第6節 大学創設なる、名実共に総合学園へ

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故寺部だい先生は、久しい以前から4年制大学を設立したいという執念にも似た強い意思をもっておられ、その事を教職員だけではなく学生にも熱っぽく話される事が多かった。当時、多くの旧制女子専門学校は、すでに学制改革で4年制大学になっていたが、諸般の事情で、本学はやむなく短期大学へ移行した。そのため、早い機会に4年制大学設立の実現を望んでおられた。
戦前からの女子専門学校として、女子高等教育に古い歴史と輝かしい伝統を誇る本学園が、いつ4年制大学を新設するのかをしばしばたずねられていただけに、学園関係者すべてが総合学園の象徴としての大学が設立される事を強く願っていた。
昭和40年4月におこなわれた教授会において、だい先生は、大学・家政学部の設立について諮問された。会議における先生の発言内容は次のようなものであった。「多くの女性が情を大切にするだけでなく、もっと勉強して知性を磨かなければ、これからの社会においての女性の地位向上は望むべくもない。新設の大学で、そのような女性を一人でも多く世に送り出すことが出来れば……」と大学にかける期待を、さらに、「従来、おこなってきた実学的色彩の強い短大教育だけでなく、新しい学問としての家政学の追求には、どうしてもアカデミックな場としての大学が不可欠である。」と総合学園教育の柱としての大学を新設する必然性を話された。教授会は、大学進学率が上昇機運にある状況を考えると、新設の機会としては妥当であると答申するとともに、新しい内容を新設大学の家政学部に盛り込むためのいくつかの提言をおこなった。財政問題を含めて、学園理事会での賛意をえられただい先生は、5月の終りに、大学設立に向けてスタートする決断をされた。同時に、様々な困難が予想される大事業の達成のために、学園の内外に対して協力を強く要請された。
6月初めには、大学設置事務局が短大の中に設けられ、当時の事務局長猿橋繁先生と附属高校から移った加藤(澄)先生(現大学事務局長)の2人が中心となって設備申請に関する準備が始められた。一方、短大の教授会では度重なる会合がもたれ、カリキュラム、教授構成、図書、学舎設計の基本プランなどが検討された。当時、短期大学の学舎は、現在の附属高校敷地に、間借り同然の状態で存在していたので、大学学舎の建設される岡崎市舳越町(現大学・短期大学本部所在地)へ、近い将来移転することを見越して様々なプランが練られた。
6月初めまでは、大学新設だけを目標に準備が進められていた。だい先生は、その時点で、短大に幼児教育科を設立するのは時期尚早であると考えておられたが、教授会でおこなわれた大学の教職課程についての論議を重ねるなかで、短期大学部幼児教育科をも思い切って設立しては、という強い進言が教員側からおこなわれた。当時、各地の市町村で幼稚園、保育園が増設される機運が高まっており、幼稚園教諭、保育園保母の不足が目立ちはじめていたこと、また、小学校学齢の低年延長化も幼児教育の分野で大きな話題となっていたことが、進言の主な理由であった。だい先生は、はじめ4年制大学設立だけでも手一杯のところへ、更に短期大学部まで手をひろげて、果して、当初の目的が達せられるか否かの懸念を持っておられた。けれども、大学の教職課程に関係する先生方に幼児教育科の科目を担当してもらうようにすれば、かなり立派な教育システムができ上ると確信を持たれた。そこで、直ちに理事会にこの問題をはかり、決意されて、大学家政学部と短期大学部幼児教育科の同時設立を目指す決定をされたのだった。

