本学園は、寺部清毅理事長の強力な指導のもとに、学園財政も軌道に乗り、順調な発展の段階に入っていった。 一方、学園をとりまく社会は、情報化、国際化の進展が目覚ましく、教育環境は大きく変化していった。 そうした変化に対応すべ […]
経営学部の増設 昭和54年以降の第二次ベビーブームによる高校卒業生の増加、そして大学、短大志願者数の急増傾向は、55年頃から徐々に、その傾向を強めていった。量的な拡大の時代の始まりである。また同時に、国際化や情報化の進展 […]
環太平洋構想のもとに国際化へ対応 昭和57年4月、安城学園女子短期大学の名称は、愛知学泉女子短期大学となり、この時、それまでの服飾、生活、家政、幼児教育に加え、国際教養科が発足し、5科体制となった。 新設された国際教養科 […]
主体的な教育づくりの展開 安城学園高等学校においては、58年度に学園長を兼務する寺部清毅校長に代わり、桜井梅弘氏が校長に就任された。 この頃になると、高等学校教育のあり方は、高校入学者の急増急減期の前兆が顕著に現われ始め […]
大学進学で成果をあげる 岡崎城西高等学校では、56年4月、校長に富田太氏が就任されたが、57年から63年にかけては、全県的に、生徒数の急増期であった。 岡崎城西高等学校においては、57年9月に創立20周年を迎え、記念式典 […]
学園の幼稚園においては、桜井幼稚園を除く2幼稚園において、57年4月の大学、短大の名称変更に伴う一連の名称変更があった。新たに、愛知学泉大学附属幼稚園、愛知学泉女子短期大学附属幼稚園として、新たな歩みを開始することになっ […]
経営学部の設置により総合大学へ 基盤確立期から発展期に入った愛知学泉大学では、家政学部に加え、新たな学部を増設し、総合大学への歩みを画するという、大きな動きが生じることになった。すなわち、経営学部の設置である。 愛知学泉 […]
本学独自の家政学を求めて 愛知学泉大学の家政学部においては、この頃、長期に及ぶ考究の末に、家政学のあり方を巡る大きな転換の時期を迎えようとしていた。 本学の創設以来、家政学部は、いわゆる一般家政学(General Hom […]
2学部制のなかでの大学運営 愛知学泉大学においては、経営学部の増設を契機として、教授会は、学部独自のものに加え、両学部教員による合同教授会、さらに短大との連絡教授会の3本立てで行われるようになった。 部長人事においては、 […]
中国との交流 愛知学泉大学では、昭和62年(1987)4月の経営学部発足以来の重要課題である国際化、すなわち海外大学との姉妹校提携の課題が次々に具体化した。 姉妹校提携の課題については、焦点を中国とアメリカに絞った。中国 […]
就職課の設置 経営学部においては、平成元年(1989)4月1日には、昭和62年度に入学した第1期生は3年生になり、就職活動を考慮しなければならない時期が到来した。 経営学部教授会は、63年10月に、池田英2教授を部長とす […]
日中企業比較研究 本学経営学部において、最近の関心事は、日中企業比較研究である。 これは、平成3年(1991)10月30日に、寺部清毅本学学長および共同研究プロジェクト日本側代表高橋厳教授と、中国の国家経済体制改革委員会 […]
岡崎学舎に体育館が完成 愛知学泉大学の岡崎学舎においては、学園創立70周年の記念事業のひとつとして、昭和57年(1982)11月、3階建ての管理棟が増設された。岡崎学舎の既設管理棟の西側に隣接し、正門を入って真正面の位置 […]
国際化、情報化、女性の時代 昭和57(1982)年4月、安城学園女子短期大学の名称は、愛知学泉女子短期大学と改められ、同時に、短期大学の5つ目の科である国際教養科が発足した。本学の国際教養科は、わが国の大学、短大を通して […]
パソコン、ワープロの導入 情報化社会とは、情報を生み出し、情報を扱うことが産業として成り立つ社会のことであると言える。その前提として、ハードウエアの面では、放送衛星、通信衛星、ワープロ、パソコンなどの普及が必要であるが、 […]
多くの改革点 昭和57(1982)年からの10年間に、18歳人口は増大し、大学進学率も徐々に上昇してきた、教育の量的拡大期であった。しかし、平成4年の205万人をピークに、18歳人口は急激に減少していくことになる。 それ […]
学校目標のもとに主体的な教育づくり 安城学園高等学校においては、昭和58(1983)年度に、学園長を兼務する寺部清毅校長に替わり、前熱田高校校長の桜井梅弘氏が校長に就任した。新校長の就任は、私学危機の局面を目前に、新しい […]
新校舎の建設と制服の改訂 昭和62(1987)年度の創立75周年を期して、全面的な校舎改築、斬新な制服改訂、積極的な入試政策、自主活動の育成など、主体的な教育づくりの大きなうねりが起こった。このなかで、本校は大きく変貌を […]
私学危機のなかで 平成元(1989)年度は、高校入学者急増のピークに当たり、公立高校入試では、複合選抜制度が採用された。平成2年度以降、急減期を迎え、私学危機が現実的課題となった。 本校では、生徒募集対策として、学校案内 […]
生徒数急増期にあって新たな出発を期す 男子校の岡崎城西高等学校においては、昭和56年(1981)4月に、富田太先生が校長として就任した。長年にわたる県内公立高校長としての実績が高く評価され、3年間の安城学園高校の校長を務 […]
進学の実績上がる 岡崎城西高等学校は、進学校としての社会的評価が次第に高まってきた。 昭和62年(1987)度の大学入試においては、本校創立以来の大量の合格者を記録した。 その内訳は、東北大、金沢大、名古屋大などの国公立 […]
夏山合宿 本校の独自な行事の、3年生全員参加の北ア登山の夏山合宿は、営々として、続けられている。 現代の若者は職業選択の際、「きつい、きたない、きけん」な職業は極力避け、楽で、清潔で、危険性の少ない仕事につきたがるという […]
運動部の充実 岡崎城西高等学校の運動部は、55年度(1980)には、栃木国体で、陸上競技部の山本久義君が100メートルに優勝、同年度の冬の全国高校選手権においては、サッカー部が第3位になるなど、顕著な活躍であった。 運動 […]
推進委員会 岡崎城西高等学校では、26年間にわたって育んでくれた校舎の終焉、そして、新たな城西高校の胎動、という出来事があった。 創立1年後に建てられた校舎は、建物が老朽化し、旧い建築構造のため、使用上の不便さがあった。 […]
新園長の就任 安城学園の幼稚園においては、名称変更、新園長の就任、増改築などの動きが続いたが、その一方で、幼児教育のあり方の探求も一段と充実し、今日に至っている。 最近の主な動きをみると次のようである。 名称変更 まず、 […]
教育理念 教育理念 3幼稚園の教育理念は、「豊かな心身の育成と潜在能力の開発」にある。学園の建学の精神である「真心・努力・奉仕・感謝」の四大精神に基づき、“遊び”を通して、豊かな心と健やかな身体を育むとともに、子ども達の […]
入園式 期待と不安の入園式 期待と不安で一杯の新入園児の子ども達、新しい制服に身を包み、胸には“おめでとう”の花、嬉しさ一杯である。式が始まると、名前を呼ばれ、元気よく、「ハイ」と返事が返って来る。とても新鮮である。建学 […]