第3節 「先生」を志す

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小学校での勉強ときびしい労働の、苦しいながら勉強の進歩のよろこびに胸をはずませる(『おもいでぐさ』より)生活がつづいて3年目に、もともと文字が読めるようになることが一つの目標であった勉強だから、一応の目的を達したし、無理を重ねた中での勉強であったから、この上を望むなら印内(桜井村の中の字名)の長谷部先生の夜学の塾へでもという母の言葉に従って小学校を退学する。学校をやめるのを待っていたように子守りをはじめとする仕事が追いかける。これといった目標もなく、ただ勉強がすきというだけで、更に夜学へ通うことなどできるものではない。先生は「毎日ただ漠然と過していた。」と書いておられる。見方によっては先生の心の休養の日日であったかも知れない。物心ついた先生は、ある日母からその出生のこと、境遇のことをきかされる。年老いた母と自分だけの力で、このけわしい世の中を生きて行かねばならぬとわかったとき、「勉強しよう。勉強して立派な人になることだ。それが母への一番の恩返しだ。」(『おもいでぐさ』より)と思う。そして一番立派な人という理想像は小学校の先生であった。何故小学校の先生が、数え年9才の少女の理想となったのかは明らかでないが、一生懸命に勉強した小学校で接した「先生」に、大きな影響を受けたであろうことは想像できる。何よりも勉強ずきの子供であったからこそ、「先生」を最高の立派な人と見たのであろう。何しろ現在でいえば小学校の2年か3年である。どうしたら先生になれるのか、どの位お金がかかるのか、そんな事まで考えているはずはない。ただ子供心に先生は立派だ、そして勉強さえすれば自分でも、あのような先生になれるのだろう、なりたいものだ、と思ったのであろう。どこで何の勉強をして、どんな試験を受けて何の先生になろう、などという考えはずっと後のことである。しかしこの時に、先生になろうと幼い心に思ったことは、そのまま心の底に焼ついてしまって、その後の事ある毎に「先生になろう」が浮かびあがってくる。とにかく勉強ということで、夜の塾へ通うことになる。「塾では、高等小学校一年の修身、國語、算術、地理、歴史を、毎夜二時間宛教授されました、」と『おもいでぐさ』に書いてある。
学制頒布以前の江戸時代における日本の教育機関は、藩校と私塾と寺子屋であった。私塾は幕府や諸侯が学校を設ける前に、それらに保護をされ援助されて活動をしていたし、その後幕府や諸藩の学校ができてからも、私設の学舎は存続し、その種類と数はますます増加した。漢学、軍学、國学、蘭学、医学、数学など、ある程度の専門的な分野をもったものも多くあったことでわかるように、初等から中等、高等までの教育を行っていた。しかもその下級段階は上級段階へすすむ準備的な色彩が強く、従って藩校や塾で学ぶ者は、武士の子弟がほとんどであった。これに対して、庶民の教育機関は主として寺子屋であったが、これは一種のまとまった初等教育であった。従って寺子屋のほとんどは明治になって小学校が整備されると共に閉鎖されていくが、私塾は小学校の上級の教育としての、中学校や高等女学校が、相当程度普及整備されるまで、学制にいう私塾や家塾、教育令にいう私学として、又は学制や教育令などと並行して存続したものと考えられる。勿論その姿はさまざまに変化したであろう。藩校でさえ平民を入れたところがあるから、塾はむしろ庶民を主体にしたものに移行した。儒学中心は國学、洋学を導入し、生徒の層の変化と共にその内容も変化をした。中には新らしく設けられたもの、寺子屋の脱皮したものもあったと考えられる。そしてその藩校の中から官公立の大学や中等学校が生れた。「学制」は従来の藩校をすべて廃止せしめているから、藩校の中から、そのまま直接に生まれたとするのは適切ではないにしても、有形無形のつながりをもった官公立の学校が生まれたことはたしかである。塾の中からは、私学としての大学や中学校が生まれた。つまり徳川時代の「お上」が、そのまま明治の国公立につながるのである。徳川時代の「お上」が良かったのか、或は「お上」によって訓練されたのか、特に明治の徹底した官尊民卑の風潮は、その後の学園の発展の中で、創設者寺部だい先生が、嘆いておられる通りである。しかしこのような私塾のありさまは、主として中央中心地のことであって、桜井村のような地方の農村では、大分様子が異っている。
明治25年前後、即ち先生が夜の塾へ入られた頃の桜井村には、いわゆる寺子屋というものは無くなっていたであろう。もともと桜井村のような地方の農村では、塾と寺子屋が厳然とは区別されていなかった。塾も庶民を対象としていたし、町村史等でも同じものを私塾と書いたり寺子屋と書いたりしている。従ってこの頃には、寺子屋という呼び名が無くなって私塾に一本化されたともいえようし、強いていえば、一般的に塾の方は寺子屋よりやや高度なところ、又は専門的なところを受持っていた。だから小学校の整備に伴って寺子屋が閉鎖され、高等小学校の整備されるまでの間、私塾がその役目を果していた、と考えることができる。勿論これらの塾は、学制や教育令、諸学校令とは別の存在である。各地の教育史などによっても、いわゆる寺子屋は大体明治8年頃までに姿を消している。『桜井村史』(昭和18年刊行)によれば、同村の寺子屋の模様がつぎのように書かれている。
寺子屋の我が村内に存せしものを見るに、大字小川の蓮泉寺では住職了遵に依って文化8年以来子弟を教育せしが、安政4年に廃するに至ったとのことで、明治維新には及んで居らぬ。大字木戸なる長因寺の石川順阿は、安政元年より寺子屋を開いて、学制頒布後の明治6年に及び教子は50名に及んでおり、大字寺領なる松韻寺の松崎知蔵の開けるものも安政元年より明治6年に至る間で、教子は25名程度であり、大字藤井なる安正寺の加藤圓城また安政元年より明治6年に及び、60名程の教子があり、大字野寺なる善証寺の小林諦成は安政元年より明治6年に及び、教子は45名程と云はれ、姫小川の誓願寺なる小松義鳳は安政4年より明治4年まで教授せしが、40名程の教子を有したと云はれる。尚ほ大字川島の西心寺なる近藤祐了は佛学に通じ、御家流の書法に達して、天保の頃より明治初年まで子弟に教授すること100人を越えしと云はれ、明治24年10月17日その寂するや、筆子に依って建碑を見たのである。

