第3節 専門学校への胎動

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小堤町への新校舎建設に際して、寺部だい先生の心の中には「専門学校」設立の構想が沸々と煮えたぎっていた。大正15年度に裁縫師範科を卒業した松井伊都子さんたちは、昭和2年3月の卒業に際して、こんど専門学校を設立することになったから入学しないかと勧誘された。同年度の裁縫師範科卒業生のなかで、白崎みさをさんが専門学校として認可される前の「専門部」に残ることになった。
新しく校地校舎も整い、小学校裁縫科専科正教員養成のコースは完全に定着し、大きな成果を上げつつあり、社会的評価も高かまってきたので、更に一歩を進めて、中等教員養成を意図したのである。すでに、大正14年10月に高女卒を入学資格とし、修業年限2か年の裁縫科中等教員養成部(家政高等師範科)の設置認可をうけていたが、それを踏み台として、専門学校への昇格をはかろうとしたのである。そのため、移転がほぼ完了した大正15年10月には、専門学校設立について山崎延吉先生に協力を求め、その快諾を得た。当時の安城町長岡田菊次郎氏も積極的に力を貸してくれることになり、専門学校設立の準備は軌道にのってきた(『興村行脚日記』)。
昭和2年に専門部は発足したが、これは、近い将来に専門学校に昇格することを前提としたものであり、正式には「家政科」と呼ばれていた。当初の予想を裏切って、裁縫師範科卒業生のうちから専門部へ応募した者は、わずか、1名にとどまった。1名だけではどうしようもなかったので、大正13年に本科を卒業して、東京で勉学中であった馬場ツヤコ(旧姓真杉)さんを専門部の生徒として呼び寄せた。馬場さんは昭和3年の11月頃に改めて上京することになり、昭和2年度専門部入学生としては、結局白崎さんひとりだけが残ることになったのである。

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専門学校の設立準備をすすめるなかで、職業学校の組織を変更する必要が生じた。職業学校の裁縫師範科は実業学校令に依拠しており、甲種中等程度実業学校として、高小卒の入学者に対して2年ないし3年を修業年限としていた。しかし、きざしはじめた農村不況と、同じ町内に町立の安城高女が設立されるというアクシデントのため、尋小卒の入学者を収容する本科を併設し、大正12年以後はその修業年限を3年としていた。これは、正式に申請する前に、実質的には、実業学校令職業学校規程に相当するコースとして運営されていたことを示すものである。しかし、専門学校への入学有資格者は、高等女学校を卒業している者、または、尋小卒後4か年、高小卒後2か年の教育機関を終えた者に限られていた。専門学校を設立するからには、その母胎である職業学校からの進学の道を開くことが必要不可欠であった。

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そこで、大正10年1月13日に制定されていた実業学校令職業学校規程に依拠する職業学校として、昭和2年4月8日附で認可申請をしたのである。入学資格は12才以上の尋小卒程度以上の学力を有する者とし、修業年限は4か年とした。この規程によれば、職業学校の学科目として「修身・国語・数学・体操並に職業に関する学科目及実習、但し体操は欠くことを得、学科の種類により、理科・図画・外国語その他、女子には家事・音楽その他の学科目を加設することを得」となっていた。
昭和2年4月8日附の文部省への申請書を見ると、本職業学校の学科目および担当者はつぎのとおりである。

裁縫・家事・手芸 寺部だい
裁縫 本田喜久栄
図画・手芸 土屋芳枝
国語・英語 大参アサノ
割烹 鈴木いさ
修身・国語 寺部三蔵
珠算 大見銈一
数学・体操 牧野鎌太郎

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