第5節 さらに、発展・飛躍を目ざす

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昭和51年度をもって、本校の教育は、一応の見るべき成果をおさめたが、それ以降も、さらに飛躍を目ざして、種々の施策と活動が続けられた。

(1)施設・設備の整備すすむ
昭和52年9月で、創立15周年を迎えたのを機に記念事業として、校内の環境が一段と整備された。「憩の広場」をつくり、自転車置場・はき物置場等の改修整備をし、理科棟南その他の舗装、PTA役員諸氏による中央棟前の植樹、同窓会による武道場横の植樹、希望の強かったグランドの照明、体育館その他の塗装、校庭排水改修工事等がそれである。

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本校教育の充実進展の一大飛躍を期して、総合教育棟(図書室、視聴覚室、柔道場、アリーナ、102名収容の宿泊施設、食堂等を含む)、およびプールが昭和53年11月25日に完成した。当時の生徒の一番の希望はプールの完成であった。学習活動、クラブの育成には是非とも宿泊施設がほしかった。従って、総合教育棟の完成のよろこびは1しおであった。宿泊施設はそのほか、新入生のオリエンテーションにも利用され、年間の利用度は非常に高い。この総合教育棟の活用による教育の成果・向上は測り知れないものがある。この総合教育棟の完成を記念してPTA役員有志により庭園が、矧友会有志によって庭樹が贈られた。庭園は理科棟とプールの間に芝生を中心として作られ、植樹はグランドとの境に行われた。

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昭和54年度の1年生が623名入学して全校生徒数1,720名となり、教室が窮屈となった。従来小教室(27名)、中教室(36名)での教育効果が確かめられており、また選択授業での必要から、中教室3、普通教室2の5教室が3階建で新築された。床面積約496平方米。昭和54年11月20日の竣工であった。

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(2)教育内容の充実と成果
高校生にとって、読書によるさまざまな人生や思想との出合いから、自己の考え方を深化発展させることは、「男子一生の基礎づくり」の観点からも重要な意味を持つ筈である。しかし、現実に生徒の読書の範囲は狭く量もあまり多くない。そこで少々強引だと思われたが、従来の読書指導ではなく「読んだ方がいいと考えられる本、読ませたい本をどうしても読ませてしまう」という試みが、53年度から実施された。

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まず、図書の選択にあたっては、本物のみがもつ美があり、人生・人間、男の生き方を考えさせ、さらに考え方を深化させ得るものとした。また、月1冊のペースで無理なく読了できる分量であり、展開に起伏があり感動的なものであることに留意し、難易度によって3段階に分けた。そして、どれも50冊ずつ用意し、生徒には、「読書ノート」をつけさせるという方法をとったのである。学校行事等で欠ける月もあるが、在学中3年間で20冊くらいは読了している。

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昭和54年4月から「オリエンテーション合宿」が始った。それ以前にも、新入生指導は行われていたが、期間が長びき、また一斉指導であったために、主旨の徹底を欠くきらいがあった。そこで、指導期間を短縮し、入学当初の新鮮な気特を失わないうちに、集中的かつ徹底した指導を行おうとしたのである。これが、「オリエンテーション合宿」を始めた基本的な考え方である。この合宿は、入学式が済んだ2~3日後より本校総合教育棟で2学級毎に、2泊3日で実施し、4月下旬に終了する。また目標を、(1)本校の建学の精神を理解し、本校の特色、実情を知る。(2)中学校と高等学校の相違を認識し、高校生活の基礎を作る。(3)集団意識を養う。と設定し、さらにこの合宿が、より効果をあげうるようにということで「新入生手帳」を編集し、使用している。

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「生まれかわれ」
(前)学校長 鈴木修
今諸君は義務教育を終わって、自らの意志で向上を期して本校へ入学をした。チャンスの全条件が揃ったときである。この時がチャンスでなかったら何時チャンスがあるのであろうか、まさに生まれかわる時である。「よしっ、やるぞ」と覚悟して生れ変ったように精神が大飛躍をする時である。これを「初心」という。「初心忘るべからず」という世阿弥の名言も、初心が無いのでは何にもならない。世阿弥は又、「時々、初心忘るべからず」という。諸君の本校3ヶ年間、嬉しくてたまらない時、悔し涙が出てどうにもならない時、或は学年始め、年の始め、よーしと覚悟を新たにする機会はたくさんある。即ち時々初心忘るべからずであるが、そのすべての出発点が入学の今、この瞬間なのである。この瞬間が諸君の一生を決めてしまう、といっても決して過言ではない。初心の大チャンスである。生れかわれ、断じて生まれかわれ、そして、つぎの実践目標にとりかかれ。即ち諸君は、栄光の男子の一生へ堂々と第一歩をふみ出すのである。
(54年度「新入生手帳」より抜すい)

