第2節 高等学校充実のあゆみ

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学制改革の嵐がおさまりを見せはじめた昭和20年代の終りには、安城学園の教育をいま一度、創立の原点にたちかえって考えなおすという努力がなされはじめた。女性の潜在能力を開発することなしに、男女のあいだの不平等を打破することは不可能で、女性の能力を開発していく過程においてのみ、豊かな人格を身につけた女性が創造できるという創立者の理念が再び強く安城学園教育の前面に押し出されることになった。

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このころより、全国的に徐々ではあったけれども高校への進学率が高まり、学園高校へ入学を希望する生徒の数も漸増をみせはじめた。このような量的変化は進学希望生の質的変化をもたらし、衣生活や食生活の合理的な管理技術修得だけを主な入学動機としない高校進学生の数が増えてきた。そこで昭和30年4月に、社会人としての教養の修得と大学進学のための基礎学力養成を目的に、普通科の募集が5年ぶりに再開され、53名の普通科第5回生が誕生した。

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昭和32年4月、愛知学芸大学岡崎分校の元主事であった渡辺平三郎先生が学園主事として迎えられ、一時募集を停止していた中学校が短期大学附属中学校として再開された。西三河において私立の中学校が育ち難いという地域性のうえに、生徒募集が時期的におそかったこともあって、入学生はわずか4名しかなかった。しかし、久々の中学校再開ということもあって先生方の熱意には並々ならぬものがあった。少人数のクラスであったことが幸して、個人個人を対象に、ゆきとどいた教育をするという学園伝統の教育が可能になり、基礎学力とくに語学に重点をおいて、個性の自発的伸長を促す4人への授業がはじまった。
当時、多くの短大生、高校生のあいだに混って学園生活を送っていた幼さの感じられる彼女等に対して好奇心と期待の入りまじった視線が注がれた。

昭和30年代に入ると、日本経済の目覚しい発展がみられたが、それにともない生産や消費に関連した職場が新しく生れたり、拡大されたりして、女性の職場は著しく増大していった。一方、女性の意識にも変革が起り、多くの女性が社会へ進出を求める風潮が見られるようになった。このような社会状況の変化に、いち早く対応するために、昭和32年には高校に商業科が新設された。もちろんこの科のカリキュラムには商業、経済に関連した科目が重点的に配置されたけれども、経済生活を通じて生活全般を合理的に営むための知的教養の修得にも十分留意されたことは学園商業科の大きな特色でもあった。その後、全国的に商業科への入学生に女子生徒の占める割合が増えたことを考えあわせると、学園商業科におかれたこの特色には、時代に先行きしたものが含まれていたといえよう。

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年々生徒数が増大していった学園高校は、昭和32年に、普通科、生活科、商業科、家庭科(別科)の4科を擁する西三河地方で唯一の総合学園高校になった。同時に、学園創立以来はじめて500余名という多数の新入生を迎えた。全国的な高校への進学率の高まりは、やがて短期大学、大学への進学率にも影響を与えていったが、高校から関係上位校である短大へ進む生徒数も増加していったので、かねてからの念願であった、中学、高校、短大という女子一貫教育を名実ともに明確にする必要性が生じた。それゆえ、昭和33年には高校の校名が“安城学園女子短期大学附属高等学校”と変更された。

