第2節 教員養成の成果みのる

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昭和7年4月22日、当時の文部大臣鳩山一郎氏が教育視察のために西三河地方へ来た。『興村行脚日記』によると岡崎で美合の種畜場、梅園小学校、師範学校を視察したのち、山崎先生の案内で農林学校へ行き、つづいて本校へ立寄った。その後高等女学校を会場に官民の有志300名からなる歓迎会に出席した。それらの視察のなかで鳩山文部大臣は本校の教育についてとくに深い印象を受けた。かねて準備しておいた本校独特の創意による廃物利用展に驚きの眼をみはったのである。その内容及び当時のようすは『おもいでぐさ』によって知ることができる。

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1、生徒の大半が農家出身なので各家庭で鶏の抜毛を拾い集めさせそれを洗って消毒し、先生の指導のもとで羽根布団、子供用ケープ、えりまきなどを作成したもの
2、学校で1年間注意して縫い糸の屑を短いもの、長いものなど拾いためておいてこれを横糸にして織った座布団、夜具3枚の1組み。
3、綿入れの着物、布屑もそれぞれ細くきざみつぎ合わせたもので作った絨毯代用品。
4、その他小物の利用品など2,000点余り。

これらの展示品を見て鳩山文部大臣は「農村における女子教育としてはこのように農業と家事を直結させることができてはじめてその目的が達せられる」との賛辞を惜しまなかった。(『おもいでぐさ』)
これはわが国唯一の農村における女子専門学校として、地域の独自性に立脚し定着した本校の教育方針に対する評価でもあった。女子専門学校が設立されて2年目その母体となった職業学校も順調にその内容充実への道をたどっていた。
昭和11年10月に刊行された『愛知県学事要覧』に、昭和10年3月に職業学校を卒業したものの進路の状況が表示されている。それによると全卒業者76名のうち、53%にも達する40名が学校職員になっている。「学校職員」は、おおむね小学校の先生と考えてよかろう。安城女子職業学校の教員養成機関としての特色を端的に証明する卒業者の進路状況であるということができる。

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これより1年前の昭和9年3月に本科師範部を卒業した寺田たつさんは、静岡県笠井町立笠井職業女学校を終えて、本科師範部3年に編入学した。卒業の年の2月、岡崎師範で小学校専科正教員と尋常小学校正教員の試験検定をうけた。その年度の本科師範部卒業生は51名であったが、一度で検定をパスしたものは15名であった(寺田たつさん談)。
昭和10年3月の『愛知県学事要覧』に示された安城女子職業学校卒業者総数76名のうち、本科家政部の卒業者は34名であり、本科師範部の卒業者は42名であった。実に、その42名の卒業者のうち40名が教職についたのである。本科師範部における教員養成の成果が、すさまじい程の勢いで実って来ていることを、これは如実に証するものということができよう。
これらの卒業生たちは愛知県内はもとより、それぞれの出身地に帰って教職について活躍し、師範学校の卒業生をしのぐ働きで、本校卒業者の名声を、いやがうえにも高からしめたのである。
ちょうどこの頃、三重県庁の学務課の女教師指導部長からの依頼があって、三重県下の女教員23名を2泊3日にわたって、本校の寄宿舎で寄宿生と寝食を共にさせたことがあった。その指導部長が、本校卒業生の礼儀正しさと、骨惜しみしない勤労精神に感動して、わざわざ女教員を派遣して、本校における教育の実態を視察させ、現職教育を行ったのである(『安城学園45年史』)。先輩諸姉への評価が高まれば高まるほど、後輩の職場進出をさらに拡大することにつながったのである。
この検定試験は相当きびしいものであった。本科師範部においては、学校生活の目標はすべて検定試験に合格して教員資格を取ることにあった。そのため日夜一生懸命勉強してその大半が合格し、それぞれ郷里に帰って各地で教職についていった(昭和13年3月本科師範部昭和14年3月専門別科卒法月なかさん談)。

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