合宿の内容は、学校長の訓話から始まり、学習指導、進路指導、生活指導のオリエンテーション、校歌指導、本校最大の行事である夏山合宿の記録映画観賞、さらに夜は、教師5人が宿泊し、自習時間で各教科の学習方法等の指導を行う。
結果として、教師側では、寝食をともにすることにより早く生徒の性格・実態等をつかむことができ、また生徒にとっては、友達ができ、教育方針や学校の様子を知り、心構えを新たにすることができる。少人数の宿泊により、指導内容がかなり徹底できるようになった。
この頃になると、学習指導、進路指導、生活指導、クラブ活動等の成果が、はっきりとあらわれてきたが、その一つの事例として、欠席の減少という状況が目に見えてきた。昭和44年度の欠席状況をみると、3年生で一人あたり年間7日あまりであり、いかにも多かった。上級生ともなれば自覚も高まり、建学の精神の体得もできていなくてはならない筈なのに、それが逆になっていて、1・2年生よりも多いというのはまことに残念である。そこで教員の指導意欲の高揚をはかり、種々の統計、医師の意見もきいた上で、年間一人平均欠席4日という、極めてゆるい目標をたてて指導に入った。毎月の欠席率を記録するチェック方法をとり、毎学期末に全体に公表して、全校一致して目標達成に努力した。その結果、51年度には、殆ど全クラスで4日以内となり、1年より2年、2年より3年の方が欠席が少なくなった。53年度には、各学年とも平均が、51年度の半分にまで減少し、特に3年では0.9という数値を示し(年間平均一日も休んでいないことになる)中には、年間欠席ゼロという学級もあった程である。
昭和45年に始まった夏山合宿も、晴あり、雨あり、雷ありで、1年として同じ状況になかった。全行程を晴天に恵まれたこともあれば、雨で山頂を極めることが出来ずに、無念の涙をのんだグループもあった。しかし、その間にも年々検討を加え充実の度を増してきた。52年には、NHKが密着取材を行い、7月末の朝7時20分から15分間、全国ネットワークでテレビ放映をした。テレビリポート「飛躍する夏」の中で、「山嶺への挑戦-北アルプス穂高-」と題するものであった。生徒達の荒い息づかいまで伝えるものであり、美しい画面と共に、全国に、さわやかな涼風を送った。環境を破壊しない、汚さないことを指導のポイントとしており、近年では、「城西高校が山へ来ると山が以前よりきれいになる」という風評がたつまでになり、環境庁表彰という動きも出た程である。いずれにしても、3年生は、この行事のすばらしさを体験すると共に、教師の、『男の仕事に対する真剣な姿』をくみとっていくのである。

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「槍ヶ岳登頂」
17回生 服部信彦
ギュッ、鉄ばしごを握る手に思わず力が入る。あと少しで項上だ。最後の岩に手を掛け、ぐっと身を乗り出した。目の前が真白になり、一瞬、雲の中にのみ込まれたような気がした。しっかり足を踏みしめ、立上がった。今、ぼくは、3,180米を征服したのだ。
7月15日、午後10時に城西高校を出発し、ここ槍ヶ岳の頂上を3日目できわめることが出来た。山頂に立って、下の景色を眺めると、その壮大さに思わず言葉を失ってしまった。みんな、しばらくは声も出さなかった。絶え間なく流れる白い雲の上に、北アルプスの山々が、その項を覗かせている。大きく息を吸込むと、冷たい空気が体中に広がり、心が洗われるような気がする。この雄大な自然の中にいると、下界のごみごみした喧騒など忘れてしまう。ぼくという一人の人間と、山という自然が一対一で語り合えるような気がして、改めて自己を認識させられ、存在感のようなものが湧いてくる。今、ぼく達は、子供から大人への過渡期にいる。その大切な時期に雄大な自然と接することができたことは、これからの人生に大きなプラスとなると確信する。ぼくはまたここへ来たいと思う。下界から逃げ出してくるのではなく、自分というものを確かめるために。

