昭和47年7月の新教育課程制定以来、鋭意準備を進めてきた創作活動は、50年4月より、普通科・商業科の3年で実施されることになった。この創作活動の理念について学校長は創作活動ノートの巻頭で、
「本年度発足いたします創作活動は、3、4年来学習指導部を中心として研究を重ねてきた成果を、特設科目として新設したものです。本来、人間は特に高等学校に入学してくる生徒は、誰でも限りない可能性を持っていますが、多くの場合、内的外的要因によってそれが潜在化しています。こうしたかくれた可能性を引きだしていくために、与えられた教材の中での教育だけでなく、自由に本人が選択した教材に従って計画立案し、一つのテーマを長期に亘って自主学習させ、その中で自己の可能性を探究し、発見し、引き出していく能力を身につけさせたいと考えています。こうした努力過程の中で、自然に事物に対して謙虚な心を持つようになり、それはやがて感謝の心に発展していくことでしょうし、一つのものを最後までやりぬく耐久性や持続性を養うことにもなり、調査・整理というまとめの段階では、分析力・総合力を培い、学習過程での絶えざる点検と反省は、自主性や創造性を伸長し、同時に人間としての根本的な良心の喚起につながってくることと思います。」
と述べられている。
学園紀要第8号に掲載された「『創作活動』準備と実践の記録」に、発足した年の創作活動の状況が次のように記されている。
「…創作活動ノートを持って各教室へ出かける生徒の姿が見られ、校外へ市場調査に行く者や実験のサンプルを採集に行く者、市立図書館へ調べに行く者は腕に「校外活動」と染め抜いた腕章をつけて出かける。
4月は創作活動ノートの記入の説明、研究テーマの確立、研究方法の指示から始まり、作品製作の諸部門では基礎練習から始まってやがて2学期の完成へとつながって行く。多くの部門では夏休み中も継続して活動を続ける。また、特にその時期を利用して指導教諭とともに見学、実地練習が行なわれたりする。自然科学部門における茶園や食品工場の見学、小型映画、写真研究部門等における実地練習である。また、器楽・合唱部門は私学連合音楽祭にも参加した。」
昭和51年2月、創作活動の第1回発表会が行なわれた。卒業試験終了後さらに約1週間、発表のための準備期間が置かれ、土曜日の3・4時限を使って各部門ごとに発表会が開かれる。論文作成の自然科学、社会科学などの部門ではレジュメが作成され、作品部門では展示、パネル、スライドなどが用意され、音楽部門では実際に演奏が行なわれて、1年間の成果が発表される。次年度選択予定の2年生も、それぞれの発表会場に参加して見学する。発表された作品や論文の中から、それぞれの部門ごとに優れたものを選んで、「創作活動作品論文集」に集録し、各部門ごとの一覧表を付して刊行される。「創作活動作品論文集」の第1号は昭和51年6月に出版され、以後その年度ごとに刊行され続けている。この創作活動の実践は、昭和53年に河村和男教諭によって全私研で報告され「生きる力を生み出すもう一つの試み」として、極めて高い評価を受けた。
授業研究委員会の活動、教育工学への関心の高まりの中で、視聴覚教材の活用は一層盛んになり、特にOHPを使用した教材開発は多くの教員によって積極的に続けられた。
昭和52年6月には、視聴覚教室が大改造された。映写室を設け、各種映写機を設置し、レクチャーテーブルで映写・スクリーン・暗幕などすべてリモートコントロールできるようにした。集団反応を的確に把え、個別指導を徹底するためにアナライザーを導入した。また、放送教育をとり入れるためにVTR、TVを増設した。こうして視聴覚教育機器機材の活用が一段と進められた。
昭和52年11月には、学校法人安城学園の創立65周年を記念して、木造中央校舎跡に、法人本部管理棟が建築され、その2階に学習センターが設置された。ここには、図書館と資料室、ゼミナール室2、暗室1があり、3階には多目的ホールがある。
学習センター設置の目的と活用のしかたについて、学校長は新聞クラブ員のインタビューに答えて「自分達の持っている能力をどこかで発見してもらおうとする一つの方法でしかありません。だから創作活動に使ってもらってもよいし、平常の授業で使うもよし、ゼミナールに使ってもよいと考えています。……図書館という従来のイメージを少し変えて、学習センターとして、図書館とゼミナール室を結びつけて活用してもらいたい」と語っている。(安城学園女子短期大学附属高等学校新聞昭和52年12月23日付)
昭和50年度には、数学、理科の担当教員から、生徒の算数や数学の基礎学力の不足に対する慨嘆の声が強くなった。これを少しでも補っていこうという願いをこめ、学習指導部と数理2教科で検討が進められ、基本問題が作成されて「数理テスト」としてまとめられた。昭和52年度には、その問題集を1年生全員に配布して、家庭学習として課した後に確認テストを実施した。生徒が自学すれば解けると予想して与えた問題についても、クラスの1割程度の生徒には解けないという実態が明らかになった。そこで、確認テストの不合格者に対して特別に指導をする必要が生じた。このような実態に対処するために、入学試験の問題にも、それぞれの科目で全体の20パーセントは基礎問題を出すことにした。
