第5節 無試験検定の悲願達成

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昭和14年の専門学校本科卒業生4名のうち、先に述べたように3名は中等教員の検定試験の難関を突破し、前途に一縷の光明がきざしたかにみえた。しかし、その翌年度にはまた本科の卒業生は途切れてしまった。はじめから本科の入学生がなかったわけではないが、外波山、渡辺、手塚3先輩の血のにじむような努力を見せつけられ、また意欲に燃えただい先生の気迫におじけづいて脱落する者が相ついだからである。昭和15年3月に、専門学校別科を卒業した山田金代(旧姓江川)さんは、「検定試験を目標とした指導のために、生徒の負担が大変で、はじめは意欲に燃えていた人も、ひとり、またひとりといった具合に別科に変わっていって、とうとう本科の卒業生がなくなってしまいました」と語っている。
中等教員検定試験への突破口はできたとはいえ、それがコンスタントに成果を上げる状態には至らなかった。松平先生に変わって、昭和13年9月から安城高女を退職した東京女高師出の安藤らく先生が、41歳で女専教授として迎えられたが、中等教員無試験検定認可の悲願は却下されつづけていたのである。
中等教員検定試験は、その当時文部省督学官であった成田順先生が中心になって行なわれていた。思いあまった寺部三蔵・だい両先生は、成田順先生を訪ねて、中等教員無試験検定を獲得するための秘策をたずねた。成田先生は、専門学校の設備の不十分であること、教員スタッフの貧弱であることをあげて、この状態では無試験検定は覚つかないことを告げた。
寺部三蔵・だい両先生は、専門学校の教員スタッフの充実に腐心した。しかし、生徒数確保も意にかなわないような女専に、おいそれと適当な先生が得られる見込みはなかった。そこで思い立ったのが二男清毅氏の配偶者を、成田先生の意にかなう専門学校教授資格所有者のなかから選ぶことであった。その頃、成田先生の東京女高師での教え子で、成績優秀志操堅固で中等教員検定試験の受験指導にうってつけの先生が一宮高等女学校に勤務していた。寺部三蔵・だい両先生は、成田先生との度かさなる接触のうちに是が非でも、その先生を安城女子専門学校の先生に迎えなければならないと考えるに至った。
こうして、昭和16年6月、蒙彊政府参事官として勤務中の清毅氏が、病気療養をかねて休暇をとって帰国中に、急遽結婚話がまとまったのである。清毅氏は大学を卒業して大陸へ渡り、そこに生き甲斐を感じていた時だけに、甘い新婚生活を味う暇もなくひとり蒙彊へ旅立って行った。清毅氏の夫人となると共に、専門学校の先生に就任することになった芳子先生は、夫の両親の悲願を一身に背負って、中等教員検定試験のための指導に全力を投入したのであった。
昭和16年9月専門学校に赴任した寺部芳子先生は、寺部だい先生を中心とする和裁の指導スタッフに比べて、洋裁指導陣が弱体であることを指摘した。そのため東京芸大教授をしていた高田力之先生を洋裁の指導者として迎えることになった。
こうして寺部芳子先生を中心として、専門学校の施設、設備、蔵書は一段と充実された。単に実技のみでなく、検定試験に照準を合わせて指導内容を抜本的に検討し、全般的に指導方針も改善された。さらにものの考え方から答案の書き方に至るまで、キメ細い懇切丁寧な指導が行なわれるようになったのである。(昭和17年女専本科卒稲垣江美子さん談)。
これより前、昭和16年3月の専門学校本科卒業生外波山しづ(新姓鈴木)さんら3名は、中等学校教員の臨時検定試験においてすばらしい成績を収めることができた。しかし「過去の本校の成績とは、打って代って、余りに成績が良好過ぎる」(『おもいでぐさ』)という理由で、その年の卒業生は合格保留となり、つぎの3年生にもう一度試験をしてみてから結論を下すということになった。しかし、戦局の緊迫化がすすんで、昭和17年3月の専門学校本科卒業予定者は、くり上げ卒業第1回として同16年12月に単立つことになった。そのため、徳原睦子さんらは、中等教員検定試験を受けることはできなかった。(徳原睦子さん談)。
昭和17年6月に行なわれた検定試験に専門学校3年生6名が受験した。この時の試験官は奈良女高師の稲田先生が担当し、試験は本校を会場として行なわれた。本校の命運はこの試験の結果の可否にかかっていた。寺部だい先生は気が気でならないようすで、試験場に当てられた教室の廊下をあちらに行ったり、こちらに来たりしていた(昭和17年女専本科卒縣衣子さん談)。