昭和50年頃から、市内、近隣に公立普通科高校が新設された影響をうけて、やや不振であった進学実績も、地道な指導を続けた結果、55年度卒業生においては、見るべき成果を生んだのである。大学では、国公立大12名をはじめ、早稲田大(3名)など東京6大学や有名難関とされる私立大へも301名が合格した。特筆されるべきは、第一に、クラブ活動を3年間続けて、しかも現役で合格した者がかなりの数出たということである。(早大の1名もそうであった。)第二には、本校入学時の学力を大きく伸ばしての合格であるということである。例えば、国立大合格者の中にも、中学3年時の評定平均値が3に達しない者がかなりおり、中には2に近い者もいたのである。また、第三には、推薦入試で、100名を越す者が合格したことである。以前は書類審査だけで合否が決る場合が多かったが、最近は、ほとんどの大学で、小論文、面接のほか、教科の試験を行い、しかも、過去のその学校からの推薦入学者の追跡調査を重要な参考資料としている。倍率も2ないし3倍と厳しくなってきた。その中での100名合格だけに喜びも1しおであった。本人たちの努力もさることながら、卒業生たちが、それぞれの大学で活躍しその評価を高めていることを実感としてつかみ得たことは、大きな収穫であった。

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この頃になると、運動部の活躍は目ざましいものがあり、西三河大会では、優勝することが常識に思われるほど高いレベルに達した。サッカー部、陸上部、軟式庭球部などは、全国大会にも常連として出場するなど、本校の名も全国的に著名になってきた。この成果は、他の生徒の意気を高め、クラブ活動だけでなく、何ごとによらず努力すれば、必らず成果を勝ちとることができるとの自信を生み出すようになったのである。

昭和53年には、高校総体全国大会(松江市)で、バスケットボール部が東京代表で優勝候補の明大中野高と対戦し、小差で敗れる活躍があった。この年、サッカー部で1名、剣道部で1名が青森国体に出場した。
翌53年には、サッカー部が総体全国大会と長野国体(6名)で活躍したのを始め、陸上部が総体全国大会で1500米と5000米に1年生の赤堀正司が健闘したが、入賞は逸した。また、スケートの長坂宏が、総体全国大会、国体出場についで、スピードスケート世界選手権大会(於英国)の桧舞台で、1500米に第4位の入賞を果した。
つぎの54年度には、前年同様3部が総体全国大会に出場した。サッカー部は、全国ベスト8と一段と好成績を残した。陸上部も八巻尚良が1500米、1500米障害で健闘、その根性は他の生徒の模範となった。軟式庭球部は、県大会で優勝して全国大会に臨んだが、善戦むなしく、青森代表八戸工大一高に敗れた。この年には、実力をつけてきたハンドボール部の3名が宮崎国体で健闘した。

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55年度の運動部の活躍は、まことに目を見はるものがあり、本校の名が全国にとどろいた年であった。まずサッカー部は、全員守備、全員攻撃で、昨年に続き、全国総体でベスト8となったが、優勝候補の浦和南高に快勝したことは、全国に城西サッカーの存在を認識させた。また、栃木国体に、4名の代表を送った。陸上部では、山本久義が、総体全国大会で100米に出場し10秒98で第4位に入賞した。さらに、栃木国体では、100米、10秒84の好タイムで全国初優勝という偉業をなしとげた。また、彼は、日本・中国ジュニア大会100米で優勝、ジュニアオリンピックにも200米に出場という快挙をなしとげ、学校あげての拍手をあびた。この年度の正月には、サッカー部は全国高校選手権大会で、強豪を破って遂に第3位の輝しい成績をあげた。この時、大多数の生徒はテレビで応援したが、現地へも毎日応援バスを送った。国立競技場での準決勝戦には、岡崎市の助役はじめ議員各位、安城学園理事長の応援もあり、選手、応援団とも燃えに燃えたのであった。この時、応援部と吹奏楽部の献身的な応援が衆目を集めた。
2回戦 城西4対1東福岡(福岡)
3回戦 城西2対0鹿児島実(鹿児島)
4回戦 城西2対0八千代松陰(千葉)
準決勝戦 城西0対1清水東(静岡)

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