第6節 東京より榊原先生を迎える

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明治45年4月、裁縫女学校開設当時の先生方と、その科目は、左表のようであった。
(上記図版「裁縫女学校開設当時の先生方と科目」参照)

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校長のだい先生が、本科、専修科の裁縫をすべて受け持ち、礼法も週に1回位ずつ教えられた。安藤先生、山口先生も週に1回位ずつ出校されて、それぞれの科目を教えられた。

安藤現慶先生
明治16年生まれで、当時30才前後であった。東京の真宗大学(浄土真宗)を中退されて、生家の安城町赤松の本楽寺の住職になられる。昭和29年1月、72才で亡くなられた。

山口英信先生
明治10年生まれで、当時35才前後。華道は、池ノ坊の師範であり、茶道は、宗偏流を修められていた。安城町赤塚の了雲院の住職であり、お寺で、町内の希望者に茶華道を教えられており、現在も安城市内には、山口先生のお弟子さんが多勢おられる。昭和35年4月、亡くなられた。

大正3年頃から、だい先生の御主人の校主寺部三蔵先生も、教壇に立たれるようになり、修身を中心に、後には国語、算術なども教えられたが、修身は相当にむずかしい授業であったようである。
生徒数も、大正3年度末で96名、5学級(『碧海郡誌』による)となり、教室も、第1校舎・第2校舎・第3校舎と分れ、科も、本科・専修科で、細目による生徒個人の進度も違う。こうなると、これまでのようにだい先生が一手に切り回す、という事が困難になった。だい先生の片腕となって、裁縫を専門に教えられる先生が必要となった。

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こうして、だい先生の母校である東京の渡辺裁縫女学校の師範科からお迎えしたのが、榊原きそ先生である。裁縫の他に、珠算がお得意であったらしく、珠算も教えられたようである。先生は、三重県の伊勢の出身で、数年後、当時の刈谷中学校の体育教師であった中西先生と結婚されたが、大正12年に、出産の後病死されたようである。(原田トキ、小林タニさんによる)
これらの先生方の他に、大正元年から大正5・6年頃までの間に、学校の卒業生で、教生としてだい先生の裁縫の助手をしていた人に、次の人達がいた。

本多レイ(大正元年、裁縫女学校専修科卒)
石川ぎん(大正元年、裁縫女学校専修科卒)
清水マキ(大正2年、裁縫女学校本科卒)
寺部トキ(大正4年、裁縫女学校本科卒)
長谷部うめ(大正4年、裁縫女学校本科卒)

校長先生・校主先生の思い出 原田トキ
(旧姓鳥居・寺部。大正4年、裁縫女学校本科卒)

校長・寺部だい先生

園長先生は、礼儀正しく親切で、温和であらせられましたので、常に私達生徒の敬意のまとでした。又、新聞雑誌等で得られた知識、これはよいとお考えになった事は、すぐさま実行に移す園長先生でした。人に接しては、笑顔で好感を与えられ、実に奥ゆかしい所の持ち主でありました。
大正4年頃は、「おもいでぐさ」にもあります通り、学校経営の非常に苦しい時期でした。此の苦難をのり越えるために、口外にはお出しになりませんでしたが、自分の持ち物で目ぼしい品は全部質入れして、学校の資金に廻され、冬になりましても袷長着1枚もなく、夏の単衣長着をといて色あげし、裾の廻りに15センチ位裾廻しをつけて仕立てた物を、着ていらっしゃいました。この着物は急ぎましたので、私が縫って差し上げました。出来上った次の朝、その着物に海老茶の袴で教室に入っていらっしゃいました時、色白でよく着物と袴との調和がとれ、美しかったこと、今だに記憶しています。御子様の着物は、袖身頃衽衿を別布ではぎ合せて仕立てたものを、着せていらっしゃいました。
教室におきましては、持ち物は大切に取り扱うよう、きびしく躾をして下さいました。「針一本でも生きていると考え、粗末にしてはなりませんぞ」と。又「人に糸針、尺度等拝借した時は、必ず御礼を申し上げ、御返しするという事を忘れないようになさい。常に感謝の気持ちを忘れてはなりませんよ」と御導き下さいました。
園長先生は、私達に対し、実力養成に力を入れていらっしゃいました当時、安城市の呉服店の仕立物全部を学校で仕上げました。そのために、学校では時々早縫い競争を致し、美しく短時間で仕上げることのできる様、力を入れて下さいました。早縫いの時は、針箱の置き場所、鋏、へら、尺度、糸の置き場所など、手近かな所に置いてすぐ使えるように、此処では時間の大切なことを御指導下さいました。
入学の時、一人ひとりに渡された細目、「これを全部仕上げた時が卒業ですよ」と申されましたので、私達は日夜細目消しに一生懸命でした。実物で材料の整わない物は、6分の1で作り方の指導を受けました。園長先生の時間の許す限り、御子様を背にしていらっしゃる間でも、御指導をお受け致しました。よくあんなにまでお骨折りをかけなくてはすまなかったものかと、今考えます時、その有難さに涙が出ます。ですから、卒業生は、相当の実力をもって社会に出、活躍致しましたので、「女の子ならば、寺部女学校に入学させて置けば心配ない」と言われる様にまで、人々の間に信用されるようになりました。
これも皆、園長先生の生徒に対する愛の如何に大きいものであつたか、ただただ感謝の外ありません。

寺部三蔵先生

寺部だい先生の御主人であらせられ、後日理事長となられました。私達は校主先生とお呼び致して居りました。明治45年4月、裁縫女学校開校、その時の入学者数30名、3年目には50名となりました。当時、学校としては一番苦難の時期であったと思いますが、私達生徒にとりましては、入学致し喜んで、これから此の学校で力1っぱい勉強しようと思って、通学し始めました。学校には、校主先生、校長先生、校長先生の御母上様、長男清様、次男清毅様、長女二三子様、三男清行様の7人暮しで、女中もなければ小使いもない、校主・校長先生は、目の廻るようなお忙しい毎日のようでした。
私達、早目に登校した時など、校主先生は子供を背に、ごほうきを手に、お庭の掃除、食事の用意、乳呑児の世話、おしめの洗濯等、度々なさっていらっしゃる処をお見受け致しました。当時、校主先生のお働きぶりには只々感心の外ありませんでした。御存じないお方は、「あの掃除して居られる人は、学校の小使いさんですか」と尋ねられることもしばしばありました。
生徒数50名以上になりましてからは、校長先生お一人では無理なので、校主先生は、校長先生の母校の師範科卒業の榊原きそ先生をお迎えになりました。美しい元気のよい先生で、裁縫と珠算の受持ちとなられました。生徒達もよく勉強致しました。
校主先生は、初めは修身を担当なさるだけでしたが、理事長になられましてからは、真剣に取り組みなさるようになり、会計等も御自分の手でなさるようになりました。この頃の校主先生の事務宅は、実によく整理整頓されて居り、入った人は皆声を揃えて美しさに感心しました。又、校主先生は、言行一致でなければならない、と常に申されて居られました。実行するようにと、人と面談の時間なども、5分と決めて居られ、初めは少しは困難なさったようでしたが、後には来客の方から、実行なさるようになった、といったこともありました。

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