第1節 国際化への対応―環太平洋構想のもとに

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国際化、情報化、女性の時代
昭和57(1982)年4月、安城学園女子短期大学の名称は、愛知学泉女子短期大学と改められ、同時に、短期大学の5つ目の科である国際教養科が発足した。本学の国際教養科は、わが国の大学、短大を通して、最初に設けられた科であり、本学園の教育の基本である先見性を立証するものである。
愛知学泉女子短期大学は、最近の10年間を、国際化、情報化、女性の時代という、3つのキーワードとともに歩んできた。
「国際化」について言えば、人の面に限ってみても、海外旅行者の数は、この20年間で100万人から1,000万人以上へと、実に10倍に増大している。海外から日本へ流入してくる人々も、激増している。
「情報化」について言えば、NHK教育テレビで「マイコン入門講座」が始まったのは、57年4月であった。以来、パソコンやワープロが急速に普及しはじめ、ファミコンもブームになった。59年にはキャプテンシステムの実用サービスも開始された。
「女性の時代」について言えば、平塚らいてうたちが「青踏社」を結成し、女性解放を謳ったのは、本学園創立のわずか1年前であった。このことからも、今日、女性の時代と呼ばれる時代を迎えて、本学園創立者の思想とその実践の先見性は際立っている。女性の時代の象徴は、60年成立の「男女雇用機会均等法」であるが、その前年には、主婦のうち働く主婦の割合が50.3%と、専業主婦の割合を超えた。社会党の土井たか子氏が女性党首になったのは61年である。従来男性のみの職場であった分野への女性の進出はめざましいものがある。
以上、3つのキーワードに現われているように、大学をとりまく社会の環境は激しく変わったが、大学内の変化も、決して小さくはなかった。

1、寺部学長の環太平洋構想に基づき、国際教養科が設置され、カナダ・バンクーバーのカピラノカレッジなどとの姉妹提携を行い、語学研修プログラム、留学生交換プログラムなどを推進し始めた。学内的にも、国際化時代に対応した教育が取り入れられるようになった。
2、情報化社会への対応として、ワープロやパソコンの操作法をカリキュラムに取り入れ、基本的な教養と位置付けた。また、各科で、専門教育に、パソコンを利用して展開する科目を導入した。
3、学年暦を改めて、夏期休暇前に、前期の授業は勿論、前期末試験も、終了するようにした。また、授業を週5日制とし、さらに科目選択制を導入した。
4、「短大設置基準」が改正され、それに基づいて、カリキュラムの自由化、自己点検、評価などが行われることになった。

国際化への本学の対応
まず、「国際化」という側面から、最近の愛知学泉女子短期大学の動きを振り返ると、以下のようである。
本学における国際化教育は、57年の国際教養科の設立に始まる。その基本理念は、寺部清毅学長の「現太平洋構想」と名づけるべき、その前年3月に発表された「国際教養科の新設と太平洋時代の幕あけ」と題する一文に見出せる。

