確固たる建学の精神
寺部だい先生の決断により、地域社会の強い要請のなかで、昭和37年に発足した男子校の岡崎城西高等学校では、43年9月、寺部清毅学園理事長が学校長に就任されたが、多忙な寺部学校長は6か月で退き、鈴木修学園本部企画部長が44年4月、新たに学校長に就任された。
新校長は就任に当たり、「質実剛健・己に克つ」の建学の精神の具体的な実践目標として、「頑張ろう」「目標を定めよう」「個性を伸ばそう」「謙虚さを持とう」「自律を心がけよう」「時間をかけよう」の6項目を挙げた。
指導体制確立への布石
この頃、生徒数は次第に増加傾向となっていった。このため、学校全体の掌握、管理、指導に支障を来たしかねないことから、種々の面での整備がなされた。
本校は40年に「丸刈り宣言」を出していたが、44年9月に、長髪許可を宣言した。社会的風潮の趨勢によるものではなく、本校独自の教育を発展させる見地から決定したものである。44年頃には「生徒指導上の確認事項」もまとめられた。また学年主任から担任への縦割りの管理指導体制を確立した。学年会の主催する月1回の学年集会も開かれるようになった。生徒の登校マナーの指導のため、毎朝、生徒の通学路に教員が立つことになった。
学力の充実向上については、学力差に応じて、生徒それぞれの適性、関心に応じた進路を保障する学力をつけることを目指した。進学希望者については、まずは中堅私大の合格を目標にした。就職コースについても、学習の内容に毎年のように反省が加えられ、より良いものに作られていった。
44年には冷房完備の自習室を設け、生徒の学習の便が図られた。45年4月には、教務部から学習指導部が独立した。
46年8月からは「猛烈ゼミ」も開講された。夏期休暇中の15日の補習授業の他に、同一科目を一日6時間で4日から6日間行うものである。この他にも2・3年生には8日間の合宿による補習が行われた。
苦節10年の成果あがる
施設については、45年3月、図書館が新築され、それまで南棟2階の普通教室にあった図書室が移転した。48年5月には、理科棟が完成した。化学実験室、生物実験室、物理地学実験室などを持つものである。
49年度には入学者が急増した。このため急遽、4月に南棟の東側に木造平屋建ての2教室を新築した。51年11月には、待望の管理棟が完成した。1階に事務室、校長室、応接室、2階に図書室(後、職員室となる)が入った。
47年から51年にかけては、生活指導面、学習面、クラブ活動において、城西高校教育10年の苦労がやっと報われた時期であった。
この頃になると、運動部では、サッカー、バスケットボール、ハンドボール、陸上競技、剣道などは、西三河大会での常勝、県大会出場が常識化した。51年にはグランドの土入れ、U字溝の工事により、排水が良くなった。文化クラブの活動も活発になった。
51年度からは、全校生徒が新しい制服となり、学園のイメージは一変した。上衣は濃紺のブレザーコート、上衣の下は白のハイネックシャツ、ズボンはグレイである。着帽は自由とした。服装は、困難な問題であるが、本校ではわずか半年でこの問題を解決したのである。
47・48年頃から、「城西の3本柱」という合い言葉が交わされるようになった。「進学」「クラブ活動」「生活指導」のことである。自然発生的に言われるようになったのであるが、本校がそれまで努力してきた教育目標を、的確に言い表わす言葉であった。
本校の入学志願者は、43年度は850名であったが、46年には1,516名、51年には1,591名となった。特に地元岡崎地区の増加が目立った。志望者の増加は、本校の教育の主旨が地域社会に受け入れられ、正しく評価されてきたことの証しであった。
52年度の大学入試は、厳しい情勢にもかかわらず、国公立大現役合格12名をはじめ、大学合格者300余名を出し、創立以来、最高の成績をあげることが出来た。ここにおいて一応、本校の進学指導体制の基礎が確立されたと言えよう。
誇り得る伝統行事の数々
創立以来、運動会、体育大会、体力検定などとして行ってきた体育行事は、43年度からは、体育祭と名称変更され、内容も華やかさを増した。その成功のうえに立って、生徒会執行部と顧問はこの年、本校初の「文化祭」も実現させた。文化祭の一環としての観劇も、49年度から始まった。
45年の1学期末には、臨時の特別教育活動として、万博見物、上高地キャンプ、工場見学、登校自習につき、希望者を募り、実施した。
特に、3泊4日の北アルプスの夏山登山は、生徒達に深い感動を与えたので、46年からは「夏山合宿」と改め、学校特別行事として3年生全員の参加により行うことにした。この夏山合宿は、「質実剛健・己に克つ」という建学の精神にも合致するものであり、本校教育の総決算と言えるものである。
また46年5月からは、それまで実施していた「遠足」を「野外活動」に改めた。野外活動は、1年生は東海自然歩道、2・3年生は三河高原、闇苅渓谷などのデイキャンプとして定着していった。
この他、創立以来の行事には、強歩大会、マラソン大会、スキー合宿がある。
46年度からは、生徒達に、ほんものの音楽の美しさをわからせようという考えで、音楽鑑賞会が始まった。
卒業式については、48年度から、純粋に卒業生中心の「卒業証書授与式」が実施されるようになった。緊張感溢れる荘厳な卒業式はこの後、本校の伝統となった。
更に発展、飛躍を目指す
昭和53年11月、本校教育の一層の充実進展を期して、総合教育棟が完成した。図書室、視聴覚室、柔道場、アリーナ、宿泊施設(102名収容)、食堂などを含むものである。またプールも完成した。総合教育棟の活用による教育の成果、向上は、測り知れないものがある。
54年12月には、東棟が新築され、中教室3、普通教室2の5教室が入った。
読書指導については、53年度から、翌日ノートをつけさせるという方法をとった。こうした努力の結果、在学3年間で一人平均20冊を読了するようになった。
54年4月からは新入生に対する「オリエンテーション合宿」も始まった。
進学実績は、50年頃から市内、近隣に公立普通科高校が新設された影響で、やや不振となっていたのであるが、地道な指導により、55年度にはみるべき成果をあげた。国公立大学16名、早稲田大学をはじめとする私大に300余名が合格したのである。特筆されるべきは、クラブ活動を3年間続けてしかも現役で合格した者がかなりの数いたということである。推薦入試でも100名を超す者が合格した。
56年4月には、鈴木修校長に代わり、短大付属高校の富田太校長が、新たに学校長に就任した。