第1節 揺籃期の専門学校

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安城女子専門学校の学則を見ると「本校ハ女子ニ高等ナル学術技芸ヲ授ケ人格ノ陶冶、婦徳ノ養成、国体観念ノ涵養ヲ為シ兼テ中等教員タラントスル者ヲ養成スルヲ以テ目的トス」とある。まさに専門学校設立の目的は中等教員の養成にあったのである。それは職業学校が一貫して追求して来た教員養成の成果を踏まえて、更に飛躍しようとする設立者の熱意の現われであった。女専には当初から修業年限3か年の本科と修業年限2か年の別科が置かれ、本科の卒業生には無試験検定で尋常小学校本科正教員と小学校の裁縫科・家事科専科正教員の資格が与えられた。本命の裁縫科中等教員免許状については無試験検定により下付されるよう認可を申請したがその認可をうけるまでにはなお幾多の紆余曲折があった。別科の卒業生には小学校の栽縫科・家事科の専科正教員の免許状が無試験検定で下付された(昭和11年刊『校報』所載の学則)。

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当時の愛知県視学久野新松氏は寺部だい先生と同郷の桜井村出身でしかもだい先生の従弟寺部与市氏と岡崎師範で同期生であり本校に対してなみなみならぬ厚意を寄せられた。久野氏は、本校の女専設立については時期尚早論を説え寺部三蔵先生と同調してだい先生のはやる心を諫めることも再々であった。その時期尚早論の論点は財団法人安城女子専門学校の財政的脆弱性と折しも募りつつあった農村不況の嵐の中で進学率の伸びがあやぶまれるという地域性とにあった(久野氏談)。それをおして設立を強行した女専であったが、危惧されたとおり、生徒の募集難は深刻であった。ちなみに女専卒業者数を見ると昭和6年3月には本科5名、別科4名、同7年本科3名、同8年本科6名、同9年本科4名、同10年本科3名、といった状況で、女専の全生徒数もやっと10名を越える程度であった。
その数少ない生徒も、はじめのうちは山崎延吉校長の人徳と広範な活動に負うところが多かった。女専第1回の卒業生として昭和6年3月に巣立った橋本咲さんは、山崎先生と同じ石川県の出身であった。橋本さんは昭和3年3月に七尾高等女学校を卒業して、女専の前身として発足した安城女子職業学校の専門部家政科に入学した。当時の七尾高女の校長の奥さんは、山崎先生のご令妹で、橋本さんの本校への進学についてもその関係が強かった。また、橋本さんと同期に2名の朝鮮からの留学者があったが、それも、山崎先生の朝鮮行脚とつながりのあるものと考えられる(橋本咲さん談)。
昭和6年の記録によると専門学校の授業料は年額77円、入学考査料3円、入学料3円となっている。なおその当時米1俵の値段は7円であった。
女専設立によって中等教員養成への道が開かれたのを機に、職業学校における教員養成についても改善を加える必要が生じた。従来高女卒業者に対して1か年の修業年限で、尋常小学校本科正教員の資格を取らせていたが、1か年では十分な教育を施せないうらみがあった。そこで、昭和7年4月にはこの高等師範科を廃止して、新たに本科師範部を置くことにした。本科師範部の入学資格は、高等小学校卒業者または、それと同等以上の学力を有する者とし、修業年限3か年とした。とくにこの入学資格において特徴的なことは、年令の制限をつけなかったことである。そのため、教員資格取得をめざす高等女学校の卒業者などが、全国各地から集まって、年齢差も著しかった(『安城学園45年史』)。この特徴は、前身の高等師範科においても顕著であり、昭和6年3月に高等師範科を卒業した花岡いわをさんは、長野県の諏訪から一家の再興のため、夫と、3人の子供を郷里に残して本校に学び夏休み中も帰省せず刻苦勉励した39歳の人妻であった(『校報』昭和11年刊)。
本科師範部卒業者には修身、教育、音楽の3科目について臨時試験検定によって尋常小学校本科正教員資格を取らせ他に小学校裁縫科専科正教員の試験検定を取らせたがその場合実技、理論の試験は免除された。この本科師範部設置によって、尋常小学校本科正教員と小学校専科正教員養成のコースが確立したといってよかろう。このコース設置のもう一つのねらいは、従来高等師範科へ入学する者の多かった高女卒業者を、生徒募集に悩んでいた専門学校にできるだけ多く吸収しようというところにあったと考えられる。

本科師範部の教育内容は、その本来の目的を反映して、裁縫科教授法を軸にさらに教育史、教育学、心理学、音楽など教員資格試験に必要な教科をとくに重視したものであった。
本科師範部の設置と同時に、従来の本科を本科家政部と科名を変更した。本科家政部は昭和2年に実業学校令職業学校規程によって組織がえされた職業学校の主流であり、小学校卒業者を入学資格とし、修業年限を4か年とするものであった。従って本科家政部は専門学校の下部教育機関として位置づけられており教員養成を目的とはしなかった。
その教育内容は、実科高等女学校の要目に準じながらも、つぎのような本校独自の特色を示している。

1、学期ごとに自由材料が要目にあげられていた。仕立直し、廃物利用など更生に力を入れ、基礎より応用へと創造性の伸長をはかった。
2、既習材料速縫い、既習材料復習 「既習材料にて練習」を中心とし、質素倹約をモットーに教材の2回使用、仕立直し、繰廻しを重視した。
3、母姉の仕立直し、弟妹の仕立直し 仕立直しによって家族の衣類調整の能力を養なった。
4、服装研究、着付研究、衣服材料研究 理論的裏付けを重視したことがうかがわれる。
5、ミシン 実科高等女学校要目では普通第3学年の中間に位置づけられていたが、本校では入学間もない1学期に運動着袋、体育の服装、ブルマー、ユニホームを教材としてミシンに習熟させた。

本科家政部の卒業者にも小学校裁縫科専科正教員の試験検定のさい実技、理論の試験は免除され尋常小学校准教員免許は無試験検定によって下付された。
入学については高等小学校2年卒業後本校の本科家政部の3年に編入するものもあり、本校の本科家政部4年を終了して本科師範部に編入学するものもあった。別に選科(尋小卒、修業年限1か年)が置かれていた。
昭和の初め頃は袴(紺または黒のサージ)に、二部式(上下に分れたきもの)の上着(紺色)を着用していたが時代の推移とともに和服ばかりの時代は過ぎた。専門学校生徒は袴を着用し革靴をはいて通学していた。職業学校は昭和7年入学生よりセーラー服に襞スカートが制服として定められた。上級生の大半はまだ和装であり移行措置として和洋入り混じっていたが次第に洋服へと移行していった。セーラー服は夏服、冬服とありカラーには白線2本、白い衿カバーをつけ白絹の幅広いネクタイをつけた。この頃より持ちものは風呂敷から布製カバンへと洋風化されていった。頭髪はおぐるに巻いていたが次第にセーラー服にふさわしく三つ編みにかわった。

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