「現代の世界情勢を俯瞰するとき、最近、とみに目にとまる一つの現象がある。それは、太平洋時代の幕あけといっても過言ではない世界の動きである。
産業革命以来、常に世界のヘゲモニーを握ってきた欧米を根幹とする太平洋圏文明が明らかに一つの転機に直面して、太平洋地域を中心に地殻変動を起こしてきた感が強い。
太平洋圏は異質の東西諸文化の共存地帯であり、その湾岸諸国には、ここ、2、30年来、民族的自覚によって政治的・経済的急成長がもたらされた後・中進国と、世界のリーダーシップを握るアメリカ、日本等の先進諸国がある。歴史的にみて、世界の悲劇は、東西両文化の接触結合が、いつも東西両文明の激突によって妨げられることから生起してきた。国際化時代の今日、東西両文化の融合は世界的課題であるといってよい。太平洋がマゼランによって未知の世界から開かれ、東洋と西洋との接触地帯として限りない可能性を解放してから久しいが、今日、漸くにして、東西両文化の融合地帯として世界の脚光を浴びることになったと考えられる。
太平洋時代の兆しは1面人々が物質重視の合理主義から人間尊重の合理主義へと目覚めてきたことを意味する。ブレジンスキーは、1969年に、『テクネトロニックス・エージ』の中で、アメリカは、すでに、合理的人間主義―科学と個体としての人に対する人間的配慮とを結びつけようとする―にますます基づいて行動する段階に移っていると述べているが、こうした時代においては、女性の社会参加は、一段と促進されることになると考えられる。この点において、80年代は女性の時代と云われるのもうなずきうるが、私達は大変な時代に遭遇しつつあるといえる。アルビン・トフラーは、『第三の波』の中で、80年代は、社会・技術・情報・権力の各体系等に革命的変化が起こることになろうと予言し、現にアメリカでは、家族・恋愛・雇用・労働の諸形態に、顕著な変化が進行していることを述べている。
通常、ひとつの時代が新しい時代へと変革する時には、その前兆として諸々の矛盾や亀裂による諸現象が、いろいろな面において、時に深く、時に浅く起こるものである。一見、無縁と思える現象も、視点を新たにして洞察すれば、質的変化の一環であることが多い。80年に起き、世界の耳目を揺り動かした諸事件の多くが、太平洋中心であったことは、決して偶発的偶然なことではなく、現代文明の変革過程における条件整備の道程において起きた諸現象とむしろ考えるべきことと思われる。
以上のように、太平洋時代の兆しが明確に現われつつある現在、本学は、国際教養科の新設を決意した。昭和57年4月に発足予定の新学科は、アメリカとアジアの地域研究を基軸にした教育課程のなかで、鋭い時代感覚を身につけた教養女性の養成を意図している。国際性をより豊かにしつつある本地域において、国際教養科新設の企ては、太平洋時代の本格的幕あけに応わしいことと確信している。」

カピラノカレッジとの姉妹提携始まる
寺部学長の基本理念に基づく国際化対応の第一歩は、カナダ・バンクーバーにあるカピラノカレッジとの姉妹提携であった。
姉妹提携協定の調印式は、58年8月2日、カピラノカレッジにて行われた。当時の江川元偉教務部長、木村剛也事務局次長らが同地を訪問して、協定を結んだ。この協定に基づき、本学から学生約30名が、当地でホームステイしながら語学研修と地域研究を行い、同時に、カピラノカレッジからの学生2名を受け入れ、6か月間、本学で研修することになった。
協定に基づくプログラムは、58年から実施された。本学の国際教養科の学生23名、引率教職員4名が、7月30日から8月24日まで、カピラノカレッジで夏期研修を行った。また、カピラノカレッジからの6か月留学生が、同年9月から59年3月まで、本学で日本語や日本文化を学んだ。
平成4年の第10回までに、本学からカピラノカレッジでの夏期研修に参加した学生の数は、約290名に及んでいる。カピラノカレッジからの6か月留学生は、平成2年の第8回からは3名となり、4年度の3名を加え、合計21名になった。
その間、第5回の62年からは、本学からも、6か月留学の学生を2名(平成2年からは3名)を派遣することになり、平成4年度までに15名となった。名実ともに留学生交換の実現である。交換留学生たちは、ホームステイして、異文化の中で生活しながら語学研修に励むとともに、様々な授業を受ける。そこで履修した科目の単位は、母校での当該科目履修単位として認定されている。
本学とカピラノカレッジとの関係は、両大学のスタッフの相互訪問により、プログラムの更なる発展が企図されている。