昭和46年発行による『安城市史』には、天保の頃から明治初期の間の、桜井村の寺子屋として4人の名前があげられている。長谷部貝之助、長谷部新造、古海九右衛門、山本孫右衛門である。『桜井村史』にはこれらにつき更に詳しいが、いずれも私塾としている。いずれにしても桜井村の庶民の教育機関として大きな役割を果したことは間違いない。その中、古海九右衛門は城向(桜井村の字名)で書を中心に教えたが幕末の一時期で終っている。山本孫右衛門も城向にあったが珠算を教授している。長谷部貝之助は印内に在り、領主本多家の庄屋を勤めたが、幕末より明治に至り塾を開き、教え子も多くその区域は、安城に及んだと記してあるが、明治26年4月8日歿している。長谷部新造は同じく印内の人であるが、その詳細が不明である。同じ呼び名の長谷部新蔵という先生が同じく印内にある。新造という人とは別のようである。以下は桜井村中開道在住、浜田師良氏(元桜井村教育長)の談である。………

……寺部だい先生の行かれた塾というのは多分長谷部新蔵先生のところでしょう。寺部先生のお母さんのことばにある印内の長谷部先生といえば、一応長谷部貝之助も考えられるが、明治26年に亡くなっているので時代が合いません。この外に印内に長谷部という塾の先生はおりません。長谷部新蔵という人は、はじめ桜井神社神主の野田石見という人につき、その後菩提寺第33代神谷琢願に教をうけ、桜井に小学校のできると共にその先生、又郵便局ができると共にその書記等をしましたが、その業蹟の評価からいえば塾における教育でしょう。教子たちの建てた碑が今もあるが、その中に寺部さんも恐らく入っているでしょう。とに角感化力の大きな先生だったように思います。……

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しかもこの長谷部先生は幼少の時の病で、右手左足が不自由であって、書は左手を以てしたようである。従って塾の中でも寺子屋の流れをくむ、よみかきそろばんの系統ではなかったと考えられる。高等小学校1年の算術や地理歴史を教えられたというだい先生のお話し(『おもいでぐさ』より)の通りである。先生はかくして7年間この夜の塾へ通う。7年間といえば長い年月である。しかも昼の間の労働の後の夜の勉強である。寺部だい先生の向学の意志のかたかった故でもあろう。長谷部先生の寿碑が建ったのを見れば、先生の人格、魅力、教育力も優れていたのであろう。だい先生がこの塾をやめなければならなくなったとき………私は遂に15才の3月、塾へ行くのをやめることにしました。7年間通い続けた塾でした。私用で休んだことは一度もありませんでした。母の次に大事な、そしてなつかしい先生にお別れするのは、身を切られる思いでした。子供ながらに、万感胸に迫るものがございました。…………と書いておられる。この塾をやめなければならなくなる1年程前から先生は、塾の勉強と並行してお針仕事を習いに行くようになる。勿論先生のお母さんのすすめであるが、おそらくお母さんの頭の中には、裁縫の先生という発想があったのであろうと思われる。

