力があったことを銘記しなければならない。
昭和42年度には従来の寮生の父母懇談会を拡充して、東西加茂、南北設楽、額田、渥美、新城など、入寮生徒の多い地域で、それぞれ地元の中学校を会場にして、遠隔地保護者会を行なうようになった。大学・短大、城西高校、同窓会と合同して実施した時期もあり、大学の先生方による講演で地域の人々に呼びかけたこともあった。

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教師と家庭との連結を密にし、夏期休暇中の生徒の生活指導を徹底させ、きめ細い行き届いた教育をするために、担任教師が夏休み中にクラスの全生徒の家庭訪問を実施するようにしたのも昭和42年度からである。前年度家庭訪問を行なった生徒を持ち上がりで担任した場合には、特別問題のない限り行なわなくてもよいことになっている。担任教師が全生徒の家庭を知っていることによる、生徒指導上の効果は極めて大きい。家庭訪問は生徒が通学している地域については現在も続けて行なわれている。
受入れた生徒の就学状況を各出身中学校の先生方に連絡し、合わせてそれぞれの生徒の中学時代の様子を知らせてもらうための教育連絡会が、第1回定期試験とフレッシュマンキャンプの終了時に設定されるようになったのは昭和43年であった。主として生徒募集のねらいをもって各地区ごとに中学校の先生方との懇談会を用いたのは昭和42年度のことで、入試委員の地区担当者が中学校を訪問したり、先生方と密接なコンタクトを持つようにしたのもこの時期のことである。
また、各学期ごとに、出身中学校別に生徒の学業成績の概況、クラブ活動、進路希望などを記録した学事定期連絡を作成して、中学校訪問の折に持参したり、生徒便に託したり、郵送したりするようにしたのも同様である。
距離的には近接しているのに、交通機関の関係でタイムディスタンスの大きい地域からの生徒の通学の便をはかるために、昭和43年1月から、碧南・高浜・半田方面のスクールバス運行が開始された。同年4月からは、枡塚・上郷・若林方面の路線も運行されるようになり、両路線とも現在に至っている。

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このような家庭訪問、遠隔地保護者会などを通じての保護者との連絡の緊密化、中高教育連絡会、地区別教育懇談会、入試委員による中学校への働きかけ、学事定期連絡などによる中学校との結びつきの強化と本校の教育実践のアッピール、スクールバス運行などが、本校教育に対する地域中学校や保護者からの信頼を高めることになった。
昭和45年度には、本校教育の当面するさまざまな問題に対処し、新しい教育づくりを研究するために各種専門委員会が設置された。
学習指導部関係では、

諸検査専門委員会…生徒の多様な能力を開発するために資する諸検査について調査研究し、必要に応じて実施する。
授業研究専門委員会…委員長と各教科からの代表1名ずつで構成され、教授指導の方法・技術、教育機器活用、教材精選など各教科の実践を持ち寄って研究を進める。
教育課程専門委員会…私学の特性を発揮し、建学の精神を発揚し、社会のニーズに応える私学本来の教育課程のあるべき方向を研究する。

以上の3専門委員会が活動をはじめた。
生徒指導部関係では

性教育専門委員会…マスコミの性情報攻勢に対応して本校独自の性教育のあり方を検討し、教師、保護者、生徒向けの推薦図書を選定する。
LT専門委員会…建学の精神の浸透と実践をはかるためのLT指導のあり方を研究し、3年間のLT指導の計画案を作成する。
カウンセリング専門委員会…カウンセリングの実施について、各種研修会等に実際に参加して研究を進める。

以上同じく3専門委員会が研究を開始した。
これらの各専門委員会の研究成果が積み重ねられて、本校における新しい教育づくりへの胎動が始まったのである。

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