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カピラノカレッジからは、協定調印後間もなく絵画担当のイーストコット教授が来訪され、本学の美術系教員と懇談した。63年2月には、ターナー教務部長(現在、カピラノカレッジ副学長)が来学された。ジャーディン学長からのメッセージも寺部学長に伝えられた。この時、寺部学長より、ジャーディン学長への来学要請がなされたが、これに対して、翌年の平成元年2月、ジャーディン学長夫妻が本学を訪れた。
両学長の話し合いでは、今後、教員の交換を進める、特に、教員の手による絵画などの作品展示会を開催する、カピラノカレッジへ日本語教員を派遣する、などの問題を検討することで、合意に達した。
本学からは、平成3年7月に、門奈仁之副学長が、カピラノカレッジを訪問した。ジャーディン学長との会談で、2年前に両学長間で合意していた懸案事項を具体的に推進することになった。すなわち、教員の交換プログラムを遂行する、共同の美術展を開催する、などである。
またこの時、平成4年の学園創立80周年記念式典に、ジャーディン学長夫妻を招待し、また同時に、協定調印10周年でもあるので、これを記念して、プログラムの推進に貢献のあったスタッフを招待したい旨が伝えられた。具体的には次のような内容である。
教員交換プログラムについては、4年5月に、カピラノカレッジからコリンズ教授が来学し、1か月にわたって、英語やカナダの歴史、文化などを講義する。また、本学からは、同年9月に、1名がカピラノカレッジで、1か月間、日本語などの講義を受け持つ。日加教員の美術展については、創立80周年を記念し、第2回教員美泉展を拡大した形で、4年11月10日から11月15日にかけ、名古屋市電気文化会館において開催する。その際、カピラノカレッジから2名の出品者を招待する。4年度にはこの他、ジャーディン学長夫妻の他に、研修生、留学生の指導に当初から携わっているマーリーン女史夫妻を招待する。
これらは順次、実現されていった。

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充実の度を加えた本学の国際化
本学の海外交流は、カナダのカピラノカレッジにとどまらない。
カピラノカレッジとの交流が始まって2年後の60年7月には、9名の学生が北京第二外国語学院へ、約4週間の短期留学に出発した。それ以後、平成元年を除いて、毎年、平成4年度までに7度にわたって、合計約40名の学生を派遣した。
また、平成2年には2名、4年には1名の1か年留学生を、同学院に送り出した。
ニュージーランドのキャリントン・テクニカル・インスティテュートへも、58年に8名、59年に12名の研修生を送っている。
シンガポールのインリンガ語学学校にも、58年に8名、平成元年に5名、派遣した。語学研修を受けるとともに、ホームステイしながら異文化を体験した。
本学の国際化は、アジア諸国からの留学生にもみることが出来る。58年に、台湾からの留学生、李麗娟が服飾科に入学したのが始まりであるが、以後、毎年のように入学生がある。
彼女たちは、いずれも、正式な学生として入学し、本学の学生と席を並べて学び、卒業する留学生である。この他に、正式な入学生ではなく、半期または1年に1ないし数科目を受講する聴講生(平成4年度からは、「科目等履修生」という名称となった)も数名が在籍している。

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平成3年10月には、「安城学園私費外国人留学生の奨励金に関する規定」が出来、同年10月より施行された。留学生にとっては、従来の県からの奨励金に加えて、本学園から、授業料、教育充実費の40%に相当する額の奨学金が支給されることになり、大変有利となった。これも、国際化への対応としては画期的な基石となるであろう。
一方、50年3月に第1回が実施されたヨーロッパ研修旅行は、在学生は勿論、卒業生でも参加出来る、開かれた企画である。参加する学生の希望などにより、研修先、見学コースを変えて実施されてきた。
51年度(52年3月)は実施されず、52年度は、8月に実施された。53年度の第4回以後は、ずっと3月に実施されてきた。ただし、平成2年度の第16回(平成3年3月)は、企画され、参加者募集も行われ、引率者も決定されていたが、湾岸戦争の影響が心配され、直前になって中止された。
ヨーロッパ研修旅行の参加者は、少しずつ増大する傾向にある。平成2年3月の第15回は、2班に分かれて実施、52名が参加、4年3月の第17回は1班で実施、参加者は57名にのぼった。

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