第2節 愛知学泉大学・愛知学泉女子短期大学

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大学、短大の基盤充実へ
昭和41年に発足した愛知女子大学は、43年4月に名称変更し、安城学園大学として新たな気持ちで歩み出した。その背景には、県内に類似名称の短期大学がある、将来男子学生の受け入れも予想される、ということがあった。愛知女子大学附属幼稚園も安城学園大学附属幼稚園と名称変更された。
その前月、安城学園大学は、杉原博学長に代わって、寺部清毅安城学園理事長を新学長に迎えた。この時、それまでの学長の教授会運営を補佐する機関であった小委員会は、学長の諮問事項を審議する性格を加えた大学協議委員会に改組された。
寺部清毅学長は就任に当たり、「学園設立者の遺志である建学の精神を、特に教育の面でどう具現化していくか、地方の大学として地方文化にいかに寄与していくかについて努力したい」と語られた。
安城学園大学では、44年3月に食品加工室、講義室、研究室を含む3階建ての新校舎が落成した。
大学では、学園全体の5か年計画における「現行教育課程の整理統合と特設科目の設定」の主旨に沿うべく、教員の研究意欲、学生の勉学意欲の向上のための施策に力を注いだ。
そのひとつは、『研究論集』の創刊である。学会のみでなく、大学自身も発表の場を持つべきであるとの考えで、42年3月、紀要委員会により創刊された。
他のひとつは、在外研修員制度である。学園の財政に余裕があったわけではないが、大学、短大教員の質的向上を図るため、海外へ派遣し、新しい大学のあり方を視察し、研究を深めてもらうことにしたものである。この制度は43年4月に発足した。
安城学園女子短期大学でも、5か年計画の主旨に沿い、カリキュラムが改訂された。
41年度には、安城学園女子短期大学の生活科を、栄養、食物の2つのコースとした。個人の食生活、食文化に関するカリキュラムを導入したのである。背景には、短大への入学者、特に生活科が増加したこと、栄養士免許の取得を望まない学生が増えたこと、などがあった。また短大では、43年度から、家政科で勤労学生を受け入れるようになった。3年間で卒業する特別スケジュールが用意された。
地域文化に寄与すべく、地域の人々と一体となった講座の試みも行われた。45年8月に安城学園大学短期大学部幼児教育科は、第1回の公開講座を実施した。内容は、集団遊び、音楽、絵画についてなどであった。
大学祭も盛んになっていった。46年度の大学祭では、岡崎の地に大学が出来て初めて、学生達による仮装行列が行われ、喝采を浴びた。
49年、学生部では、個人の悩みや就職相談など、学生生活全般に及ぶ学生への助言指導に当たるべく、学生懇話室制度を発足させた。

本学独自の家政学の確立へ
昭和47年頃からは、第二次5か年計画にうたわれているように、学園施設のみでなく、教育の環境整備、内容充実が、これまで以上に進められた。
大学附属図書館の充実もそのひとつである。41年に建設された図書館は、47年8月に増築され、蔵書数も増加した。さらに53年には、大学短期大学部と女子短期大学の統合(54年)による幼児教育科の安城校地への移転に伴い、桜井学舎図書室が新設された。
カリキュラムの面では、大学における家政学を生活の科学として再構築しようとする試みが始まった。
47年11月、「安城学園大学生活文化研究所」が発足した。「安城学園・家政学」とも言うべきものの成立を目指す学内組織である。その主旨には、「本研究所は、学園創設者寺部だいの基本的な教育理念である『人間の能力ははかりしれない』『女性の潜在能力は無限である』『それは可能性の限界にまで開発することが出来る』を実現し、高度消費社会における家政学の領域を人間生活に関する総合科学として確立することを期している」とある。
安城地域調査班、比較女性史研究班、造形研究班、生活環境班、もめん研究班、東南アジア研究班、郷土音楽研究班、人体の科学研究班、祭研究班などが活動を始めた。
51年度には家政学コロキウム準備委員会により家政学コロキウムが発足し、科学、技術、芸術などの要素を持ち、生活を対象とする、総合的な、また本学独自のものとしての家政学の研究が本格化していった。
47年前後からは、家政学における総合科目への取り組みが強められた。一般教育科目に「一般教育総論」が設けられ、「家庭生活論」などの家政学特別講義も実施された。短大各科各コースにおいて、総合科目化が次々と実施されていった。
国際化時代を先取りした動きも進展した。国際化時代を迎え、学生の海外研修旅行の要望が高まったので、「海外研修旅行」制度を導入し、50年3月に第1回目のヨーロッパ研修旅行が実施された。
国際化時代に対応したカリキュラムとしては、52年度に、比較文化に造詣の深い国際教養人の育成を目指して、家政学部に「欧米文化コース」が設けられた。特に実用英語力の向上に力が入れられた。
短大では、50年4月、被服科を服飾科へと名称変更したが、この頃から、時代に即した生活学を目指しての、特色あるカリキュラムづくりが各科において進展した。

基盤構築から将来の発展へ
昭和53・54年の頃は、短期大学の整備、強化が進んだ。
53年4月、懸案となっていた安城学園大学短期大学部幼児教育科の安城市桜井町稲荷東への移転が完了した。桜井町の旧安城高等家政学校の校地校舎を譲り受け、さらに周辺に約2万5,000平方メートルの土地を取得(48年)したもので、総面積は3万2,000平方メートルである。こうして桜井学舎が出現した。
一方、女子短期大学においては、52年9月、安城学園大学岡崎校地に学舎を建設し、53年、同地への移転が行われた。
これと並行して安城学園大学の拡充のため、岡崎市舳越町の校地隣接地に約5,700平方メートルの土地を購入した。また岡崎校地では52年3月、大学の南棟が建てられた。54年4月には家政学部欧米文化コースの語学演習充実のため、資料・ゼミナール棟が増築された。9月には正門が改築された。
短大の移転を機として、54年4月、安城学園大学短期大学部は発展的に解消され、安城学園女子短期大学への統合が実現した。同じ学園に2つの短大が存在するというまぎらわしい状態は解消した。かくて短大は、岡崎学舎(服飾科、生活科、家政科)と桜井学舎(幼児教育科)の2か所となった。
57年には短大で大きな動きがあった。豊田市からは女子大も短大もないため、短大誘致の要望が従前よりなされていたが、市の熱心な応援を背景に、その機が熟したのである。56年1月に用地1万6,759平方メートルを取得した。同地には、意欲的に「国際教養科」(語学コース、秘書コース)を設置することとなった。これは、わが国で初めて設けられた学科である。57年1月に認可を得、3月に学舎が竣工し、4月からスタートした。短大豊田学舎図書室も新設された。
一方、安城学園大学家政学部では、「総合科目化」の動きが一層進展し、56年度には、1年次に「家政学特別セミナー」が設けられた。これは、生活学の基礎とドキュメントの方法の習熟を目的としたものである。
57年4月には、学園では、大学、短大の名称変更がなされ、安城学園大学は「愛知学泉大学」、安城学園女子短期大学は「愛知学泉女子短期大学」として、新たな歩みを開始することとなった。それとともに、安城学園女子短期大学附属高等学校は「安城学園高等学校」、安城学園大学附属幼稚園は「安城学園愛知学泉大学附属幼稚園」、安城学園女子短期大学附属幼稚園は「安城学園愛知学泉女子短期大学附属幼稚園」と名称変更された。
こうして大学、短大は、基盤確立から発展への素地を築いたのであった。

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