基礎学力が不足している生徒が増えているという実態は、数理テストの結果によって明確に浮びあがってきたが、他の教科でも、生徒の集中力の欠如、学習意欲の乏しさなどが指摘されていた。そこで、授業研究と並行して、教材の精選と教科書・教材の自主編成の必要が痛感されるようになった。昭和51年度には学習指導の目標として、「予習・復習の徹底」が掲げられ、各教科とも予習プリントや演習ノートを用意して、生徒の学習意欲を引き出すように努力した。この動きは現在にも引き継がれている。
昭和37年10月に発刊された故寺部だい先生の自伝「おもいでぐさ」は、本校の教育の原点として、あらゆる場で活用されてきた。発刊から10年以上も経過し在庫も底をつき、内容的にも一部誤りを正したい箇所もあって、50年11月に再刊されることになった。その年の創立記念日前に在校生全員に配布され、以後、毎年新入生全員に頒布され続けている。
昭和50年頃の新聞は、連日のように女子高校生売春、スケバンのリンチ事件、集団万引、不純異性交遊などについて報じていた。
非行の低学年化とグループ化の傾向が強く、これに対処するためには、学級組任が力量をつけ、お互いに協力態勢をとることが必要不可欠になってきた。そこで、昭和51年度から同一学年を2~3クラスずつのチームに分け、同一チームの担任がお互いに連携協力して生徒指導に当ることになった。
また、クラス運営の上で、成績の比較的良い生徒に全く指導力がないという傾向が顕著になり、各学年担任会でリーダー養成の必要が叫ばれるようになった。いくつかのクラスで、班活動を試みたり、父母との提携を強めるために学級通信を発行する動きが現われてきた。
昭和50年度の修学旅行は、北九州班と南九州班とに分け、それぞれ長崎と鹿児島でグループ別自由見学をさせる方法で実施した。その翌年から再び北九州一本にしぼられた。この年から修学旅行の時期を従来の2年の11月から3月に移し、新しい試みを加味することになった。長崎を拠点とする集中的なグループ見学方式の採用である。長崎に連泊して、最初の半日は全体で集団見学を行ない、後の一日は終日、クラスを7、8班に分けた小グループごとに、それぞれの事前計画に基づいて自由に見学するのである。生徒は道に迷いながら、電車やバスを乗り継いで目的地を求める。そこで長崎の人々の人情にも触れる。昭和52年9月1日付安城学園女子短期大学附属高校新聞の記事に「第1日目安城から博多そして嬉野へ、第2日目は嬉野温泉から長崎へ。そして修学旅行も半ば過ぎた第3日目長崎市内の自由見学が行なわれました。私たちは、バスで途中まで送ってもらってから、自由見学がはじまりました。事前研究で調べたことなどを参考にして、何も分らない長崎の市内を地図をたよりにして、または、町の人たちや交番に立ち寄って聞いたりして、いろいろと実際に目で見、触れて来ました。たとえば、『産業・南蛮コース』では、高島秋帆邸跡から花月引田屋、カステラで有名な福砂屋そして唐人屋敷、出島、オランダ坂、グラバー園といった具合です。また、長崎で忘れてはならないのはなんといっても『原爆コース』です。このコースには、坂本国際墓地から一本足の鳥居、国際文化会館、原爆中心地、平和公園、如己堂、浦上天主堂などがあります。いま一番心に焼きついているのは、国際文化会館で見たあのとても悲惨なそしてとても残酷な遺物や写真などの資料です。…この長崎市内見学で感じたこと、それは長崎の人たちがみんなやさしい人たちばかりだということと、自分たちで研究し合い、実際に自分の足でたどり、目で見たことがとてもよい勉強になり、よい思い出の1ページを飾ることになったということです。」と生徒がその感想を述べている。この長崎拠点集中見学方式は、年々改善され肉付けされて現在に至っている。
昭和53年度の学園祭は、それまでのマンネリ化批判を一掃して、新機軸を打ち出すために意欲的に取り組まれた。「学園生としての自覚と誇りを全員のものとするためのステップを」を合言葉に、初めて具体的な基本方針と、それに基づく活動方針が決定された。
学園祭統一テーマ
昭和50年度 「つどい築こう!協力の輪のもとに」
〃 51年度 「示せ!若者の力の限りを」
〃 52年度 「生かせ!みなぎる力 汲みとれ!こころの糧」
〃 53年度 「あらわせ!努力と成果」
基本方針
学園祭の意義をしっかりつかみ高校生としてのみずみずしい創造力をエネルギッシュに追求しよう。
1 教室(授業)以外での総合的な学習の場にしよう。
2 クラス、クラブが今抱えている問題点を集中的な準備活動の中で克服しよう。
3 高校生としての創意工夫に満ちた創造力を発揮しよう。
4 地域への理解と浸透を深めよう。