昭和30年代は、生徒数が増加した時期であったばかりでなく、教職員の数とくに専任男子教員の数が増加した。昭和29年に専任教員15名中、男子教員は3、4名にすぎなかったのが、昭和32年には31名中16名に、昭和35年には50名中30名と急速に増加していった。当時、多くの分野の教育界で活躍しておられた先生をはじめ、全国の著名大学や大学院を新たに卒えられた多くの先生が迎えられ、各々の青春のエネルギーを学園教育に注ぎ込まれた先生の多くが、創立60周年を記念する現在の学園においてなお、著しい活躍をしておられることは特筆すべきことである。若い活発な先生の増加によって、学校の雰囲気は一変し活気が学園全体に満ちあふれ、老若をとわず、教師、生徒という立場を越えて共に学ぶ学園教育が展開されていった。
昭和30年ごろは、全国的に高校生の大学、短大への進学率はそれほどでなく、おりからの不況のため就職状況もおもわしくなかったので、とくに女子高校生において卒業後、家庭に入る人が多かった。しかし、昭和35年になるとこのような高校卒業生の進路状況は変化し、進学、就職者数がそれ以後急速な増加の一途をたどっていった。附属高校においても、昭和35年の統計によると、卒業生10人に一人の割合でしか家庭に入らないまでになった。2年制の家庭科卒業生においても卒業後就職を希望する者が増えていったため、家庭技能習熟に力を注いで、良き家庭婦人を育成することのみを主とした従来の家庭科教育の目的に加えて、社会人としての素養修得にも目を向ける強い必要性が生じた。また同時に女子中学卒業生10人中6人が高校へ進学する(昭和35年)というように、女性にあっても高校教育を卒えることが当り前といった社会傾向が顕著になっていった。
このような状況変化は、昭和37年、2年制の別科家庭科を普通高校の家庭科へと衣がえさせることになり、この年の別科修了生は全員新設家庭科の3年生に編入した。一方、生活科は現在の高校制度において、普通科の中の家庭科目選択コースに近い教育課程をもっていたため、普通科の範ちゅうに入るべき運命にあったが、家庭科のこのような変貌によって両科の教科上の境界も曖昧になってしまったので、昭和41年には生活科が廃止され、普通科の第2コースとして発足することになった。

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普通科の生徒数が急増した昭和38年から、附属高校の教科、生活指導は変換期を迎えることになった。生徒の実力育成を目指して、英・国・数など基礎学科の授業の充実がはかられ、月テストなど学園高校独自の試験制度が設けられたり、年間を通じての課外補習授業もはじめられ、教育環境の一層の整備とあいまって、教科指導の体制確立に力点がおかれるようになった。高校への進学率の上昇が80%を越え、生徒の能力、適性進路などが多様化してきた時点で、個人の能力や可能性を無視した画1化教育の弊害を除くため、特別相談室の設置や特別補習授業が行われ、個別学習の機会が設けられた。
昭和39年の東京オリンピック開催以来、世界に目を向けるだけでなく世界に向って行動する日本人が必要であるという客観的認識が一般化していったが、英語に対する単位数の増加、英語フレーズの日常的使用、英語スピーチ、コンクールの開催など英語科の強化が図られた。
昭和39年、アメリカ、イリノイ州の州都スプリングフィールドの近く、ディケーターにあるジョオンズヒル、ジュニア・ハイスクールと姉妹校になった。これは芦田美恵子先生と先生の友人で、ジョオンズヒルで美術を担当しているミセス・ラシリィとの「虹の友情」の手紙が契機になったもので、手紙・テープによる声のメッセージ、絵画や手芸作品などの交換がおこなわれた。このような、両校生徒の文化交流が盛んにおこなわれ、両校の友情関係は芦田美恵子・故寺部二三子両先生をはじめ全校あげての努力で、交換生徒を姉妹校へ派遣するまでに発展していった。昭和41年8月23日より3ヵ月にわたって、金田佳子・水藤恭子・杉本雅子・谷山信子の4生徒が、芦田先生の引卒のもとジョオンズヒルでの学園生活を経験した。この出来事は、彼女らの人間的成長を予期以上のものにしたと同時に、安城学園の活動を一層活発にしてゆくのに大いに寄与した。

姉妹校ジョオンズヒルへの留学について
芦田美恵子(当時附高英語担当・前名古屋大学学長夫人)

この度は学園の60周年をお迎えになりましたこと、心より御祝い申上げます。
その間の、ほんの1出来事かとも思います。昭和41年8月23日に羽田を発ち、11月28日に羽田に着くまでの、たった3ヵ月の期間に過ぎないものでしたが、これを実行するまでには、先ず故寺部二三子先生の、昔から抱いておられた海外発展への「夢」があり、それを実行に移された決断力と、それに同意され後援された先生方の御力があったと思われます。と同時に、私の親友でもあるジョオンズヒルの先生――ラシリィ夫人――の好意と努力も忘れてはならないことです。
ハワイ、シスコ、ロス、セントルイスを経て、イリノイ州・ディケーターに着いたのは8月30日でした。人造湖をとりまくその町は、静かな緑に、すっぽり包まれていました。谷山さんの宿泊する家に、いったん集り、それぞれの家庭に別れたのですが、その時の4人の不安そうな顔を、今でも忘れることができません。けれど、何にでも飛び込める若さを持った4人は、それぞれの家庭を自分のものにしながら、ジョオンズヒルに通いました。学校側も好意を持って、しかもオーバーな扱いをすることもなく、昔からの友達として迎えて下さいました。1ヵ月程たった後、ラシリイ先生の家に、生徒を招待したことがありました。先生が驚く程沢山作った日本食は、またたく間に品切れとなり、4人の話す日本語がまるで噴水のように、次々とつきあげるのを感じました。一気にストレスを解消したのかもしれません。「日本の陶器で食事がしたい」という声も聞かれました。とにかく、3ヵ月の短い間に、思いがけない程、学び、感じ、成長した4人を再び教室に見つけた時、多くの人々が、これと同じ経験を、持ってほしかったと思ったことでした。
あちらの好意で贈られたリィディングマスターの機械は、活用されているのだろうか、と今でも折にふれて思います。
これを計画された二三子先生が、実現を見られることなく、逝かれましたことは残念に思いますと同時に、これからもなお、虹の友情が消え去ることのないよう祈ってやみません。(私が最初米国に書き送った手紙のテーマが虹であったため、ジョオンズヒルの先生は安城学園との結びつきを「虹の友情」と名付けておられた。)