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この時の試験の成績も良好で、9月には本校についての実地調査が行なわれ、全員見事合格となった。こうして昭和17年9月以降の専門学校本科卒業生に対して、中等教員裁縫科無試験検定が認可されたのである。想えば長い長い道のりであった。実に女専設立以来10有2年に及ぶ艱難辛苦の連続であった。だい先生の執念ともいうべき熱意と、新しい指導法を導入した芳子先生、それに協力した多くの先生方の筆舌に尽し難い努力と苦心の結実であった。
中等教員無試験検定の認可は、正式には昭和18年1月におりた。山崎延吉校長は自ら筆をとり「野育ちの女の為めの学び舎も御代の恵みに芽立つ今日かな」と詠んで、その喜びを扇子に刷って生徒たちに贈った。時に昭和18年3月8日のことであった。

安城の想い出 徳原睦子
(昭和16年12月女専卒徳島県美馬郡在住)

私の安城時代は、今から約30年前、日華事変の終りから、太平洋戦争の緒戦の頃にかけて、国内外情勢の緊迫した変動のはげしい昭和14年4月から、昭和16年12月(註17年3月卒業予定が戦争のため全国的に3か月繰り上げとなる)の3年に満たない、短かい期間でした。
当時学校は、安城の八幡神社の南の田圃の中にありました。地平線に夕陽が落ちてゆくように思われたあの広々とした三河平野の中にある学校周辺の田園風景は、幼ない頃から家のすぐ近くに山や川のある町に育った私にはめずらしく、いまもなつかしく瞼に焼きついております。
校長先生は山崎延吉先生、白く長いあごひげをきれいに手入れされた長身の堂々たる先生の風格は、日本のデンマークと云われた安城の女専の校長先生にふさわしいお方だと、常に尊敬いたしておりました。非常にお忙しい毎日で全国へ講演に出られ、学校へは安城のお宅へ帰られた折に見え、私達に“女性の生き方”など有意義な講演をして下さる位でしたが、先生の講演は聞くたびに感銘を受け友達とその感激を話し合ったものでした。
学校内のことは、校主先生、だい先生が先頭に立って経営され、それを清先生、二三子先生、その他諸先生方が協力されていたようでした。
私の在学時代は戦争中と云っても、勤労奉仕等はまだありませんでしたので、学校あげて中等教員免許状下附を目標としての苦しいしかし張り合いのある3年間でした。
先生方の力の入れ方は大変なもので、すべて目標に向っての日々であったように思われます。そのため、施設面では、洋裁、調理、家事実習、研究、準備、普通教室などが増築され、設備面では、各教室に必要な備品、用具、図書の購入など……今、考えてみますと文部省の施設、設備基準にもとづいて充実して下さったのではないかと、現在自分が教職にあるだけに、当時の先生方のご苦労が偲ばれ頭の下がるおもいがいたします。また授業の面でも、生徒に実力をつけておくことが肝心と先生方が熱心に指導して下さったことを覚えております。特に実技面での実力は、自信をもって卒業できるだけの力を充分につけて下さいました。
文部省の視察が内定してからの忙しさは格別で始業前、休み時間、放課後、時には土、日曜日を返上して教師、生徒共に準備にあたりました。当日は当時被服指導者の第一人者であった成田順先生をはじめ、奈良女高師の稲田先生その他の方々が来校し、手分けで施設設備、生徒の実力検査と物々しい視察と調査で、私達生徒は非常に緊張してその場にのぞんだことを記憶しています。その後、私達より1級下の人達から、無試験で中等教員の免許状が戴けることになったと聞かされ、私達の努力も無駄でなかったと、心からうれしく思ったことでした。