しかし、9月30日までの、僅か4ヶ月間で大学と短期大学の設立準備を終えねばならなかった。
また、大学の新設には様々の困難が横たわっていた。財政的問題もさることながら、設置基準に合致する先生、図書を確保することが大変であった。寺部二三子先生をはじめ教職員は、東奔西走して適格だと思われる先生を訪ね、就任のお願いをした。ここで、当時学園の評議員をしておられた芦田淳先生(名古屋大学農学部教授、のちに名古屋大学学長)のご助力を見逃すことはできない。一方、教職員の手で、大学設置に必要な洋和書の選定、受入れがおこなわれた。体育館の一室を書庫代りにして、毎日、夜おそくまで図書受入れのための作業が続けられた。1万冊に近い図書の受入れ作業にたずさわった当時の短大研究補助員のすべては、指の腱鞘炎にかかる程であった。
これと平行して、大学学舎建設について、清水建設と度重なる打合わせをしていたが、成案がまとまった8月19日に、岡崎市舳越町の地で地鎮祭が、理事、教職員、学生代表など多数の参列のもと、盛大におこなわれた。これより先の7月8日の短大教授会において、新しい大学の学名を愛知女子大学とすることが決められた。この学名は愛知県に存在するということもさることながら、だい先生の「知を愛する女性……」の言葉にも適合していたことからも決められたもので、教授会では満場一致の賛成をえた。
このように、関係者の必死の努力で、設置申請に必要なすべての準備が完了した9月29日、愛知女子大学、同短期大学部幼児教育科設置認可申請書が文部大臣に提出されたのであった。

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その後、11月15日と25日の2度にわたる文部省の実地審査も無事に終了し、12月18日に大学設置審議会から発表される審査結果を待つばかりになった。文部省から通知があるというその日、関係者は故園長先生の自宅に集って落ち着かない気持で通知を待った。しかし、その結果得たものは、皆の願いに反して、保留の知らせであった。設置基準に見合った教員人数がすでに確保されていても、一般家政学科目を担当する専任教授が家政学部にいなければならない、というのが保留の理由であった。ここで関係者一同、大学の設置がいかにきびしいものであるかを思い知らされた気持であった。これに反して、皮肉にも、出足のおくれた短期大学部幼児教育科は、第1回の審査で見事パスし、設置が認められた。愛知女子大学は、教授1名の補充が認められて、3月14日にようやく設置認可された。また、大学の設立と併行してすすめられていた幼児教育科の附属幼稚園も、同時に安城市安城町字栗の木の地に開園された。こうして、だい先生の念願とされていた家政学部をもった大学が誕生し、ここに、安城学園は大学を頂点としたピラミッド型の教育体系をもった女子総合学園として、ここに確かな一歩をふみ出すことになった。新発足した4年制大学は、多くの新任の先生方を迎え、岡崎の地で、真新らしい校舎のもとで、多大な期待と抱負のうちにスタートをみたのであった。

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創案者
当時の本学美術担当講師 福山すすむ氏
日本文字の“女”を花弁風にデザインし、知性と情操が融合された慈愛を表象してある。
現在は女子短期大学もこの校章を使用している

この年の愛知女子大学の第1回入学者は20名で、非常に小じんまりした、それ故にきめの細い理想的な大学教育の出来る数であった。短期大学部幼児教育科の第1回生は、29名で、大変な意気込みと抱負をもって教育が開始された。そして、従来、高校と同一キャンパスにあった安城学園女子短期大学の一部を岡崎の地に移し、安城、岡崎間にスクールバスを配置して、安城学園の一貫した教育理念のもとに、大学はスタートしたものの、大学の初代学長であった寺部だい先生がご病床にあり大学機能が本格化するには、時間がかかった。
しかし、地域社会に根ざした個性豊かな大学作りをするため、法人、大学・短大教職員は一致してこの新生の大学に並々ならぬ情熱を注いだ。
発足当初の教授会では、毎回、論議が交された。新任の先生も含め、大学そのものの本質論にさかのぼった活発な討論が、長い時間を割かれて論じあわれた。家政学の学問的性格から、本学の将来像にいたるまで、根本的な検討が加えられ、大学作りのための新しい展望が、各教授から提案された。
昭和45年3月に、4年制大学発足以来の第1回卒業生が初めて、社会に巣立つことになった。その反響を、法人や大学・短大教職員は、半ば不安と半ば期待をもって見守っていたが、卒業生達の社会的反響と評価は非常に高いものがあった。

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