昭和20年(1945)8月15日を境にすべての情況が一変し、勤労動員で軍需工場へ派遣されていた生徒は本校へ引き上げたが、直ちに夏休みに入り9月にかけて長い休暇となった。10月に始業したものの疎開者が都市へ帰省したため生徒数が約半分に減じた。このようなとき学校では、日本を占領した進駐軍により、戦時中の軍事教育に終止符を打つ指令が出され、一斉に「公」のつく印刷物書類等の焼却が命令された。学校へはそのことが行なわれているかどうか確かめるために、月一度ぐらい進駐軍が来ていたので、1週間出校して1週間休講という状態で年内は家庭研究の形が多くとられた。それで昭和20年度後期の各教科はすべて、レポートによる成績審査であった。またこの時期の昭和20年11月20日、寺部清毅先生は蒙彊から家族の芳子夫人がたと一緒に博多港へ着かれ、無事に帰国された。学校教育、学校運営が非常な混迷の渕に入っている時に次男の清毅先生の帰られたことは、寺部三蔵先生、だい先生にとっては大きな救いであった。清毅先生はすぐ学校教育に参加し、21年2月、財団法人安城学園理事、安城女専教授に就任した。
戦後は極度に食糧が不足し、主食米の配給量は六大都市の場合、一日一人当り2合1勺(約300グラム)しかなかった。それも玄米と変らない一分づきのもので、月1週間か10日ぐらいしか配給されず、不足分は小変粉、大豆、さつまいも等を米に換算して主食の配給に代えられた。遅配、欠配も再三で、家庭では雑炊にして量をふやしたり、さつまいもや雑穀の代用食だけで食いつなぎ、栄養失調に陥る人も多かった。
21年5月には、ますます窮屈になってきた食生活に対し、県教育民生部では各学校に通告が出された。その一部をとり上げると「……来るべき端境期などに思はぬ主食の窮乏を来たし、学徒学童の体位に及ぼす影響は勿論、思想動向にも大きな関連があるものと考へられるので、臨時休暇日を設けるとか、授業時数に変更を加へ登校、下校を適切に、或は昼食時に帰宅させ食事をとらせるとか、未利用可食物資の利用を普及徹底させるとか、その他適切な方法を講じて体育の保持に努めさせると共に、食生活の指導に依って主食の節減を計り、端境期等に徒らな窮乏窮迫を来たし、思想の動揺を見ることのないよう、十二分の指導をするよう……云々」とある。
またこの頃、現下の食糧不足を学徒自身の勤労により、克服するため学校農園を設置するよう文部・農林省からの通達もあった。
このように日本国中の食糧事情は最悪の状況にあったが、本学は日本のデンマークと呼ばれた農村地帯にあるため大都会に比べれば空腹を何とか満たすだけの代用食のやりくりは出来たようであった。しかしそれは個々の家庭における工夫であり、寄宿舎の食糧獲得には学校農園を学生自身の耕作によって、また学校関係者の配慮などあって、学業を継続することができたのである。
戦時下には、国民は従来の和装、洋装をすてて男子は国民服(昭和15年11月制定)、女子は標準服(昭和17年制定)に着替え、男女とも戦時色一色となった。そして昭和17年2月衣料統制が行われ衣料切符制度が実施された。昭和20年8月15日の敗戦で国内は混乱し、あらゆる物資不足から耐乏生活の連続であったが、被服生活では20年代も後半になってから男女とも日常は洋装化し、洋裁学校が雨後の竹の子のように繁盛した。昭和26年には衣料切符制度も廃止され、衣料切符制は終った。
本校の制服は戦争中女専では、衿なしジャケット・白ブラウス、もんぺ型ズボンの組合せ、女職では、セーラーの上衣、又は、中等学校制定服(へちま衿・ベルト付上衣)のいずれかにズボンをはき、スカートは全く用いていなかった。この制服は終戦を区切りとして女専は、背広衿ジャケット、白ブラウス、四つ接スカートの3つ揃いで、夏物は上衣を白地のジャケットにし、ブラウスとスカートは冬夏通じて用いた。女職では、セーラーの上衣はそのままで、下衣をプリーツスカートに代えた。
この時期は衣料統制が続いて行われていたため、制服用サージ生地は学校へ配給され、入学すると教材として各々が製作し着用したのである。