座談会(昭和42年刊『アスナロ』より転載)
《出席者》
芦田美恵子先生
金田佳子(普3E)
谷山信子(普2F)
水藤恭子(普2F)
杉本雅子(普2F)
大橋富美子(普3A)
司会 原田恵子(普2F)

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司会 3ヵ月間の留学を終えてこられて、最初にむこうへ行って日本と違うなと思った事はどんなことですか。
杉本 むこうの人は何でも思ったことはパッと言っちゃうんです。日本人だったら言った後の事を考えるのにむこうの人は自分の言いたいと思った事は何でもかまわずすぐ言うのでびっくりしました。
谷山 あんまりずばずば言うのも良くないけど、日本人は少しそういう所は見習ってもいいと思います。
水藤 私が一番気になったのは皆んなほめ言葉を沢山使うことです。
杉本 くどすぎるくらいね。
芦田 形容詞が同じだから皆んな同じ事を言っているようで変な気がしますね。
司会 家庭内ではどういうところで違うなと思いましたか。
水藤 私がむこうで偉いなと思った事は、日本人だとお客様が来るとすごくお客様扱いするでしょう。だけどむこうは、私達が行ったらすぐその日から自分の子供と同じ扱いをしてくれるから気兼ねをしなくてとても良かったです。親の考え方は、どこの親も同じだと思いました。
司会 親の話が出たんですが、むこうの子供のしつけについてはどうですか。
杉本 私の家の場合は、一人っ子でしたが、日本の一人っ子と違ってすごくのびのびと育って広い考えを持っていました。やはり、国が大きいことからして考えが広いのかと思いました。私が感じた事はむこうのしつけは日本人より小さい頃からきびしくしてるから日本の親は、あまやかしているように思いました。
谷山 小遣いでも小さい子は、ほんの少ししか与えないし、マナーが悪ければお客さんがみえたときでもしかるし。――間