このような基本方針を徹底させ、基本方針に照し合わせた企画と運営を活動方針として学園祭が実施された。従来諸般の事情から見合わせていた一般公開が、条件付きながら実施されるようになった。この年の学園祭には創作活動の「郷土研究部門」で三河万歳を研究していた生徒2名が、地元の保存会の人達と共演して実際に三河万歳を披露したり、「子供と遊び部門」の生徒が、その研究の成果を地域の子供達との遊びの中で発揮したりした。
昭和50年度の学園祭以来、PTAも積極的に参加するようになり、展示会場の一角にPTAコーナーが設けられ、バラエティに富んだ保護者の作品が展示され、生徒の関心を呼ぶようになった。
昭和49年に5年ぶりの国体出場に気を吐いたソフトボールクラブは、50年度全日本高校総体において、みごと優勝の宿願を達成した。ソフトボールクラブの全日本高校総体優勝はこれが初めてで、長いクラブの歴史に一大金字塔を打ち立てたのである。
インターハイ優勝をふり返って 榊原節子
(ソフトクラブOG昭和50年度卒)
ギラギラ照りつける太陽、騒騒しく鳴くセミの声、毎年夏の季節を迎えるたびに、私は今更のように胸の痛くなるほどの感激にひたるのです。あれは8月5日、山梨県の富士吉田市………
その日は朝から風もなく、ぬけるような青い空の下、優勝戦という特殊な雰囲気が肉体的にも精神的にも疲れきっている私達を縛り、いつもと違う自分がいるような気がしたものでした。そんな中でスタートしたゲームでしたから、なかなか自分達のペースがつかめず、6回7回と回を重ね、とうとう延長戦へ、先頭打者が出塁し、そのあとの2人が送りバントでツーアウト3塁、とにかくこのチャンスをものにし早く楽になりたいという思いが通じたのか、1番打者の打ったボールが大きくバウンドし3遊間を抜けるヒット、その瞬間私達は3塁ランナーをホームに迎えたのでした。「ゲームセット」ボーッとする頭の中で、その言葉だけがやけに大きく響き、ベンチにもどると応援して下さった先生方やチームメイトの顔がかすみ、体中の力が抜けていくようでした。
思えば苦しい事ばかりの毎日だったような気がします。朝早くから夜遅くまでのきびしい練習、そして家にも帰れずチームメイトとの寮生活、いいかげんイヤ気がさし、もうやめたいと何度思った事か、でも良かった、本当に良かった。この時ほどソフトボールをしていて良かったと思った時はありませんでした。
あれから6年
私にとって悲しい出来事もありました。父の死、そして学生時代とは違った暮らしの中に身をおいてみて、貴重な、そしてみのりの多かった日々を想い出しています。
私はソフトボールというスポーツを通じ、いろいろな事を学んだような気がします。例えば努力するという事、結果が良くても悪くても努力さえすればその過程で自分にプラスになる何かが生まれるのではないのでしょうか。私はあの時の努力が自分自身を1まわりも2まわりも大きくしてくれたのだと思っています。そしてほんの少しですがわかったような気がします。人間とは何か、人間であるためにはどのように生きてゆけば良いのかと…。
休みになると、私は今でも友達とチームを作りソフトボールを楽しんでいます。たぶんこれだけは結婚しても続くのではないかと思っています。そう、生活の一部として。
昭和51・52の両年ソフトボールクラブ、バスケットボールクラブが共に全日本高校総体に出場した。昭和52年度には、ハンドボールクラブが西三大会新人戦で初優勝して県大会に出場した。陸上クラブは市川浩美が県大会で走高跳第3位に入賞し、バドミントンクラブもダブルスで県大会出場を果した。
文化クラブでは、演劇クラブが中部日本大会に「無窮花の花が咲くとき」を演じて中日賞に輝いた。この演劇クラブの活躍は各方面から注目され、CBCラジオの「おはようCBC」で紹介されたばかりでなく、53年度には碧南東中学校に、翌年には岡崎市福岡中学校にそれぞれ招かれて公演した。
昭和51年8月には、体育館と本館、南館(旧短大校舎)を結ぶアーケード(体育館上空渡り廊下)が完成した。体育館は四方を市道に囲まれ、生徒移動の際にもいろいろ問題が生じていたので、その解決をはかって設けられたものである。これで雨天時の体育館への移動にも傘は不要となった。
昭和52年1月、本館東側に1階から4階まで1教室ずつを積み上げる増築工事と、北館東側に1階タイプ室、2階音楽室を増築する工事とが同時に竣工した。生徒数の増加に応え、施設・設備の充実をはかるためのもので、本館・北館ともに、増築工事の中に便所の増設が含まれている。
昭和50年の9月から10月にかけて、林昌弘校長補佐(当時)は、県私学協会による教員海外研修の一員として、約3週間に亘ってヨーロッパ各地の教育事情を視察した。
昭和53年4月、附属高校の校長に元刈谷高校長の富田太先生が迎えられた。これによって寺部清毅先生は、理事長職と大学・短大学長職に専念されることになった。また、この年11月に行なわれた、県私学協会設立30周年記念式典で、寺部清毅理事長、小川毅事務長、林昌弘校長補佐(当時)に、永年の私学教育振興の功績を称えて愛知県知事より感謝状が贈呈された。