第7節 その頃の学校のようす

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さきに引いた『校友会誌』の巻頭に、寺部だい先生は、「校友会の諸姉へ」と題して

「大正改元と共に新生命を受けて生また私達の学校は年を経る事16年。此處に昭和新政の御代となりました。此の弥栄に栄えます新帝の御大典の行はせらるる年に当りまして、校友会は総会を夏期講習会直後に行ひ、又校友会誌を発行して皆様にお目にかかる事となりました。考へてみますと過去15年間は努力のみでした。建設への只管の精進のみでした。否夢中でした。此の私達を激励して今日在る事の出来たのは実に校友諸姉の御同情母校愛の然らしめた所です。写真を見て下さい。此が現在の学校です。昔の面影のないと云へば或は奇異な言ですが全く面目を一新しました。
学校の成長と共に大発展して此種の学校では県の第一人者となりました。今では天下に覇を称へやうとしてゐます。学校の入学者は年と共に増加して来ました。従って校友会員も増加して来ました。此の益々大になる力を以って私達の学校に力添へして戴いたら、どんなに学校は力強い事でせう。何卒私達の学校の為に益々母校愛の純粋の愛を注いで下さるやうに。絶大の希望を持って呱々の声を挙げて生れ出た校友会雑誌の第1巻を発行するに当りまして御願する次第であります。
と書いている。新しい校地校舎の整備が着々と進み、飛躍的な発展への自信と抱負が生き生きと脈うっている。このころから、同窓生の数も増え、専門学校設立への支援を呼びかける意味も含めて、校友会を発足させ、「校友会誌」を発行することになったのである。なお、職業学校の校章は大正15年に制定されその表紙を飾ったのである。この校章がもとになって、さきに紹介した専門学校の校章がつくられたのである。これらの校章はいずれも築山素紅氏のデザインになるものであった。
この『校友会誌』から昭和3年度の前半期の学校の動静を引いてみよう。

4月 6日 入学式
   7日 始業式、新任先生挨拶、新任先生坂東、間瀬、常森、服部、松尾、今枝以上6名
   8日 授業開始
  29日 服部先生退職
5月 4日 全校蒲郡ノ海岸ヘ潮干狩
  24日 安田先生就任
6月17日ヨリ30日マデ 家政科、高師1・2部、師2、本4ハ農繁期中ノ安城託児所ヘ出張
  21日 高師、師2、安城第一尋常高等小学校ヘ研究授業見学ニ
  23日 土屋先生退任
  25日 矢田先生就任、大見先生退任
7月21日 常森先生退任
  22日 松尾先生退 終業式
  25日 成績表発送
  27日 夏期講習会開始
8月26日 第2学期開始、始業式、左右田先生就任
  27日 授業開始
9月 7日 県主催裁縫科研究授業本校ニテ開カレ、校長先生、本田先生授業ヲナサル

潮干狩、託児所奉仕、研究授業見学、研究授業の実施等盛りたくさんの行事がおこなわれていた。その時、師範科2年生に在籍した鎌倉喜代美さんは、「託児所の一日」と題して次のような一文を残している。

「楽しい様な、不安な様な、待つとはなしに心待ちに待っていた25日、託児所へ行く日がいよいよ来た。朝早く雨の降る中を足をはこんだ。門の中には可愛い子供達が遊んで居た。私達を見ると、おばちゃんと呼んだの――私は不意討を喰って、間の抜けた人間の様にぼんやりして「ハイ」の言葉も出なかった。暫くすると、一人の子供が大声で、先生と呼んだ。私は何心なく「ハイ」とすぐ答えた。私は始めて先生と呼ばれた。小さな子供の前でも、何だか恥かしい様な気がした。今おばちゃんと呼ばれた時、又先生と――自分で自分を笑った。左右から袴にすがる可愛い子、楽しく我を忘れて一日を過した。其日の一日、ほんとうに短かかった。日が暮れかゝったので、やむを得ず子供の国に心を残して帰って来た。

託児所への奉仕には毎年春秋2回、田植期と収穫期の農家が最も忙しい時期を選んでそれぞれ15日間に亘って、交替で一日ずつ出かけたのである。昭和5年刊行の『見よ碧海』にも、この託児所奉仕に触れてあるが、碧海郡にあった女学校の生徒たちが交替で農繁期の地域社会へ奉仕する慣わしであった。この農繁期託児所設置は、岡田菊次郎の提唱によって昭和3年6月から行なわれることになり、安城町各字の17の寺院を会場として、毎回約2,000名の乳幼児の世話をした(『岡田菊次郎伝』)のである。
本校が、地域社会と密着した教育実践をしていたことは、つぎのことによってもうかがうことができる。大正13年から15年にかけて在籍した戸田初江さんは、当時安城町にあった山丸製糸工場や愛三製糸工場などへ女工さんたちに裁縫を教えるために、成績優秀の者が選ばれて授業後定期的に出掛けて行ったと語っている。生徒の中の優秀な者が、工場へ教えに行ったのは、大正のはじめ頃からのことであるらしい。碧海地方の養蚕業を背景として発展してきた生糸工場は昭和初期には山丸製糸が約500名、愛三製糸が約300名の女子工員を擁していた(『安城市史』)。それらの女工に裁縫を教えることは、ひいては地方産業の発展にも寄与するものであった。
また、この頃の裁縫の授業では、技術が一定の段階に達した者に対して江戸屋、尾張屋など町内の呉服店からの仕立の注文に応じさせていた。職業学校の裁縫技術の水準の高さとそれに対する信頼の大きさをものがたると同時に、生徒の学資の補いともなり、父母の負担をいくらかでも軽くさせようとする配慮の現われでもあった。
その技術的水準の高さは、学校内で定期的に行なわれた早縫競技などを通して鍛えられたものであった。
夏期講習会も、特色のある年中行事であり、本校の生徒は勿論のこと、先生として活躍している同窓生諸姉にも呼びかけて、裁縫、手芸、刺繍などの最新の知識・技術を習得させることをねらいとしていた。そのための講師は、それぞれの分野の第一線の先生方を外部から招聘した。受講者は、それぞれ自分の最も習得したい分野を、自主的に選択して受講したのである。また、内部の職員に対しても、努めて最新の研究成果やすすんだ技術を研修するチャンスを与えた。

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