第3節 第二次5ヶ年計画

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第一次5ヶ年計画は、ほぼ順調に運んだので、昭和47年頃から、第二次5ヶ年計画を遂行することにした。
第二次計画の中心は、両高校、特に附属高校に重点をおき、両高校の社会的評価を高めることにあった。両高校共、40年代前半は、地域の評価は低く、附属高校においては、家庭科、商業科を併設している関係もあって、各種学校と応募者を競争しているような状態であった。
第二次5ヶ年計画の目的は、建学の精神を、日常教育の中にどれだけ具現していくかであり、そのための教育諸条件を含めた教育環境の整備と、財政の確立とであった。しかし、この計画は、発足後間もないアクシデントにより、3、4年間、その実施遂行が遅延した。今から考えると、10年前の3、4年の遅れは、実に重大な価値を含んでいた。当時は、第一次急増期直後で、愛知の多くの私学は、長夜の夢をむさぼっている時代であったので、先導的な経営や、教育計画をたて、それに相応する教育施設を先行投資して、独自性を深めていけば、一挙に他校をリードすることは難しくなかった。

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教育の中味をより濃く、より充実していく教育計画の遂行には、どんなに意見が分れ、議論が行われても、発車すれば、一つの意思で進まなければ効果はあがらない。学校における教育計画は、企業における生産計画のようなものである。企業では、ストライキ以外は、生産計画に支障をきたすことは考えられないが、学校では、ストライキが行なわれないでも、2つの意思が教育計画遂行の中で働いていれば、教育効果は明かに減殺される。
幼稚園については、つとに、才能教育が実施され、才能の自己発見と、開発のために、漢字早期教育、イングリッシュラボ、ミュージックラボ、外人による英会話等々が、無学年教育、裸教育等の中で行なわれ、幼児期の心身の発達段階に応じた多様な教育に必要な教育機器と、施設等の環境整備が実施され、幼児自身が、自らに内蔵する可能性を発見し、伸長していくその独自の教育は、地域社会から、極めて高い評価を得ていた。

大学、短大については、41年の大学の新設が、学園に、破局的様相をもたらしたとの印象が、全教職員に濃いので手控えていたが、学園の頂点である大学、短大の振興を計らねば、総合学園としての実を伴わないので、本格的に、47年から、その整備充実に乗り出した。長年の懸案になっていた安城学園女子短期大学の移転と、安城学園大学短期大学部の定員増と移転、安城学園大学の学科増に見合う校地の取得と、学舎の建設並に、近代科学の発展と社会の変化に対応するカリキュラムの再検討を、同時並行することにした。前者については、約3万平方米の土地の取得を目指したが、幸い、安城市の協力で、47年には、桜井町の旧安城高等家政学校の校地校舎を譲り受け、49年には、続いて、周辺に約2万6,000平方米を買収し、53年には、安城学園大学短期大学部の移転を完了し、同時に附属桜井幼稚園を設立した。
52年には、不足学舎を岡崎校地に建設し、53年には、安城学園女子短期大学の岡崎移転を完了し、安城学園大学短期大学部は、発展的に解消し、安城学園女子短期大学に統合されるに至った。これと併行して、大学の拡充のため、岡崎市舳越町の大学本部の隣接地区に、約5,700平方米の校地を買収した。これらの一連の事業遂行により、大学、短大の将来の発展拡充のための基盤整備が一応終了した。しかし、研究、教育体制の素地は、45年頃にはできていたが、現代文明の発達段階への対応には、明らかに多くの補填を必要とした。戦後、わが国は、敗戦の洗礼と、復興期と、40年代の高度成長期とを経て現在にいたり、その間、社会、経済、価値等の諸体系も2回に亘り、変革の波に洗われており、学問そのものも問い直されている現状に、大学が対応できる体制づくりが不十分であった。そのために、60周年を記念して、生活文化研究所を設置し、同時に、東南アジアに、3回に及んで調査研究班を派遣したり、カリキュラムの整理統合と、変転する生活文化現象についての特別講座の開設、家政学コロキウムの開催等、本学独自の家政学の追求、欧米文化コースの新設と、英国短期留学制度の実施等、現代文明への対応のみならず、将来文明への先導的試行をもくろむ種々のトライヤルと地盤固めを行った。

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