大平洋戦争も末期に近づいた昭和19年12月7日午後1時36分、西三河地域は激震に襲われた。震源地は志摩半島さきの海底で、これを東南海地震といい、余震は2週間のあいだに206回を記録したほど大規模なものであった。この日学校で授業を受けていた生徒は避難したが、連絡で校内を歩いていた生徒の一人は、渡り廊下の倒壊で梁の下敷になってしまった。この時、故寺部二三子先生が陣頭指揮をされ、教職員生徒は必死に取除き作業を行い直ちに病院へ運んだが不幸にも尊い生命を奪われてしまった。その後校舎の修理は資材、人夫の不足からそのままになっていたところ1か月後に前にもまさる激震が来て、全校舎が半潰の状態になってしまった。この地震は、翌20年1月13日午前3時38分、名古屋気象台の「地震調査資料」によれば震源地は三ヶ根山附近で、三河湾沿いの幡豆、碧海のいわゆる西三河地方の被害が最も大であった。この頃工場へ動員中であった学生たちは、寮の非常口の鍵があかず戸を叩き割ってやっとのことで逃げ出し、その後も余震が強く続いたため、1週間にわたって氷付くような野天のテントで寝起きするような経験をした。事実この余震は1か月以上人心を不安に陥れたが、この三河地震にはどれほどの被害があったものか、その状況は判明しなかった。それは民心安定と軍事上の機密を守るためか、新聞、ラジオなどで大きなニユースに取り上げられず、報道の自由も押えられた時代であった。