安城学園60年の歴史の大部分は、本学園創立者寺部だい先生と、そしてそのよき理解者よき協力者であった御夫君の三蔵先生の、人生の歴史であるともいえよう。特に学園の創設に関する歴史は、まさに両先生の歴史そのものである。 昭和3 […]
先生が「学」を志したきっかけのことを、先生はその自伝『おもいでぐさ』の中で「善光寺まいり」の話に書いている。没落して貧しく、しかもいわゆる父なし子として、母一人子一人の苦しさに耐えた生活の中で7才になった先生は、母につれ […]
小学校での勉強ときびしい労働の、苦しいながら勉強の進歩のよろこびに胸をはずませる(『おもいでぐさ』より)生活がつづいて3年目に、もともと文字が読めるようになることが一つの目標であった勉強だから、一応の目的を達したし、無理 […]
明治32年といえば、ちょうど小学校令が改正をされて尋常小学校が4年、高等小学校が2年又は3年又は4年となる前年である。学制では、「女子ノ手芸」という文字がわずかに見える程度であった女子のための科目は、明治12年の教育令で […]
明治39年の12月、先生は滋賀県の甲賀郡石部町、石部尋常高等小学校に赴任する。何故突然に滋賀県の学校の先生になるのか、その事情については資料が無い。『おもいでぐさ』にはある人の御推薦でとしか書いてない。明治26年、実業補 […]
明治45年(1912)2月8日付の、愛知県知事名による設立認可を受けただい先生は、この年4月1日、碧海郡安城町大字安城字稲荷において、安城裁縫女学校を開校した。寺部三蔵先生が校主、だい先生が校長であった。学を志し、先生を […]
学校開校1年目の生徒は、約30名であった。古い住宅の2間の仕切りを取り払って作った教室は、いかにしてもこれでは狭ますぎる。 2階にある1間は、遠方からの入学者のための寄宿舎に当てられており、年寄り(だい先生のお母さん)の […]
女性の職業としては、看護婦か女工さん、仕立屋の針子、そして小学校の教員ぐらいしかなかったこの時代、だい先生は自分の体験から、女性にも独立して十分やってゆける経済力を身に着けさせ、女性の地位向上のためにも、この学校の生徒に […]
大正3年(1914)は、第一次世界大戦の始まった年である。1か月後の8月、日本もドイツに対し宣戦布告し、中国の山東省、ドイツ領南洋諸島を占領して、戦争にまきこまれていった。しかしながら、直接の戦場とは遠く離れた日本は、こ […]
大正初年の、安城地方の女子教育については「一般の教育日を追ひて普及するに至りしも、尚土地の状況慣習上女子教育を軽視するの風止まず、義務教育の延長せらるゝや困難を訴へ、学令中製糸工女たらしめんとするもの、家事の手伝を為さし […]
明治45年4月、裁縫女学校開設当時の先生方と、その科目は、左表のようであった。 (上記図版「裁縫女学校開設当時の先生方と科目」参照) 校長のだい先生が、本科、専修科の裁縫をすべて受け持ち、礼法も週に1回位ずつ教えられた。 […]
だい先生は、裁縫女学校開設以来、裁縫を通して、実力をもつ家庭婦人の育成と共に、裁縫科の教員養成に力を入れてこられた。「男は手習い、汝は裁縫」といわれた当時の一般的風潮の中で、女性の地位向上と生活能力の開発のためには、裁縫 […]
校名変更によって、意気ごみも新たに出発すると間もなく、大正7年4月、安城町は町内の各小学校に、実業補習学校を併設した。これは、国全体の実業教育の高まりの中で、愛知県が「公立実業学校補助規定」をつくり、これに安城町が応じた […]
当時の学習科目は、裁縫の他に、修身、国語(読み方、書き方)珠算、作法、それに専修科、本科は茶、生花、師範科は教授法、教育学などであったようである。この中でほとんどの時間は、裁縫(理論よりも実地)にあてられていた。 裁縫の […]
大正10年4月、安城町は町立の高等女学校を設立した。(大正13年に県立移管、現安城高等学校)教養ある婦人、働く婦人、健康な婦人を目標に、農村婦人の育成を目的とするものであった。 これにより、安城町から本校への入学生は激減 […]
明治44年の私立学校令の改正によって、中学校及び専門学校について定められた財団法人化の方向が、より明確な形で打ち出された。その後、この法人化への指導が強化されたようである。 本校は、大正11年12月、財団法人設立の申請を […]
大正12年9月1日午前11時58分、稀有の大地震が京浜を中心として関東一帯をおそい、都市では大火災が発生した。東京市は3日間燃え続き、全市の6割を焼き、死者5万9,000人余、行方不明1,050余人といわれる。大震災によ […]
職業学校となってから年中行事となったものに、夏季講習会と作品展覧会がある。 夏休みは短かく、8月に入ってから10日乃至20日間位だったようであるが、この間に講習会が開かれた。受講者は、在校生及び卒業生が主であった様で、平 […]
明治45年、裁縫女学校として発足以来、大正期を通じて、最も力を注がれたのは、教員養成であった。勿論、それだけではなく、円満で役に立つ家庭の主婦を育てることも、その大きな目的であった。が、少くとも、その主流は、教員養成であ […]