第1節 だい先生御逝去の悲しみを胸に

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昭和41年は、学園にとって悲しみに満ちた年であった。
この年の3月まで、14年もの間、安城学園女子短期大学学長に任じられた二木謙三先生が、4月27日に逝去された。東京で行なわれた葬儀には、学園から、事務局長故猿橋繁先生、学生会顧問木村英雄先生、短大学生会会長織田伸子の3名が参列した。二木先生は、東京大学名誉教授、文化勲章受賞、日本学士院会員という肩書をもたれ、医学界における権威者だったこともあって、葬儀には、文部大臣、厚生大臣、東京大学医学部部長をはじめ多くの人々が列席し、式は盛大に行なわれた。享年94歳であった。
ところが、同じ年、寺部だい先生も、健康がすぐれず安城更生病院に入院しておられたが、学園あげての祈願も空しく、5月18日午前7時40分、心不全症に急性肺炎を併発され、83歳の生涯を終えられた。翌19日午後2時から、自宅で密葬がおこなわれた。

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安城市名誉市民ということもあって、6月7日には、安城学園、安城市の合同葬が行なわれた。当日、午前10時から、安城学園体育館に設けられた祭壇に、学生、生徒、園児3,241名による礼拝献花の儀が行なわれた。午後2時から、安城市長故石原一郎氏を葬儀委員長として、葬儀並びに告別式がとり行なわれた。文部大臣、愛知県知事をはじめ、1,500名の参列のもと安城市仏教会会員21名による読経のなかで、厳粛でしめやかな儀式が進められた。式の中で、だい先生の御霊に、従5位勲4等に叙されたことが報告された。
すべての学園関係者はひとしく、偉大な創設者を失なった大きな悲しみに包まれたが、だい先生の意思と理念を学園の全活動に活かすべく、83年の生涯の中で、ただ一筋に守ってこられた先生の生活信条を、学園教育の基本とすべく深く心に期したのであった。
また、だい先生のもとで、学園発展のために教育と経営に全生活を打ちこんでおられた寺部二三子理事長も、この年、8月5日、入院先の安城更生病院で、53歳の生涯を終えられた。前年の10月に手術を受けられたにもかかわらず、退院後の療養もそこそこに、大学設立準備に奔走されただけに、その急逝を学園人一同深い悲しみをもってうけとめたのであった。
翌昭和42年、だい先生の忌日に当る5月18日、安城学園と寺部家によって、両先生一周忌の法要が碧海説教所で行なわれた。その中で、両先生の生前を偲ぶ録音、映画が披露された。当日、午後2時、各設置校で黙祷が捧げられた。

母を想う 理事長 寺部清毅

通常、両親の思い出、特に母親の思い出というと幼児期に多いものだが、私の場合は、脳裡に残る思い出は、あまりない。
それは、私が生れたのが明治45年2月で、安城裁縫女学校の設立と機を一つにし、私の幼児期は両親にとっては学校設立後の文字通り、毎日が戦争であり、苦労の連続であって、子供の世話や親子の対話どころではなかったためと思われる。
そんなわけで、私は、小学校の入学式にも、一人で行って受付の先生に賞められた記憶がある。4月1日は小学校も入学式だが、両親の経営している裁縫女学校も入学式で、子供について行くどころではなかったのである。こうした生活を毎日送る中で、自然に、私は独立自尊、個性の強い人間に育っていったようだ。
父親は、海軍軍人で、一本気の猪突型だが、人なつっこく人情味豊かを性格であった。母親は、理性の勝った方で、物静かだが、旺盛な行動力に富み、少々のことで動じるような人ではなかった。従って、学校も、父親は経営の中の管理関係が中心で、運営面と教育関係は、主として母親が担当したので、勢い、母親が表面に出て、父親が内部を固めるようになった。私が小学校の5年生になった頃から、学校の方も軌道にのり落ちついてきたようだった。そして、子供たちの勉強部屋が内庭に増築されたり、私たちの服装にも、気が配られるようになった。
父親の海軍服を母親がとり出して改良し始めたのも、その頃であった。毎晩、食事がすんでから、台所の隣の4畳半で、母親は夜なべをした。薄暗い電燈の下で針を動かしている母親の横顔は、夜目にも、りりしく厳しさを漂わしていた。いつとはなしに、子供たちの間では、改良服が話題になったが、出来上って私が着ることになった時は、さすがに嬉しかった。私は、兄弟中で、一番の暴れん坊で、いつも近所の子供を泣かせては苦情をいわれ、両親におこられ、家の窓から飛びだして逃げていたし、第一、着るものは、着たきり雀で、別にそれを苦にもしていなかった。たゞ、父親が名古屋へ行く時には、いつもきまって私が連れていかれたので、そのせいかも知れなかった。
当時、母親は、朝は5時に起き朝食の仕度、昼は授業、放課後は寄宿生の教育、夕御飯の仕度、後片付、と想像できない多忙さの中で、父や私たちの衣服を作り、その上、勉強をしていたのだから、とても人間業とは思えなかった。そんな中で時々、暇を見つけては、1、賭けごとをするな、2、人間として生れたのだから、人の為になることをせよ、3、仏さまを拝みなさい。拝まないと来世は動物になって生れてくると教えられた。このことは今でも、私の脳裡に深くやきついている。

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