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裁縫の先生というのは、必ずしも学校の先生のみをさしてはいない。いやむしろ学校の裁縫の先生という考えは無かったのかもしれない。裁縫塾の先生、先生でなくても裁縫のうでさえたてば、というお考えであったと思われる。さかのぼって江戸の時代には、女子が「お針を習う」「お針に通う」即ち裁縫を習うことは、女子の修養の一切を意味した。寺子屋でよみかきそろばんを習うのは、男子が中心で、女子は家庭における母姉又は、お針の師匠(縫物師匠)について、お針を通して、女子百般の教育を受けたのである。女子百般といってもやはり中心は裁縫であるから技術が要る。家業の性質や暮し向き、更に母姉の裁縫の技量の関係で、家庭で教育のできるものは極めて限られてくる。そこで寺子屋の師匠の奥さん、裕福な家の「つれあい」やそこの寡婦などが、お針の師匠として教育にあたった。お針の師匠は仕立屋ではない。仕立屋、仕立物屋は別にあって、これは主として男の職業であった。しかしこの仕立の職業に従事する者の中には勿論女子もいる。御針、針妙、御物師といわれる人々で、お針の師匠の中にはこの仕立屋の従業員と、あまり違わない程度の者も居たと思われる。この流れは随分後まで続いており、強いていえば現在でも存続しているから、だい先生のお母さんが、「先生」を意識しながら、仕立の技量をと考えたのが、うなづける。学制では「第二十六章 女児小学ハ尋常小学教科ノ外ニ女子ノ手芸ヲ教フ」と一応の女子教育の方向を示してはいるが、明治初頭の流れの向きは、軽薄安易とも思われる女性開放論であり、女性の近代化論であった。これに対する反省、さらに思潮の動き等が加わって、明治12年の教育令で変化を見る。明治13年文部省の指示に、「小学に在ては大低男児と異ならすと雖、其上級に至りては少差異なき能はず。即ち裁縫の一科を加ふるが如きは其尤なるものなり」とある。教育令小学校教則綱領第3条には「殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ」とされている。この教育令はその後何回か改正されるが、その都度裁縫は重要な科目となっており、明治19年の4・4制では高等小学校での裁縫は、週2時間乃至6時間となっている。明治23年の改正小学校令により小学校は、3か年又は4か年の尋常小学校と2か年乃至4か年の高等小学校となったが、この時には尋常小学校でも裁縫を加えることができることになっている。このことは女子の就学率の向上に大いに役立ったので、文部当局も督励をし、各小学校も積極的に実施した。一方それを教える裁縫の先生の方は、正規には女子師範の卒業者だけであるから、その数は小学校の数に比べて圧倒的に少ない。全国の全女子師範生徒の合計が、やっと1,000名に達するのが明治32年である。裁縫女学校卒業者、短期裁縫教員養成講習修了者、検定試験合格者は勿論、いわゆるお針の先生や、別系統の仕立屋師匠等がその任についていた。だからだい先生のお母さんが、だい先生に「お針仕事」を習うことをすすめることは、いろいろな意味で極めて当を得たことであった訳である。

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このようにして先生のお針仕事即ち裁縫の勉強が始まる。習いに行った先は円光寺というお寺である。………円光寺は大字桜井字中開道に在って形谷山と号し、檀徒は300戸で――慶長11年現在の地に再興を見るに至ったのである。…………と『桜井村史』にある。学制による初めての小学校は、桜井村で4校であるが、その一つ第44番桜井学校は、この寺の太鼓堂が校舎としてあるように、村の中心であったと思われる。現住職安藤良雄氏の談によれば

確実な資料が乏しいので、はっきりしたことはわかりませんが、寺部さんのお家が寺の檀家で、だい先生のお母さんは何かにつけ、よく寺へ来られていたようです。明治23年頃に現在の岡崎市になりますが阿知和というとこらから、嫁に来られた私の大祖母さんですが、はつゑという名前で、裁縫にすぐれていたそうです。後日だい先生が「渡辺」に行かれてから、寺で習ったことが新式だということを知ったそうですから、どこで習ったか知りませんが、裁縫には堪能であったようです。そんな訳でお針子をとって教えていたと思います。そこへだい先生がお母さんのつながりで通うようになったものと思います。いつ入って、どんな様子でいつやめたというようなことは、記録もありませんのでわかりませんが………………。
ということである。この裁縫の安藤はつゑ先生の御息女などの話によると、だい先生と寺との間は単なる檀那寺と檀家という以上に、深い心の交流があったようである。はつゑ先生もだい先生に愛情をそそがれ、だい先生もそれに心から感謝して励まれたようである。後年先生が裁縫で身を立てるようになったのも、思えばこのはつゑ先生のお力であった。『おもいでぐさ』によれば、他のお針子達は皆地主の娘さんばかりで年令も上、おまけにだい先生は普通は男子でもなかなか行けないような、高等小学校相当の塾へも通っている、ということで不和の種になり、終に塾をやめたと『おもいでぐさ』に書いてある。15才の3月と書いてあるから、明治29年ということになる。そうして1か年程の後、思いもせぬ災難がふりかかって、村を離れてでも独立しなければならないと、一大決心をすることになる。そのできごとについては『おもいでぐさ』に詳しい。没落した、母と子の懸命の生活への、村人たちの情と圧迫の総決算であった。そのできごとがそう決心させたというよりも、だい先生が初めて、そのできごとをきっかけにして、自分で真剣に考えて決断をしたといった方が良いであろう。今度は漠然と先生をあこがれるという程度のものではない。極めて具体的に、どうやって何の先生になるかという問題である。『おもいでぐさ』に………私は初志通り、小学校の先生を望みました。………と書いてある。だい先生18才、明治32年のことである。

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