■座談会
・日時 昭和46年8月29日
・場所 中村ゆき子さん宅(浜松市西伊場町)
・出席者
河村ひさゑ(旧姓 外波山)専本科14年3月卒
縣  衣子(旧姓 安田)専本科17年9月卒 新居中学校勤務
稲垣江美子 専本科17年9月卒 安城農林高校勤務
黒田みつ子(旧姓 中島)専本科17年9月卒
塩沢久子 専本科17年9月卒
中村ゆき子(旧姓 名倉)専本科17年9月卒
司会・記録 松田澄江

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松田 すでに30年前のことでございますが安城女子専門学校に学ばれた当時の追憶など、とくに中等教員検定試験合格という後輩への貴重な門戸を拓いて下さいました特筆すべき時期であり、その苦心談、当時の模様などお話し頂きたいと存じます。よろしくお願い致します。

専門学校入学時の印象、学校生活
中村 浜松市立高女を卒業して女子師範学校に進むという話もありましたが被服の特技が一生身につくからと母に進められて安城女子専門学校に入学しました。
塩沢・縣 私共も浜松市立高女出身で同じでございます。
中村 入学式に初めて安城へ行ったとき着席といわれて椅子はなく一瞬戸迷いましたが坐ったのには驚きました。
縣 市立高女はのびのびと比較的自由でしたから本当のところ、えらい学校に来てしまったと思いましたね。(笑声)
塩沢 専門学校というから立派な校舎を想像していたわけですが女専の校舎は1棟だけで意外な思いでした。
中村 学校生活は生徒数は少なく家族的というか現在のようなマンモス教育では勿論なかったし、それぞれの個性を伸ばして内容は充実していたように思います。
塩沢 設備のよい大きな学校とは違って十ぱ一からげではなく各個人の生活はそれなりに充実していたように思いますね。
黒田 玄米を食べ修養道場で夜中に起きて五十鈴川にみそぎに行ったことなど、修養講話がしばしばあって精神的な面では多感な青年期でしたし安城に入学して良かったと思いました。
中村 私達生徒を大切にして下さった印象が残っています。
稲垣 あの頃の授業で思い出すのは調理のときいなごのからあげや粉末にして救荒食品を作ったことなど、現代っ子には思いもよらないことでしょうね。
縣 枕草子の春はあけぼのなど思い出しますね。漢詩では「唐詩選」や「楊貴妃」を勉強したことなど思い出されます。美術の日本画は息抜きになって当時とても嬉しく思いました。
稲垣 音楽では稲葉先生がヴァイオリンを弾いて下さってとてもきれいなお声で素敵でした。教育学は伊藤文一先生であの頃岡崎師範学校より出向いていらっしゃいましたが修養団に関係しておられて非常に熱心だったのを憶えております。
塩沢 洋裁の授業では高田先生の指導で配給された紺サージでテーラードスーツ(制服)を作りました。ハ刺しなどしっかりやって縫製したのは忘れられません。寺部芳子先生には当時こども服を教えて頂きました。
松田 河村先生の頃は如何でございましたか
河村 一通りは普通教科がありました、私はもともと理数科系が好きでしたが、入学の時今でいう奨学生として安城へ参りまして、中等教員検定試験を受け資格を取るというはっきりした目的をもって入学したわけでして、浜松市立高女出身の3人とも授業料は免除の上月々お小使い5円を頂いておりました。
縣 河村先生が市立高女で教鞭を取られて私も安城へ行こうという契機を作って下さいました。
中村 『裁縫精義』和裁ノートは今も大切にしまっていますが和裁については卒業してからは本当に良かったと身にしみて感じました。
縣 本当に着物を作ることは当時自信を持っていましたね。結婚のとき紋つき、訪問着など全部自分で作りました、ところが最近は時間がなくて垂れものの勘などすっかり失ってしまいました。
稲垣 着物を正しく作ることは稀少価値になってきましたね。一応の形は出来ても正しく教える人は少なくなりました。日本古来の文化の継承として大切なことと思います。それにつけても和裁を教えて下さった久保くりゑ先生(故人)のことが思い出されますね。惜しい方を失いました。
中村 私達入学した6名で卒業のとき着物、袴姿で「仰げば尊し」を歌ったのを思い出すとき今でも胸がじんとしますね。
黒田 修学旅行は寺部三蔵先生引率のもと2泊3日の日程で専門学校在校生全員(別科も含めて)16年5月22日名古屋港より外国船モンテビデオ号(7,000噸)に乗り横浜に上陸し、箱根を廻り伊東、伊豆へと見学し大島に行きました。船員さんが親切にして下さったことや三原山に霧がかかっていたのを憶えています。
河村 私達のときには修学旅行などありませんでした。たまに外出といえば名古屋市内のデパートへ服飾方面の見学という名目で出かけたくらいのものでして、今の若い人達のような華やかさはありませんでした。

