第1節 教育理念の浸透 ―修養団との関連―

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修養団の精神が本校の生徒指導の根幹になったのは大正11年のころからである。農民道を唱え農村教育の先覚者であった山崎延吉先生は、すでに大正8年5月修養団の愛知県支部が結成されると同時にその支部長となりその精神の発揚に努めていた。愛知県農林学校(現安城農林高校)の卒業生で山崎先生の愛弟子の、碧海郡依佐美村(現刈谷市野田)に住んでいた稲垣稔氏は、つとに修養団の精神に共鳴し、農村啓発と農民教育の上にそれを活かそうとしていた。そのため依佐美村の有志とはかって向上社(大正12年9月清明社と改称)を結成し、山崎先生を主宰として大正11年3月機関紙『清明心』を創刊したのである。その頃、安城女子職業学校の林庸次郎先生が稲垣氏を訪れ、修養団に関する講演を依頼した。稲垣氏は、同志で体操を指導する高井銈治氏(当時安城尋常小学校教諭)と共に2度ほど本校へ講演に来たと語っている。校主寺部三蔵先生は修養団の精神に深く感ずるところがあり、以後極めて積極的に修養精神の鼓吹に力を注ぐようになった。『清明心』が創刊後、まだ日も浅く、そのため購読者が少なく財政的にも苦しんでいるのを知って、本校生徒に定期購読を奨励した。その上、『清明心』の編集方法についても助言をし、印刷所を世話し、時には財政的な援助を惜しまなかった。こうした機縁で、本校と修養団との結びつきは強まっていったのである。

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大正12年8月、修養団愛知県支部主催の「農村文化講習会」が依佐美村で開かれることになった。その時、この種の活動では全国ではじめての試みとして女子部を開設した。三蔵先生から職業学校の生徒を参加させてもよい旨の申出がなされたが、女子部そのものが最初の試みではあるし、男女とも、宿舎こそ異なるとはいえ1週間の合宿を行うことでもあるので実現はしなかった。しかし、三蔵先生は、すすんでこの講習会に参加し、稲垣氏宅に宿泊して女子部の活動をつぶさに視察したのである。これ以後、本校は独自に修養団活動を、生徒指導の中に組み込むようになり、とくに寄宿生は強くその影響下におかれることになった。
女子部の講習内容には、食生活改善をねらって割烹講習が加えられ、その講師として寺田幸次郎氏が招ねかれていた。その後、寺田式割烹法は本校の割烹授業にもとり入れられたらしく、大正15年3月裁縫師範科を卒業した佐野ユクヱ(旧姓石川)さん所蔵の職業学校時代の教科書、教材類の中から、「裁師2年石川ユクヱ」と記された『寺田式炊事法』(写真)が発見された。

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修養団は明治39年、蓮沼門三氏の提唱によって結成された精神運動作興のための結社である。「流汗鍛錬・同胞相愛」をスローガンに掲げており、日露戦争後の産業の大発展期と、国民教育の高揚期にあって、あるいは労務管理に、あるいは生徒指導に、その精神が大いに活用されていたのである。
蓮沼門三氏は『清明心』創刊号に寄せた「生くるの二大信条」と題する一文のなかで「何をか流汗鍛錬主義と云ふ、天意を畏みて好く手を労し、好く此の足を労し、善く此の心を労して清き汗を流し、以て己が職分を果し真修養工夫を励む。これこれを流汗鍛錬主義の実行と云ふなり。流汗鍛錬主義の実行は己を完くして身に清福慰安を受くるの大道なり」と述べている。また「同胞相愛主義」については、自分も他人も共に等しく天地の懐に抱かれて、社会に恩恵を得て生活している同胞であることを自覚し、「己の清福と慰安とを希ふ如く、人も亦凡て希ふものなることを思ひ、人にも清福と慰安とを得しめんと心力を盡す」ことであると説明している。
この精神を、日常活動に活用するために敷衍したハンドブックが、小林一郎氏の手になる『こころの力』である。本校では、大正12年の頃から、これを始業前に、代表が交替で朗読し、そのあとに続けて2章ずつ唱和し、修養団歌を斉唱したのちに、その日の日課を始めるようになったのである。
修養団の精神は、本学園の創設者がその苦難時代に体得した「真心・努力・奉仕・感謝」の精神と深く結びつくものがあり、あい補い、あい助けて本学園の生徒指導に位置づけられたということができよう。

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