司会 この辺で少し学校のことについて話してもらいましょう。むこうの学校の先生と生徒の親近感はどうですか。
金田 別に日本と同じじゃないかしら
水藤 先生は、生徒のことあまりごたごた言わないからいいわ。
芦田 だけどむこうの先生は、生徒の事をみんな知っているんですね。そして全部それを頭に入れている先生が、一番優秀とされています。
谷山 むこうは、悩み事相談所みたいに皆んなで相談し合う時があって、何んでも気楽に話し合っていたからとてもうらやましいと思いました。
杉本 先生を呼ぶ時日本では先生と呼ぶでしょう。でもむこうはミスとかミスターと呼ぶから、なれなれしい感じがします。家庭科の先生がミスだかミセスだか分らなくてミスと呼んだりミセスと呼んだりして最後にミスということが分かった。(笑い)
司会 少し失敗談が出ましたが他にありませんか。
水藤 私はTGIFディという日をお休みと間違えて大失敗をしました。
芦田 TGIFDAYっていうのは、「神様ありがとう、金曜日が来ました」って感謝する日ですね。(土、日とお休みですから)
金田 英語の力が少なかったからですけれど、ワンピースがネグリジェの事だということが分らず、布を買うとき困りました。
司会 今、布地の話が出ましたが、むこうの物価はどうですか。
金田 着るものは同じです。
杉本 日本円に直したらむこうの方が高いわね。食べ物は他に比べて安いわね。
芦田 そうね。生活水準から言えば食べる物は日本の3分の1で、着るものは日本の3倍で日本と反対という感じです。
水藤 レストランなんか行くと原料は安くても、人件費が高いから、とても高くつきますね。
司会 レストランという話が出ましたが、むこうの食事はどうでしたか。
金田 別に日本食が恋しいとは思いませんでした。
水藤 日本にいるときはお茶わんのありがたさが分らなかったけれどむこうへ行って毎日プラスチックの食器で食事をしていたので陶器の食器がすごく恋しいなと思いました。
芦田 恋しくなるということは感覚的に自分のものになっているということですね、そういうものをむこうの人は知らない訳です。これは日本のよい所ですね。
司会 ところで、言葉ですが、日本で使っているものでむこうでも通用する言葉がありましたか。
杉本 スキヤキは知っていました。
谷山 お酒も知っていました。さよならも、発音がきれいだっていってました。
司会 ママとかパパなんて使いますか。
水藤 私が聞いたらね、知らないって。
杉本 おかあさんに言ったら、フランス語じゃないかしらなんて言っていました。
谷山 小さい人はダーディっていうし少し大きくなると、ファーザーとか、マザーとか言うし英語だ英語だと思っていたのにショックという言葉は通じなかったりして。マシュマロを焼いてくれた時、ステキと耳にはいったので「うんステキ、ステキ」と言ったら、家の男の子が、「信子おかしいじゃないか。ステキっていう意味はねちゃねちゃするっていう事なんだよ」と。(笑う)
司会 今までいろいろ聞いて来たんですが、親元を離れて3ヵ月間の留学の経験を今後どのように生かしたいと思いますか。
水藤 出来たらもっと英語の勉強を続けて、アメリカだけでなくいろんな国と交際したいと思います。
杉本 私も交際は続けたいと思っています。この経験を今すぐ出せと言っても分からないけど、3ヵ月の間親から離れて言葉も違い血もつながっていない人と生活したという事がいつか人間性を高めていくのに役立つと思います。
谷山 私も寮に入った事もないし、親と離れた事は初めての経験なんです。むこうへ行ってみて日本や日本のありがたさや良さがすごく良く分かったし、人間関係の面でも本当に良い経験をしたと思います。だんだん生活していくうちに役立つ時があると思います。
金田 私もやはりはっきり言えませんが、何かの形で生かしていきたいと思います。今度の経験で人間のふれ合いっていうものについて自信みたいなものがついたからもっといろいろな人達との交流を深めたいと思います。
司会 これで座談会を終ることにします。

普通科生徒が全校生徒の半数を占めるようになった昭和40年には、大学短大への進学率は昭和35年の15パーセントから30パーセントへと倍増し、それに反して各種学校へ進むものの割合は減少していった。
高校へ押し寄せた戦後のベビー・ブームの波は昭和39・40年にピークを示し、生徒数は1,500名を越えた。しかし、このあと2、3年のあいだには、進学率の上昇を期待しても、生徒数の自然減少がおこり、私学の間に生徒獲得の競争が激化することが予想された。

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私学女子教育とは、私学の独自性とは、など安城学園教育の存在意義が問われねばならない時にあたって、学園創立の精神がいま一度考えなおされ、学力・技能の修得とともに、学園創立の精神である永遠の女育成のための人間教育の確立が急務となった。昭和38年から、1,500余名にふくれあがった生徒の大集団に対する教職員の統一指導体制を確立しながら、生活指導の目標をマナーにおいてHOW are your manners?の言葉のもと教科指導と生活指導の統一が求められた。この年制定された高校生活実践要綱10ヶ条は、その具体的な提示であった。また昭和40年より、長野県八ヶ岳農場で2泊3日間のフレッシュマンキャンプが実施されるようになったが、これも、多様化時代に対応した集団生活の訓練の場を新入生に設けることによって、3年間の生活指導の基点を徹底させることを目的にしたものであった。

高校生活実践要綱

安城学園生としての自覚に立ち、責任をもって、次の10ヶ条を実践する。
1.欠席・遅刻・早退をしない。
2.帰宅後毎日3時間以上の自学自習を義務とする。
3.家庭・学校間の往復は直行する。
4.頭髪・服装は厳正に、家庭における外出も制服を着用する。
5.在学中は男女交際を固くつつしむ。
6.相互間の金銭・物品貸借をしない。
7.交通道徳を守る。
8.環境の美化・整頓につとめる。
9.すべて公明正大に行動する。
10.人間として、女性としてりっぱなMANNERを身につける。
安城学園女子短期大学付属高等学校

