第2節 進学校としての評価の高まり

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進学の実績上がる
岡崎城西高等学校は、進学校としての社会的評価が次第に高まってきた。
昭和62年(1987)度の大学入試においては、本校創立以来の大量の合格者を記録した。
その内訳は、東北大、金沢大、名古屋大などの国公立大学に、69名が合格。早稲田大学、明治大学、立教大学、法政大学、関西大学、関西学院大学、立命館大学など、有名私立大学に449名、この年に新設された系列校の愛知学泉大学の経営学部へは、83名が合格した。生徒急増期に伴う周辺の公私立高校の学級増、高校新設ラッシュのなかにあっての快挙であった。

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参考までに、この頃に新設された周辺の高校は、58年度に安城南高校、豊田高校、三河高校。59年度に岡崎西高校、豊田大谷高校。61年度に豊野高校、知立東高校の各校である。
本校が、生徒の大学進学において、量質ともに大量の合格を出し、進学校としての社会的評価を高めた要因としては、学校長の陣頭指揮のもと、入試委員が「大学進学なら城西へ」と、積極的な募集活動を行い、進学を志す優れた生徒を集めることが出来たこと、さらに、大学進学のためのコース別教育課程と、本校教員の熱心な指導が効を奏したことが挙げられる。
続いて、63年度には、国公立大学66名を含む483名と、ほぼ前年に準ずる大学合格者を出した。
その後、公立高校の学校群制度の実施という悪条件の中にあって、本校の国公立大学合格者数は、30名から40名台を維持し、今日に至っている。
なお、平成2年7月には、本校の進学指導体制を支えてきた教育課程に、私学振興室の指導が入り、芸術と体育が文部省学習指導要領に定められた規定の単位を満たしていないとの指摘がなされた。
そこで、とりいそぎ、2学期以降、規定の教育課程に組み直した時間割での授業を行うとともに、2・3年生を対象に、夏休みと冬休みに、該当教科を補充した。
大学進学クラスの生徒たちにとっては、打撃であった。受験勉強に集中すべき大切な時期に、芸術と体育の補充授業をやらざるを得なかったからである。それにもかかわらず、この年度、大学合格者は、国公立大学49名を含む434名という成果をあげた。

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本校における、57年度から平成3年度までの10年間の、4年制大学への合格者総数は、3,887名である。前半の5年間(57~61年)と後半(62~平成3年)のそれとを比較すると、後半の5年間は、1.3倍の増で、国公立大学合格者だけでは、2.7倍の増加である。
「大学進学なら城西へ。城西は他校のような各駅停車ではない。新幹線のひかりである。他校より早く目的地に着く」と、中学校の進学説明会で学校長が本校の進学指導の実際を述べられたごとく、本校は着々と進学の実績を上げている。

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海外大学への進学生も
60年から平成3年にかけては、大学進学における特異な現象として、海外の大学(海外の日本校も含む)、および国内の外資系大学への進学者が増加した。平成4年度には、ハーバード大学、スタンフォード大学、UCLAに合格した長浜秀幸君など、米国大学への合格者が出た。1昔前までは思いもよらないことで、教育の国際化として、よろこばしいことである。この現象は、今後ますます進むであろう。

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その先鞭をつけたのは、本校の21回卒業生で、外国留学第1号の市川廣之君である。平成元年秋、4年間のアメリカ留学を終えた市川君が卒業証書とカレッジキャップ姿の卒業写真を持って本校を訪れた。高校時代は、どちらかといえば控え目で言葉少なの彼であったが、留学の動機やアメリカでの生活を饒舌に語った。4年間の留学生活が彼に自信と積極性をつけたのである。以下は同君の手記である。

「昭和60年5月、アメリカへ出発した。留学先は、ジョージア州のラグランジェ大学である。アトランタから約200キロ南の、広大な綿畑に囲まれたラグランジェの町にある小さな大学であった。ラグランジェは、人口約2万の典型的な南部の農村で、大学も学生数約1,000名という規模であった。留学先として、何かと誘惑の多い都会の大学を避けたのも、学業に専念し、必ず卒業しなければという気持ちと、父親の、田舎の大学へという強い要望を受け入れたからである。
岡崎を出て、33時間。シアトル経由でアトランタ空港に到着。これから5週間のホームスティでお世話になるエドワーズ夫妻の出迎えを受け、彼等の自宅へ。たまらなく暑い日であった。アトランタの街並を走る車のなかで、親元を離れた心細さと、これからやっていけるのかなあという不安があった。世話好きで、愛想の良いご夫婦は、遠来の孤独な日本の学生に、いろいろ気を遣ってくれた。しかし言葉がわからない。イエス、ノーが応えられない。1週間でホームシック。父親はとにかく、『3ケ月で挫折するのでは』と噂した周囲の人々の顔が浮かぶ。泣き言を並べた手紙への父親からの返信に励まされながら、『3ケ月の我慢。3ケ月我慢が出来たら、1年頑張れる』と自分に言い聞かせた。
アメリカの大学は、学業成績のチェックが厳しい。少しでも怠けると、留年につながる。進級、卒業に最も早道なのは数学だと、見通しをつけて専攻科目に選んだが、文系の私は、かなり苦労しなくてはならなかった。ぶ厚い専門書を渡され、翌日の講義に備えよ、という課題もよく出された。あれやこれやで、2週間に2、3回の割で、徹夜した。入学は容易だが、卒業は難しいのだ。
大学は、1年の半分が休暇である。勉強で苦しんだ反動もあり、よく遊んだ。車で友人たちと、フロリダ半島のドライブを何度も楽しんだ。演劇部の観劇研修につき合って、ニューヨークへも行った。
アメリカは自由の国である。しかし、自分に課せられた責任を確実に果たしたうえでの自由であること(当然ではあるが)を勉強と遊びを通して実感した。学寮で同室であったロブや友人のリーが懐かしい。4年間の留学生活は、今思い出すと、夢のようである。」(市川君は現在、テック電子(株)の人事部に勤務されている)

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