明治45年(1912)2月8日付の、愛知県知事名による設立認可を受けただい先生は、この年4月1日、碧海郡安城町大字安城字稲荷において、安城裁縫女学校を開校した。寺部三蔵先生が校主、だい先生が校長であった。学を志し、先生を志して、故郷に母を残して単身上京し、苦学力行して来ただい先生にとって、この安城裁縫女学校は、これまでの裁縫塾と違って、小学校令第17条に基づく、私立の学校であり、その開設は、先生の“長く大いなる道”への第一歩であった。本校にとって記念すべき年である、この明治45年という年は、明治から大正に変った年でもある。この年7月30日、明治天皇がおなくなりになり、大正天皇が即位されて、9月13日には、明治天皇の大葬が国民の悲しみのうちに、とり行なわれた。
学校になると、本科と専修科が置かれた。修業年限と入学資格は、次のようであった。
本科 2か年 尋常小学校卒業者
専修科 1か年 高等小学校卒業者
最初の入学者については、これまでの裁縫塾の塾生の大部分と、新たに入学した者を迎えて、約30名であった。『おもいでぐさ』によると、「入学者は三十名ありました。……二年目にも三十名以上の入学生があり、三年目には、五十人程になりましたので、やっと幸運が巡って来たと喜び合いました。」とある。当時の卒業生の記憶によると、本科40名位、専修科が15名から20名であった。(石川レイさん、大正元年10月卒業)この石川さんは、明治44年10月に「裁縫塾」に入り、「学校」を卒業した一人であるが、塾に入った動機を、「知り合いの塾生の人から、間もなく学校になるという事を聞いて…」と言っているが、開校の準備と共に、塾生を通じて、学校開校のニュースを流していった様子がうかがえる。
義務教育であった尋常小学校卒業者を対象とした本科は、裁縫・家事・礼法・修身・国語・茶華道が必修、高等小学校卒業者を対象とした専修科は、裁縫と礼法が、履習すべき学科であった。これらの科目は、この時期に、この種の学校が課した科目と、ほゞ共通するものばかりであるが、裁縫を通しての、生活能力ある家庭婦人の育成を目ざした点にその特色があった。
校長のだい先生が、実習中心の科目である裁縫・家事・礼法をすべて受け持ち、町内赤松の本楽寺の安藤現慶先生が、国語と修身を、同じく了雲院の山口英信先生が、茶華道を教えられた。校主の三蔵先生は、この時期はまだ教壇に立っておられなかったようである。
桜井村より移築した、25坪ほどの2階建ての寺部家の住宅が、そのまゝ校舎となった。従って、教室・寄宿舎・先生住宅が、すべて同居であった。
教室は、8畳と6畳の2間のしきりを取り払った板敷の部屋で、一方の壁に木板(黒板)がすえ付けられ、2人が並んで坐る立ち台が2列に並んで置かれ生徒が各自持参の坐布団を敷いて、坐って裁縫をするのである。裁縫用具としては、火のし、焼きゴテ、物差し(6分の1縮尺等)などの他に、当時まだ輸入品のみの時代であったミシン(シンガー)が1台おかれていた。
遠方からの入学者の為に、2階の1間が寄宿舎にあてられた。3、4人から5、6人の寄宿生が居たようであるが、食事などは、当番の生徒が2人位ずつ手伝って、だい先生一家と一緒に作り、別の部屋で寄宿生だけで食べたようである。
この頃の学校周辺は、田と畑にかこまれた自然の松が点々と生えた、淋しい所であったらしい。国鉄安城駅からの道路ぞいには何軒かの家や店があったが、この町並みのはずれに学校があり、校舎の東側は水田、西と北側は畑で、窓から見ると梨が実り、スイカがころがっている田園にかこまれていた。
始業は午前9時頃からで、午後3時頃に終った。生徒達の6割が安城町内から、8割以上が碧海郡内から、徒歩で通っていた。和服に、白いエプロン前掛をかけ(白いエプロン前掛は1年位の間で、その後は、ハカマに変るが、この頃エプロン学校と言われた)、裁縫箱に弁当を入れた風呂敷包みを持って、お互いにさそい合いながら、四つ辻で待ち合せながら、1時間以上の道のりを歩いた。
学校に着いた人から、「細目」に従って、自分の裁縫を始めた。
この当時の授業料は、月35銭であったようである。(『おもいでぐさ』には、一律に50銭とあるが、当時の多くの卒業生の記憶による。)塾時代からのしきたりで、毎月納めず盆、正月にまとめて、お礼をする人もあったようである。
所で、開校前後の時期の安城町は、どのような状態であったのだろうか。
明治39年に安城町となって以来、大正11年頃にかけての10数年間は、安城市街の第一次発展期(『安城市史』による)であった。鉄道・電灯・電話などの開通・開設という文明開化と共に、警察署、碧海郡役所が知立町より移転し、商店街も次第に形成されて、碧海郡の中心地として発展してゆく時期であった。
教育関係に目を転ずると、明治40年小学校令が一部改正されて、尋常小学校の修業年限が、これまでの4か年から6か年の義務教育となり、この上に高等小学校2か年となった。翌41年、安城町では町内を5学区に改正し、尋常小学校は第一から第五までの5校、高等小学校1校(明治42年に第一尋常小学校に併置となる)とした。
この頃の就学率を見ると、明治45年当時、碧海郡内の尋常小学校で、男子98.20%、女子95.73%と高い率を示している。(『安城市史』による)しかし、更に高等小学校への進学は、次頁の表の如く、尋小卒業者のうち、女子で約2割が入学、入学者の中で卒業する者は、約6割から7割程度であった。
高小卒業者を対象とした女子の上級学校としては、西三河には、岡崎町立岡崎高等女学校(現在の愛知県立岡崎北高等学校)と、私立の岡崎裁縫女学校(現在の岡崎女子高等学校、明治39年創立)があるのみで、あとは名古屋・豊橋に高等女学校と裁縫女学校が、数校あるのみであった。
このような時期、状況の中で、安城裁縫女学校が呱々の声をあげたのであった。