教育内容の一層の充実にも力が注がれ、学園の活動は以前より活発になっていった。この努力のなかで、もっとも留意されたのは安城学園生に誇りをということであり、この状況とりわけ高まりを見せたのは課外活動であった。この頃、多くの同好会が発足し、そのうち多くはクラブへと発展していった。

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昭和32年にはクラブ数は20を越えた。これらのうち、比較的に早くからクラブが結成され、著しい活動をしていたのは、文芸部、写真クラブ、ソフトボールのクラブであった。昭和29年、詩人の丸山薫・長谷川敬の両氏の特別寄稿で飾られた「ぽぷら」が顧問の中村幸雄先生の努力もあって文芸部の手で創刊された。学園の象徴的な存在であった校庭のポプラにちなんで名付けられた。そのポプラのように附属高校における文芸活動の中枢として休むことなく刊行が続けられている。この校内誌の刊行は、昭和3年に廃刊になった校友会誌以来、実に26年ぶりのものであった。また写真クラブも、学校行事などの視覚的記録保存と個人的趣味を楽しむという2面性をもったクラブとして活動をしてきた。鈴木修、山内圭3、岩井由紀先生など代々のクラブ顧問が特別に強い写真への興味を示されたという幸運も手伝って、その活躍には目立つものがあり、昭和32年、33年の両年にわたって、県高校写真大会への出品作品が優秀賞を獲得した。又国鉄安城駅に特設された安城学園のためのコーナーに学校行事などの写真が飾られ多くの人の目を楽しませた。

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同じ頃、演劇クラブでは、当時顧問をしておられた木村英雄先生の創作劇を高校演劇コンクールなどで上演した。昭和35年度に中日本高校演劇コンクールで上演された創作脚本「波紋」が優秀脚本に選ばれた。学校独自の創作脚本を上演する学校が全く少なかった当時の高校演劇界において、学園高校演劇クラブはかなりの注目を集めた。昭和32年に創設された郷土研究クラブは約半年後の11月に『安城学園45年史』を編纂するという快挙をおこなった。顧問の塚平啓造先生はじめ11名のクラブ員が一丸となって種々な隘路にぶつかっていった。学園の歴史を物語る資料、特に戦前のそれが散逸していたので、だい先生をはじめ古くから勤務しておられた先生方や、卒業生の人々の思い出を聞き書きしてまとめ上げられたものであった。それまで学園史らしいものが何一つなかった学園において、温故知新、約半世紀の歴史と伝統がもつ意義を認識し、未来への学園の展望を、学園関係者に考えさせた功績は大きかった。

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昭和25年に創部されたソフトボール・クラブは、鈴木三重次、小川毅両先生の努力で昭和30年代に目覚ましい活躍をした。昭和30年から連続9回(昭和34年は伊勢湾台風により出場が出来なかった)国民体育大会、全日本高校ソフトボール選手権大会への出場権を得た。昭和33年には、出場4回目で国民体育大会優勝の栄冠を得た。その間準優勝2回、常時ベスト・エイトに残るなど幾多の優秀な成績を残して中部日本における強力チームとして全国的に有名を馳せた。それまでの学園の活動範囲が県内に留まっていたのを、全国的レベルに押し拡げたこの功績に、学園関係者すべてが拍手を送った。厳冬の練習もさることながら、真夏の太陽で焦がされた女子選手の顔には、造りものの美に満ちている現代にあって、残されている数少ない素朴な美しさを見出すことができる。

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その他のクラブも、教室以外での、同級生同志間、先輩と後輩、先生と生徒の間に存在する対話の場としての意義をもっていた。そして、それらクラブの活動はふだん地味なものであったけれども、秋に恒例のように催された学園祭や校外発表の場において、目覚ましい高まりを見せた。このような中で、応援歌「あふれくる力」がつくられた。
生徒会の活動も、昭和30年ごろから一層活発になっていった。この年には、前々から検討が加えられていた生徒会の規約が改正され、それまで間接代表制をとっていた生徒会の会長、副会長が生徒会全員による直接選挙によって選出されるようになった。これによって、会員全体による生徒会への関心を高めることが可能になり、それ以来、改選時には立候補者のポスターやクラスにおける選挙演説が学園内のあちこちで見られるようになった。生徒会機関誌「アスナロ」が創刊されたのもこのころで、新聞部の発行していた新聞とともに全校生徒に親しまれてきた。昭和36年3月10日刊の「アスナロ」創刊号の編集後記に、つぎのように書かれている。

