第5節 入学から卒業まで

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大正初年の、安城地方の女子教育については「一般の教育日を追ひて普及するに至りしも、尚土地の状況慣習上女子教育を軽視するの風止まず、義務教育の延長せらるゝや困難を訴へ、学令中製糸工女たらしめんとするもの、家事の手伝を為さしめんとするものありて、当時者勤誘に努むる所あるも遺憾の点少からず。併し裁縫に至りては慣習上万事を排し、針師匠に就き之を修むる者多し。近来裁縫学校及高等小学校に於ける補習科の設置に伴い漸次其数を増加するの勢なりしが…」(『安城町誌』女子教育の項より)という状況であったので、学校への入学者は、経済的にも或程度恵まれた農家又は商家の子女で、向学心に燃え、家庭の理解のある人であったであろう。
これについては、学校に残っている最も古い卒業台帳によると、大正2年1月から大正3年3月までの13名について、住所、保護者名と共に簡単に職業が記してあるが、それによると、10名が農、3名が商とあり、全員が平民と書かれている。どの程度の規模の農家、商家であったのかは、全く不明である。

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入学に至る動機については、「知り合いの人が塾へ通っており、間もなく学校に昇格する、という話を聞いて」とか、「親も本人も“女の道”だから、しっかりやっておかねばと思って」「人に聞いて、女として針事が達者になりたかった」「近くの生徒の様子を、祖父が見聞きして、祖父からすすめられ」といった動機が多い中で、だい先生、校主先生が家庭訪問されて勧誘され、「女に知恵をつける必要はない」と親戚が反対する中で、父が「学問をするのは若いうちだ」と許してくれた、という人もあった。
こうした入学希望者に対し、入学試験はなく、適時入学し、後述の細目に従って個人学習で、裁縫中心の授業が進められていった。
学校の校風、ないし教育方針としては、“女性の能力開発”“質素倹約”“真心”といったことで、校長がすべて率先垂範であった。裁縫技術については特に厳しく、清掃、整頓も徹底して行なわれ、言葉づかいや登下校時の挨拶も注意された。このような厳しく徹底した教育方針は、当時としては当然ながら、父兄からの支持を得ていた。
履習すべき科目としては、裁縫の他には、本科では家事・礼法・修身・国語を、専修科では礼法を、週に1時間位ずつ学習した。又希望者には、茶道と華道が教えられた。これ以外の時間はすべて裁縫であった。
裁縫には、実習細目表があって、材料の得られる物は実物で、材料のない物は雛形(3分の1、6分の1縮尺等)で全部を完成する。細目に従って、各自必要に応じてだい先生や助手の教生(卒業生)の個人指導を受けながら作品を作り、先生の検閲を受ける。認められると、認印が押されて、次の作品に移れる。技術が少しでも不完全の場合は、最初から仕立て直しを命ぜられた。「この点は実に厳しかったが、指導態度は非常にやさしかった」と卒業生は言っているが、個人指導で徹底的に教えられた。このようにして細目を完了すると、卒業できるのである。従って、卒業の時期も一定しておらず、細目完了の卒業資格者が数人できると、まとめて卒業式を行なう、という状態であったようである。
この細目の作品数は、大正4年頃までは300余種あり、「針で縫う物は一切縫う、祭りのノボリから僧侶の衣まで」縫ったと卒業生は言っている。大正5年前後から少し変更されて、本科で166点位あったようで、十二単衣なども雛形で作った。この雛形には、廃物利用が非常に奨励されたそうである。

大正5年前後には、卒業資格も一部変更したようで、細目が終了した者に、卒業認定の実地試験が行なわれた。“和服単衣物を3時間で完成する”“重ね物が完全にできる”などであって、これに合格すると、卒業ができるのである。
このような訳で、生徒達は、うかうかしていたら1年(専修科)や2年(本科)では卒業できない。細目の作品消しに追われながら、実力養成のため学習意欲は旺盛で、寸暇を惜しんで自学自習した。「隣の生徒が教えられているのを横目で見ながら、自分で覚える」という事も度々であった。
この間に、短時間に一定の作品を仕上げるという早縫い競争も行なわれた。又、夏期休暇は、8月1日から20日頃までであったが、この間に、袋物、刺しゅうなどの手芸等各種の講習会が開かれ、参加者に修了証が渡された。

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和裁だけではなしに、この頃はまだほとんど流行していない、ミシンによる洋裁も行われた。ミシンは、まだ国産化されておらず、輸入品の時代であったが、学校には創設当時1台、その後1台増やして、この頃2台のシンガーミシンがあり、交代で使用して、簡単な縫い物をした。「この時にミシンを習ったことが、洋服屋へ嫁いで、一生涯役に立った」と喜んでいる卒業生も居るのである。
こうしただい先生の厳しく、熱心な教育を受けて、卒業していった人達が、どの位いたのかは正確には分らない。外からの資料でこれを見ると、『碧海郡誌』(大正5年10月15日発行)には、大正3年度末で、卒業生15名、生徒数96名、学級数5、と記録されている。又『安城町誌』(大正8年11月30日発行)には、創立以来の卒業生132名、生徒数124名となっている。

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