検定試験の思い出
縣 3年になって和裁理論を寺部だい先生が教えて下さいました。1年、2年と久保先生に理論、実技とも教えて頂いたのですが試験にそなえてか、だい先生は私がやらなければというお気持だったのでしょうね。
黒田 何というかそういった気魄といったものが日常生活のなかに感じられましたね。
稲垣 試験にそなえて答案の書き方をずい分練習したわけですが、現代のような○×式ではなくレポートにまとめることが多くて、それによって文章に表現することや思考力が養われて良かったと思います。
中村 実技はいうまでもなく裁縫理論、教授法、服装史的なものなど重点的に学びました。部分縫いは今でもしまってありますがよくやったものです。
稲垣 試験問題は「コートの道行衿の部分縫い」。縞が合わなくてずい分苦労したものです。
塩沢 それから「男物袴の腰立の針の順序」でしたが今ではすっかり忘れてしまいました。
稲垣 指導案もありましたね。たしか婦人標準服甲型の指導法について指導案を共同作成して塩沢さんが教壇に立って実地におやりになりましたね。
河村 私が受験(文部省検定試験)しましたときの問題は「子供の宮詣り着について意見を述べよ」というものでした。そのとき肯定しても否定しても良かったのでしょうが、私は華美にならないように絹織物とは限らず木綿でもスフでもよいから子供の成長を祈り将来の幸福を願う意味から、とくに廃止しなくても良いのではないかと書きました。本試験では婦人割烹前掛の早縫いでミシンの附属品三つ巻き、ひだ取り機を使用するのが条件でして、全体の形を早く整えて附属具を使う所を丁寧に致しまして何とか出来上りました。
中村 奈良女高師の稲田先生が来校されて教室に缶詰めにされずい分緊張して受験したわね。だい先生が心配げに廊下を歩いていらしたのを思い出します。
縣 あのころは戦時中でしたし女性の職業について一生涯仕事に生きるとか、はっきりした信念を持てなかった時代でしたから進路があやふやでした。しかし反面学校では検定試験を受けるという一つの大きな使命を課せられてとにかく一生懸命勉強をしたものです。
稲垣 とくに目的意識をもって入学したわけではありませんでしたが現在自分が教職にあって働くことのできるのは当時の諸先生方の熱心なご指導のもと努力あってこそと感謝しております。

後輩に望むこと
縣 友とのきずなを学生時代に作ることが大切です。そしてこの時期に何より人間形成が大切と思いますね。
河村 60年の歴史の重みのなかに創立者のお心を継承して、母校が一層発展されることを切望して止みません。若い人達に望みたいのは己にきびしくあれということです。
松田 本日は誠に貴重なお話を数多くお聞かせ下さいまして、母校60年誌編さんにお力添えを頂き、新装成ったばかりの中村さんのお宅を会場にさせて頂き皆さんのご好意、ご協力を心より有難く感謝の言葉もございません。いずれ記念誌が出来上りましたらご覧頂きたいと存じます。本日はどうも有難うございました。

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