生徒会機関誌第1号が出ることになった。グラビアもせめて8頁は、落書を書くように、みんなが自由に書く頁がなどと夢をふくらませていたところ、予算の都合でグラビア2頁、紙面50頁以内と枠が決められ編集委員はがっかりした。………明日に希望をもつということは、今日を最善に生きることである。生徒会活動の全般を通じて、私達は最善をつくしたように思っていたが、まだまだ足りないこと、もっとやればよかったことが、実に多い。この反省から、来年度のよりよい出発を願って、“アスナロ”をみなさんのお手許に送ります。

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生徒会について(『安城学園45年史』より転載)
山内圭三

学園の歴史の材料とするには、評価基準が主観的で、後世大いに批判させることうたがいなしです。それで、現在に流れ込んでいるいくつかの支流の一本として、生徒会活動を振り返ってみることにします。どうしても、「顧問センス」が出て来てしまうのですが、出来る丈客観的にとりあげることにします。
昭和30年度以前の本校の生徒会の姿については私が知る術のないもので、しかるべき人からの御発言があると思います。只、生徒会規約が現在のものと殆んど変わらないものであることから組織的には似ていたものであったと窺われます。
その規約が現在に受け継がれてはいるものの、昭和30年度に入って一つの曲折を径ています。今までの生徒会のあり方にメスを加えて、組織、内容共に別の姿を打ち出そうとするもくろみが、職員室の中で準備されていました。
生徒会活動は、雑用処理のためにあるのではなく、君たちの力に応じた活動が君たちの意志によって実行されなくてはならないということを最初の約束としよう。とむしろ我と我身に対して言ったものでした。
代議員相互間で役員選挙が行われる段になって、今だに忘れられない1幕が演ぜられました。役員選挙は会長から順次始められました。推せん、投票までは良かったのですが、会長決定となると、会長になった人から切々たる訴えが行われました。要するに私にはそんな大役は出来ない。一生けん命協力するから会長は止めにして欲しい。しまいには、両眼からポロポロと涙を落します。新米の私は大いに驚きました。只オロオロするばかりです。なだめたりすかしたりしたいと思うのですが、何といえば良いのかわかりませんし選挙の結果をどうこう言うわけにはいきません。代議員の中には強硬派もいます。みんなから信頼されて出たのだから受けなくては卑怯だというのです。結局選挙は続けられ各役員が決定しました。会長も先程とは打って変ったように、しっかり挨拶しました。これは、会長に選ばれた人の性質如何の問題でなくて、生徒会活動にまつわる雰囲気のせいだと感じました。労多くして功少なく、犠牲的奉仕をするのだという悲愴な面持ちでした。これではいけない。何とかこんな気持をみんなからなくしていくようにしなくてはいけない――これが当時の偽わらざる気持でした。その後の2年間、実際の活動が、最初のこの覚悟の前に恥じないものであったかどうかについては、残念ながら不充分であったといわざるを得ません。
ですから、こゝで2年間にこんなことをしたという行事の羅列は差し控えることにします。行事の数や華々しげな成果のみを挙げ列ねることは簡単ですがそれが生徒会の真の歴史であるとは思いません。
生徒総数500余人で1期の会費が17万円前後であった時から、現在の規模に拡大するまでには、やはり様々の変化がありました。3ヶ年の学園生活の中で、学課に専念し、更にクラブ活動で技を磨く人たちは夫々のものを獲得して卒業してゆきます。それでは、生徒会予算に頭を痛め、文化行事の準備に疲れもした役員始め議員諸君は果して何を獲得するのでしょうか。それは、「原則」を立てさまざまの「条件」を含みながら展開していく「過程」の中での尊い「経験」といえるでしょう。
「過程」を大切にして行動することが生徒の生徒会活動として伸びていく大切な点だと思います。
現在、生徒会の底流には新しい芽生えが感ぜられます。それは表面立ってはいませんがたしかに根をはっているようです。やがて、役員も直接選挙で適格な選出が可能になるでしょう。早計な評価や又批判に迷わずに自分の途を歩んで欲しいものです。これは巣立った先輩達の希望でもあるでしょう。

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