修養団の精神が本校の生徒指導の根幹になったのは大正11年のころからである。農民道を唱え農村教育の先覚者であった山崎延吉先生は、すでに大正8年5月修養団の愛知県支部が結成されると同時にその支部長となりその精神の発揚に努めて […]
『主婦の友』に掲載された、「私生児に生まれて女学校長になるまで」と題した寺部だい先生の半生の記録は、すでに定着しつつあった安城女子職業学校の名声を、全国津々浦々に及ぼすことになった。それは、向学心に燃える全国の若い女性に […]
小堤町への新校舎建設に際して、寺部だい先生の心の中には「専門学校」設立の構想が沸々と煮えたぎっていた。大正15年度に裁縫師範科を卒業した松井伊都子さんたちは、昭和2年3月の卒業に際して、こんど専門学校を設立することになっ […]
専門学校を設立するにあたって、校地校舎の整備とならんで、教員スタッフを充実することが大きな課題であった。昭和2年の職業学校の組織変更につづいて、昭和3年3月には、専門学校開設認可が得られることを前提にして生徒募集が行なわ […]
昭和4年4月までには、安城女子専門学校が正式に認可されるものと誰もが信じて疑わなかった。しかし、認可を得るまでには、もう一つの試練に耐えなければならなかったのである。 当時、全国に女専は家事・裁縫を主とするものが官私立含 […]
昭和4年3月23日、文部省に安藤参与官を訪ねた山崎延吉先生は、安城女子専門学校の認可されない理由が、単に財団法人の基本金の額の乏しさにあるのではなく、その教員陣の弱さにあることを知って、期するところがあり、校長就任の意志 […]
さきに引いた『校友会誌』の巻頭に、寺部だい先生は、「校友会の諸姉へ」と題して 「大正改元と共に新生命を受けて生また私達の学校は年を経る事16年。此處に昭和新政の御代となりました。此の弥栄に栄えます新帝の御大典の行はせらる […]
県外からの入学者が極めて多く、県内でも旧碧海郡を除いては、国鉄沿線と開通したばかりの碧海電鉄の西尾までだけが通学可能範囲であったから、寄宿舎へ入らなければならない生徒が多かった。だから、新校舎の建設とならんで、寄宿舎の新 […]
昭和3年、新しい校地に新装なった安城女子職業学校の恒例の展覧会は、いやが上にも盛大となった。この時実際にこの展覧会の運営に当ったSさん(白崎みさをさんか)の手記を『校友会誌』から引用してみよう。 過ぎにし展覧会のことごも […]
幼児教育に対する関心が漸次高まりつゝあった大正15年4月22日には、勅令第74号によって幼稚園令が制定され、同時に幼稚園令施行規則が定められた。それによると、幼児のうち満3才から学齢に達する以前のものを対象として、遊戯、 […]